恋にまっしぐら
その12 運転は慎重に




1時丁度くらいに、家の前に車が停まった。
支度を終えて家の前で待っていた亜衣莉は、見慣れぬ車に戸惑ったが、運転席から降り立ったのは、やはり聡だった。

「車が違うので、驚きました」

車に乗り込んで亜衣莉は言った。

「母の車なんだ。母はたまにしか使わないから借りてきた。わたしの車は教習所のものとタイプが違うんだ」

相手から提案されたとはいえ、こんな風に甘えてしまってよかったのだろうかと思わないでもないが、もちろん、これで免許が取れればとても助かる。

「星崎君は、なんて言ってた?」

「それが、いませんでした」

「いなかった?」

「ジェイさんがいらして、一緒に出かけたみたいなんです。わたしの書き置きの下に、長々と色々書いてありました」

「ジェイが?そうか」

その文面を思い出して亜衣莉は笑いを堪えた。
探しに行ったお店のリストを書き、せっかく美味しいものを食べさせてあげられると思ったのにと、姉の無念さがよく伝わってくる文章だった。

けれど、もし亜衣莉が家にいたら、ふたりは外食してはいないだろう。
彼女が作って食べさせただろうから。

「君は、ちゃんと食べたのか?」

「はい」

「何を食べた?」

「…」

「何を食べた?」

「どうして答えなくちゃいけないのか、分からないんですけど…」

「わたしが聞きたいからだ」

傲慢な言い方に、珍しく亜衣莉はカチンときた。

「なら、わたしは話したくありません」

「どうせ、適当なものを適当に食べただけだろう」

亜衣利は頬を膨らませた。

「ひとりだと、作るのが面倒なんです」

「そうかな?」

亜衣莉はむっとした顔で、聡を睨んだ。だが運転している聡は亜衣莉の睨みに気づかない。
暖簾に腕押しの心境で、なんとなくむしゃくしゃした。

何を食べたかなんて亜衣莉の自由だ。
それに、一人きりのときは食材を節約するのは当たり前のことだ。

「甘いものは好きか?」

突然の問いに、亜衣莉は拍子抜けした。
意見の食い違いで、やり合っていたはずが…

「…え?好きですけど…」

聡が無言で頷いた。


連れて来られたのは、大きなビルの駐車場だった。
入り口の門に刻まれた名前で、美紅の勤めている会社だと分かった。

「ここなら安心して練習できる」

「でも、いいんでしょうか?守衛さん、怪訝そうでしたよ」

「いつもと違う車に、わたしが乗っていたからだろう」

聡はそう言うと、亜衣莉に車の各部の名称とともに、基礎的な仕組みを教えてくれた。

「まっすぐに走るなら、運転はとても簡単だ。オートマでいいんだろう?」

「はい。ミッション車とオートマチック車があるんですよね」

「そう。オートマは、遊園地のゴーカートと同じだ。アクセルを踏めば走る」

「わたし、ゴーカートにも乗ったこと無いんですけど…」

亜衣莉の不安げな表情に、聡が抑えた笑いを洩らした。

「誰でも一番最初ははじめてなんだ。怖がることは無い。それじゃさっそく運転してみよう」

運転席に収まり、亜衣莉はこのところ味わったことが無いくらい固く緊張した。

こんな大きなものを自分の意志で動かすのだ。とてつもないことをするという感じがする。

「いいか。車のハンドルは少し動かすだけで左右に動く。まっすぐ走ってからこの程度動かしてごらん」

教えてもらった手順で操作し、ブレーキから足を上げるとすーっと車が動き出した。

「う、動いたわ。伊坂さん、な、なんか、感動です」

「それは良かった」

亜衣莉の感動には不釣合いな聡の相槌。亜衣莉はむっとした。

「分かち合おうと言う気持ちはないんですか?」

「え?…ほら、ぬるぬる動いてないで、アクセルを踏め」

ぬるぬる…

聡の言葉にカッチーンと来た亜衣莉は、腹立ちをアクセルとやらに注ぎ込んだ。

「わあっ」

車が凄い勢いで走りだし、真っ青になったものの亜衣莉はブレーキを踏んだ。
急発進急停車したために、首がガコンと前後に揺れた。

「亜衣莉」

「は、はいっ」

亜衣莉は叱責を覚悟して首をすくめた。どう考えても亜衣莉の過ちだ。

「大丈夫か?わたしの教え方が悪かった。すまない」

「え?」

「アクセルも少しずつ踏み込むんだ。いいね」

首の後ろを撫でながら聡は言い、聡の反応に驚いている亜衣莉に振り向くと、彼女の首の後ろに触れてきた。

「首は大丈夫か?鞭打ちになってないだろうな」

顔から火が出そうだった。自分の行い、そして首に触れている彼の指の動き。

「だ、大丈夫です」


その後の練習は、とてもうまく行った。
車の操作は彼女が思っていたほど難しくは無いようだ。

「技能試験と学科試験があるんですよね。それを運転免許の試験場で受験するわけですよね」

「ああ、でもまずは仮免許の試験だ。やはり学科と技能試験があって、その両方に受かると、路上での練習が出来るようになる。路上練習を一日2時間、五日間以上行って、路上練習申告書を作成して持参するらしい」

