恋にまっしぐら
その15 薔薇色の世界



美紅は、自分の世界の劇的な変化をはっきりと感じていた。
ジェイが現れてから、彼女の世界はいつでも楽しいものになった。

ジェイの眼差しがあれば、おどおどすることもない。
なにより、職場にいて、浮いている感覚がない。

360度スクリーンの中だった世界は、彼女にとって実在のものになり、美紅を受け入れていると感じられる。

ジェイはやはり天使なのだと思えた。
いったい彼は、どんな魔法を美紅に掛けてくれたのだろう?

いままでまともに話せなかった職場の同僚たちとも、普通に話せている自分。
楽しい会話に笑い声をあげながら、美紅は左右を見回した。

そろそろ昼食を食べに行くはずだが。

「あら…エバンスさんは?」

「彼か…いないみたいだな」周囲を見回しながら矢木が言った。

「彼なら、いまさっき、出て行ったぞ」

近くの椅子に座ってた同僚が立ち上がりながら言い、そのまま部屋を出て行った。

「お手洗いにでも行っちゃったのかしら?」

「ほ、星崎さん」

「はい。なんですか?」

「あ、あの。今日は僕と、食べないか?…昼飯」

矢木の申し出に、美紅は微笑みを浮べて首を振った。

「誘ってくださってありがとうございます。でも、エバンスさんと食べるので…」

「そ、そう…」

ひどく気を落とした矢木の様子に、美紅は気づかなかった。
彼女はジェイを探しに職場を出た。

何事なのか、廊下の一箇所に女子社員の群れがある。

「美紅、どこに行くんだ?」

俯いて素通りしようとした美紅は、探していた人物から呼び止められて振り返った。

群れのほぼ中央にジェイがいた。
彼は女子社員の群れを掻き分けて、美紅の方へとやってきた。

「いま、ジェイを探しに行こうとしてたの。もう…行ける?」

美紅はジェイの背後から彼女を見つめている視線を、極力見ないようにしながら言った。
かなり鋭い視線が向けられていることは、見なくても分かる。

「ああ、行こう。それじゃ失礼する」

集団から遠ざかり、美紅はほっと肩の力を抜いた。
この最近は、更衣室でもいまのような視線を向けられることが多かった。

女性社員の間で、ジェイはとても人気がある。
そんなジェイと仲の良い美紅は、彼女達にとって邪魔な存在だろう。

初めの数日は、ジェイについていろいろ尋ねられたりしたが、いまは彼女達から明らかに敵対視されている。

それでも美紅は、ジェイと仲良くするのをやめられない。
彼がいなくなったら、魔法が消えて、美紅は元のおどおどした自分に戻ってしまう。

「美紅、あの…」

ランチのトレーを置いて並んで椅子に腰掛けたところで、ジェイが言いにくそうに口ごもった。

「何?」

美紅はなんのしこりもない笑みを浮べて返事をした。その笑みをみて、ジェイは少しほっとしたようだ。

「あの、彼女達に何かされてたりとか…そういうのないか?」

美紅は口元をほころばせた。
彼女を気遣ってくれる、ジェイのやさしさが嬉しかった。

「ううん。そんなこと何もない」

鋭い視線も、あからさまな嫌がらせも、ちっとも苦じゃなかった。
ジェイと一緒にいられれば、どんなことがあっても、このしあわせは壊せない。


「美紅、今夜も夕食、付き合ってくれるかい?」

「もちろん。でも、今夜はわたしの家に食べに来て。亜衣莉はいくら誘っても、自分はいいって断るんだもの」

「でも、僕が来るとは思ってないから、彼女困るんじゃないか?」

「それがね、亜衣莉、携帯を買ったんですって。だからこれからはいつでも連絡を取れるの」

「ふぅん」

「伊坂室長、ここ空いてますよ」

空いた席を探している聡に気づき、美紅は無意識に手を上げて彼に声を掛け、目の前の席を指した。

こんなこと、以前の彼女では絶対に出来ない芸当だが、それすら気づかないほど、美紅は当たり前にやっていた。

