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その13 切なく諍い
家に帰って来てから寝るまでの間、お風呂に入った時間を除いて、美紅の話は止まることが無かった。
ジェイとの買い物の一部始終、荷物を車から部屋に運び込んだ経緯、そしてお昼に食べたおいしいお鮨のこと。
美紅の発散する明るさで、部屋の明るさが増しているような錯覚まで起こさせる。
感じたままの素直な表現をする姉と自分とを比べ、表面に出さないまでも亜衣莉は落ち込んでいた。
お金にばかり捕らわれすぎているだろうか?
楽しみを素直に味わえない、ひねくれ者になってしまっているだろうか?
けれど、ひとつタガを緩めてしまうと、そこから雪崩のようにいまの生活そのものが崩れてしまうような危機を感じてしまうのだ。
それとも、その危機感こそが、問題なのだろうか?
いくら考えても結論は出せなかった。
亜衣莉は自分の部屋のベッドの中に入っている、紙袋のことを思い出してため息を洩らした。
「亜衣莉ってば、どうしたの?」
「う、ううん、なんでもないわ。それで、夕食は美味しかった」
「もっちろん。あのねぇ、フランス料理食べたの。生クリームとかいっぱい入ってて、とろりとした舌触りでどの料理も美味しかったわ。わたしナイフとフォークの使い方が良く分からなくて、でも、ジェイが丁寧に教えてくれたから、なんとかなったの」
「良かったわね、美紅」
「今度は絶対に、亜衣莉も一緒に行きましょうね」
「わたしはいいわ。ジェイさんも、美紅とふたりきりの方が気兼ねなくて楽しいわよ」
「そんなことないわ。ジェイは亜衣莉をとっても気に入ってるもの。それに、ご馳走になったお礼をしたいって言ってたし。亜衣莉の作るご飯とっても美味しかったって、わたし自分が褒められたみたいに嬉しかったわ」
「ありがとう、美紅。…そろそろ寝ましょうか。もう11時を回ってしまってるわ」
「あ、ほんとだ。つい話しに夢中になっちゃって…」
美紅の話はほんとうに楽しかったし、喜んでいる姉の様子に嬉しさを感じた。
けれど、喜びの分だけ、自分と比較してしまう。
喫茶店を出て、聡は次に、何も言わずに携帯ショップに亜衣莉を連れて行った。
そして説明もせず携帯を購入した。
亜衣莉はベッドの上掛けをめくり、紙袋を手に取った。
受け取ってしまってよかったのだろうか?
パフェの後であり、色々考えていた最中だったから、つい受け取ってしまったが。
今考えると、常識の範疇を超えているとしか思えないのだ。
その時携帯が鳴り出した。
亜衣莉はぎょっとして携帯を放り出してしまったが、気を取り直して、まだ鳴り続けている携帯を取り上げた。
この携帯に掛けて来られるのはひとりしかいない。
「はい…」
「いま、いいかな?」
「はい。いいです」
「この携帯を受け取ったことを後悔してるんじゃないかと思って、電話したんだ」
「ピンポーン」
亜衣莉はため息をつきながらそう呟いた。聡がクスクス笑い出した。
「冗談で答えてくれるくらいなら、大丈夫そうだな」
「大丈夫じゃありません。やっぱり…」
「臨機応変にと言っただろう。人生はひとつの道で出来てはいない。君の選択によって道は変わる。選ぶ道が無いならそのまま歩くしかないが、選択できるのなら、自分にとって最高の道を選ぶべきじゃないか」
「伊坂さん、携帯ごときでずいぶんと饒舌ですね」
わざとひねくれた物言いをしたのに、聡は笑いで答えた。
こういうとこ、大人というべきか…。
それとも子どもの亜衣莉の言葉など、彼にとっては、笑いでかわせるような軽いものなのだろうか?
「携帯のことだけではないさ。君の、かけがえのない人生のことだ」
「どうしてそこまで、他人のわたしのためにしてくださるんですか?会って間もないのに…」
「どうして?」
聡は考え込んだようだ。ふたりの間に、しばらく沈黙が続いた。
「そうだな、君のことが…心配だからだろうな」
「わたしは、良く、ひとからしっかりしていると言われますけど…」
「だろうな。だからわたしは心配になるんだろうな。君は自分を抑えすぎてる」
「そんなことありません」
その言葉に含まれた怒りに、彼は気づいたようだった。
「たしかにわたしのやり方は強引だった。けど、君と連絡が取りづらいと困るだろう。携帯のこと、星崎君には言ったのか?」
「…言えませんでした」
携帯のことだけではない。彼が家に来たことからして伝えられなかった。
「そうか。それでも良いんじゃないか?」
「伊坂さんは、なんでも良いんですね」少し怒りを込めて言う。
「そんなことはない。良くないことは良くないと言うさ」腹立たしいほど落ちついた声だった。
どうしてか涙が出てきた。大人に勝てない自分への歯痒さだろうか?
恋人がいるんだそうですね。
そんな絶対に口にしてはならない言葉が、哀しみを含んで口から飛び出そうになる。
彼には、モデルの美しい恋人がいると、今夜、姉から聞いた。
今日のことすべて、彼の厚意。昨夜の礼にしては過ぎると思うが、お金持ちらしいから、彼にはなんでもない程度の礼なのだろう。
胸が息苦しかった。
亜衣莉は、風呂で、彼が触れた手首や腕や肩の部分を赤く剥けそうなほど擦った。
なぜそんなことをしてしまったのか、彼女自身、訳が分からなかった。
「亜衣莉?」
「はい。あのもう寝ますので…これで」
「亜衣莉?」
「はい」
「泣いて…ないよな」
「おかしなことを聞くんですね。泣く理由がありません。それじゃ」
思った以上に、固い口調になってしまった。
「あ、ああ。おやすみ、…」
彼は最後に、亜衣莉の名前を口にしたようだった。だが、亜衣莉は途中で切った。
わざとだった。その行為そのものに、亜衣莉は嫌悪を感じた。
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