「お詳しいんですね」

「わたしの弟も、同じ方法で取得したんだ」

「そうなんですか。ほっとしました。こういうケースは稀なのかなって思ってたので。案外多いんですね」

「どうだろう。少数ではあると思うよ」

「伊坂さんは?教習所で…?」

「いや。わたしは18までイギリスにいたから、向こうで取得したんだ」

「…イギリス」

「ああ、親の仕事の関係で10年ほど…。技能試験は、色々なパターンがあるんだ。左右の確認も重要だが、クランク、坂道発進、車庫入れ、縦列駐車が難しいかな。教習所みたいにそれら設備はないから、雰囲気でやるしかない。亜衣莉、どうした?」

唖然としていた亜衣莉は、名前を呼ばれて正気に返った。
ふたりの間に壁を感じた。亜衣莉とは、住む世界が違うひと…

「あ…え…その、やはり、技能試験は難しいですか?」

「まあ、簡単とは言えないかな。技能試験には、助手席だけでなく後部座席にも、試験官が乗り込んで立ち会うらしいし…」

「試験官…考えただけで緊張しちゃいます。受かりそうもないっていうか…」

「亜衣莉、まだ初日だぞ。わたしがついている。大丈夫だ」

なんだかほんとうに大丈夫だと思ってしまうほど、確信を感じさせる聡の言葉だった。
亜衣莉は笑みを浮べて頷いた。





亜衣莉には何も言わずに聡は車を喫茶店の駐車場に入れて停めた。

「お茶してゆこう。時間はまだいいだろう?」

「それはいいですけど」

亜衣莉は聡が降りた後、車から降りた。

洒落た喫茶店の中に入り、ふたりは窓際のテーブルに落ち着いた。
亜衣莉は公衆電話を探して店内を見回した。

「どうした?亜衣莉は何がいい?」

「えっと」

亜衣莉は聡が彼女の向きに開いている写真つきのメニューを見つめた。
どの盛り付けも豪華で、わくわくするほど美味しそうだ。だがその値段もすばらしく豪華だった。

亜衣莉はありえない金額に目を見開いた。パフェひとつが千円近い。

「わ、わたし、紅茶でいいです」

聡が眉を上げた。

「紅茶?それなら、ケーキがいいかな」

「い、いえ、紅茶だけでけっこうです」

聡が何かを悟ったような目を亜衣莉に向けてきた。途端に、亜衣莉の頬が熱くなった。

彼は注文を取りに来たウエイトレスに向いた。

「それじゃ、これとこれ。わたしはカプチーノを…」

「あの」

聡が亜衣莉を黙らせるように、テーブルにおいていた彼女の手を握り締めた。

「太るのを気にしなくていい。太った君も可愛いだろうからな」

明らかに冗談と分かる口調だ。そして、彼がそう口にしたわけも、亜衣莉は瞬時に理解した。

「すみません」

唇を噛んだ亜衣莉は、思わずそう言っていた。
自分が情けなかった。
金額にこだわらず、楽しみを素直に受け入れなさいと、彼の瞳は言っている。

注文したものが届く合間に、亜衣莉は一度姉に電話するつもりだった。

「ここ。公衆電話ありました?」

「電話?携帯…ああ、わたしのを使えばいい」

亜衣莉は聡から携帯を受け取り、手のひらの上で珍しげに眺めてしまった。

姉が仕事用のものを持っているが、改めて触らせてもらう気持ちも無く、携帯そのもの、触るのはこれが初めてだった。

「分かるかい?」

「あ、はい。なんとか」

亜衣莉は考え考え電話を掛けた。呼び出し音が鳴る間、ドキドキした。

「まだ帰っていないみたい」

「楽しんでるんだろう。あのふたりは仲が良いから」

亜衣莉から携帯を受け取りながら聡が言った。亜衣莉は微笑んだ。

「そうみたいですね。姉は家でもジェイさんの話ばかりしてます」

「そうか」

「職場に友達が出来て、ほんとにほっとしました」

「まるで君は…星崎君の保護者みたいだな」

「昔から、姉は失敗の多い人でしたから、心配で」

その時、亜衣莉の前に、写真より豪華なパフェが置かれた。
亜衣莉は目を丸くして、ありえない大きさのパフェを見つめた。




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恋愛遊牧民G様
   
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