ジェイが後ろに振り返り、ふたりは目だけで何かコンタクトを取ったようだった。

「それじゃ、お邪魔するよ」

「食事に来るのが遅すぎないか?仕事もいいけど、ほどほどにしないと身体を壊すぞ」

「まだ30分近くある。食事を取るには充分さ」

ふたりの会話を聞きながら、美紅は食事を続けていた。
食べるのが遅いから、手を止めて会話を聞いていたら間にあわなくなる。

「星崎君、君は、この最近よくやっているな。これからもこの調子で頼むよ」

唖然とした美紅は、口に運ぼうとしていたご飯をぽろりと落とした。

入社して半年以上、この鬼のような室長から、お褒めの言葉をもらうなど天地がひっくり返ってもありえないと思っていたのに。

ジェイが美紅の隣で抑えた笑い声をあげた。その楽しげな笑いが、なぜかじーんと心に染みた。

「あ、ありがとうございます。伊坂室長」

頬が強張り、口元が震えた。おまけに涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
美紅は慌てて涙をぬぐった。

「わたしは、泣くほどのことを言ったか?」聡が怪訝そうにジェイに問いかけている。

「まあ、恐ろしい上司から初めてもらったお褒めの言葉だとすれば、当然の反応じゃないのか」

ジェイの言葉に聡は何も言わず、渋い顔をして箸を手に取ると食事を始めた。

美紅は涙をぬぐいながら笑みを浮べた。嬉しかった。
彼女の世界はどこまで素敵に変化してゆくのだろう。


「ところで、聡」

「なんだ」

食事を終えてコーヒーを飲んでいる聡に、ジェイが話しかけた。

「君には、恋人がいるそうだな。聞いたところによると、モデルだとか?」

飲みかけていたコーヒーを噴き出しそうになり、気管に詰まらせたのか彼はひどくむせた。

「ゴホッ、ゴホッ、なんでそのことをお前が、ゴホッ…知ってる?」

ジェイがこれ以上ないほど目を丸くした。

「豆鉄砲を食らったような顔するな」苦々しげに聡が言う。

「いや…君が…恋人?…ど、どこにいるんだ?いったい。僕は紹介してもらっていないぞ」

ジェイは驚きが抜けないようだ。
聡が、ジェイと美紅の方にずいっと顔を突き出してきた。

「いることにしてるんだ」ほとんど声にならない潜めた声で言う。

今度は美紅が驚く番だった。

「え?それって、それじゃ、伊坂室長、恋人…うぐっ」

すさまじい勢いで、美紅の口はふさがれた。パシンと音がしたほどだ。

「絶対に、誰にも洩らすな。いいな」

腹の底に響く声だった。ビビッた美紅はこくこくと頷いた。

「ジェイもだ。いいな」

軽く肩をすくめてジェイは聡に応えた。

「あのぉ」

美紅はおずおずと聡に話しかけた。

「なんだ?」

「わたし、妹に話しちゃったんですけど、この場合、訂正した方が良いですか、それともこのまま…」

聡が、美紅の目を打ち抜くような眼力で見返してきた。

「彼女に…話した?」

震え上がるほど凄みのある声だった。

「す、すみません」

何で自分が謝ったのか、美紅には分からなかった。
それでも謝らなければならないような気がしたのだ。

「星崎君」

「は、はいっ」

美紅は椅子に腰掛けたまま、ぴょこんと飛び上がった。

「…早めに、訂正しておくように…お先に」

さっと立ち上がり、聡は立ち去って行った。
何か思い出した用でもあるのか、ずいぶん急いでいる。

「ああー、怖かった」

隣のジェイは、前かがみになって必死で笑いを堪えている。

「ジェイってば、わたし、そんなにおかしかった?」

「いや、君じゃない」

美紅はジェイの返事に大きく首を捻った。




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恋愛遊牧民G様
   
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