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その16 結論は憧れ
「いっただき」
声とともに亜衣莉の肩のあたりからぬっと出てきた手は、彼女のお弁当箱の中で金色に輝いていた玉子焼きを、すばやくくすねていった。
亜衣莉と一緒にお弁当を食べていた友達四人が、平井に向かって言葉の集中攻撃を浴びせる。だが、誰も本気で言ってはいない。いつものおふざけだ。
「美少女亜衣莉の玉子焼きは、なんでこんなにうまいかな。うますぎて涙が出る。くくぅ」
「平井君ってば、もしかして、もうひとつ欲しくて言ってるの?」
「まあ、否定はしないぞよ」
亜衣莉はお弁当箱を平井に差し出した。
「残り物だけど、よかったら食べて。もうおなかいっぱいだから…」
「ふーむ」
平井は、躊躇なく半分軽くなっている弁当箱を受け取り、指で玉子焼きをつまみあげて口に放り込んだ。
「美少女よ、汝はダイエット中か?」
亜衣莉は声を上げて笑った。
冗談を口にしているものの、平井のいい意味で抜け目の無い視線は、亜衣莉の瞳にまっすぐに向けられている。
放課後、平井は亜衣莉が教室を出るとき、黙って後ろに着いてきた。
校門を出て橋を渡り、堤防沿いの道に入ったあたりで平井は口を開いた。
「で…練習の方はうまく行ってるのか?」
亜衣莉は平井に運転を教えてくれる知人が見つかったことを報告していたし、練習の経過も伝えてあった。
「まだ三回目の練習はやってないの。次の土曜日の予定」
「そうか。運転は面白い?」
「ええ」
亜衣莉は楽しげな笑みを浮べた。
確かに車の運転は思っていた以上に楽しかった。
会社の駐車場をくるくる回ったり、踏み切りや交差点を想定して停車したり、ウインカーを出したりするだけの簡単なものだが。
「それで?何を悩んでる?」
「平井君から見て、わたしって人生を楽しんでないように見える?」
「うーむ。返答に困る質問だな」
「困るってことは、そう見えるってこと?」
「いや。ひとの人生なんて、他人から見て楽しんでそうとか、そういうんじゃなくないか?」
「まあ…そうよね」
「だろ。君の人生だ。君が楽しいと感じていれば、楽しんでるってことだ」
「そうよね」
「で、君は自分の人生を、楽しいと思えているのか、否か?」
「…それが、分からなくなっちゃってるの。自分が人生を楽しんでるのか」
「それは、問題だな」
「わたしね、姉をしあわせにすることだけを考えて生きてたみたい。…姉がしあわせそうだと、自分もしあわせだって思えた」
「そうか。それに疑問がでてきたわけか?」
「そうなの。姉に彼が…出来たみたいなの。とってもいいひと」
「それはよかった」
「うん。よかったの。とってもよかったの。でも、姉をしあわせにする役目、そのひとが持って行っちゃった」
「自然な成り行きだな」
「そう、自然な成り行きなの」
「で、君は、お姉さんがしあわせなのは嬉しいけど、自分の役目が無くなって、どうしていいかわからなくなったわけだ」
亜衣莉は頷いた。
平井に語ったことで、少し気持ちが楽になった気がする。
「自分に目を向けろって、ことなんじゃないか」
「え?」
「君はいままで、自分をなおざりにして来た。神様は君に、そのことに気づいて欲しかったんじゃないか」
すっと平井が前に出て、亜衣莉に振り返った。
「それじゃ、美少女、また明日だ」
平井はさっと片手を上げ、指先で空を切るような真似をして左へと曲がって行く。
「平井君、かっこよすぎ」
「俺に惚れるんじゃないぞ、美少女。泣くことになるぜ」
亜衣莉に振り向きもせず、大きな声で平井はそんなことを言い、さっさと歩き去ってゆく。
「ほんと、かっこよすぎだわ」
歩き出す前に亜衣莉は微笑み、そっと囁いた。
バイトが終わった五時半、携帯を確かめると美紅からのメールが入っていた。
今夜はジェイと一緒に帰るから、彼の分の夕食も頼むという内容だった。
夕食を一緒に食べに行こうというふたりの誘いを、亜衣莉が断ってばかりいたからだろう。
ふたりに気を使わせてしまうことになって、申し訳なさが湧いた。
亜衣莉がいなければ、今夜もふたりで楽しめたのだろうに…
それでもひとりきりの食事はやはり味気ない。
久しぶりに賑やかな食卓を囲めるのは嬉しかった。
亜衣莉はいつもよりたくさんの食材を買い込み、家に帰った。
買ってきた卵をパックから取り出して冷蔵庫にしまっているところに、電話が掛かってきた。
手早く卵を入れようとして焦ったために、手にしていた卵を取り落とした。
亜衣莉は割れた卵を見つめてため息をつき、受話器を取り上げた。
「はい。星崎です」
「亜衣莉。家に帰ってたんだな。君、どうして携帯に出ない」
「え。あ、鞄の中に…」
「それでは持っている意味がないだろ。何度も掛けたんだぞ」
そう言えば、音が鳴ると困るので、ずっとサイレントにしてあった。
「すみません。気がつきませんでした」亜衣莉は固い口調で答えた。
「いや、その、君に繋がらないから…」
「何か、御用でしょうか?」
むっとした亜衣莉は、あからさまに他人行儀に答えた。
その甲斐あって、聡がぐっと黙り込んだ。亜衣莉は、少しだけすっとした。
「…君、今日もひとりか?」
「え?はい。姉はまだ帰っていませんし、いまはもちろんひとりですけど…」
「また、ひとりで夕食を食べるのか?」
「はい?…いいえ、姉とジェイさんが…」
「なんだ。ふたりと一緒か。ならいいんだ。それじゃ」
ぷつんと電話が切れた。その事実にふつふつと怒りが湧いてきた。
勝手に電話してきて、勝手に怒鳴りつけて、勝手に切って…
いったい彼は、自分を何様だと思っているのだ。
「バ、バカヤロウ」
亜衣莉は怒鳴りつけながら、力いっぱい受話器を叩き付け、鼻息荒くキッチンへと足を向けた。
その途中で気づいた。
開いたドアのところに美紅とジェイが突っ立っていた。あんぐりと口を開けて…
「お、お、お帰りなさい」
亜衣莉は真っ赤になってキッチンに駆け込み、床の生卵に足を滑らせて勢い良く後ろ向きにすっころんだ。
「もう。笑わないで」
亜衣莉は頬を膨らませて、キッチンから叫んだ。
居間のソファに仲良く並んで座り、食後のお茶を啜っているジェイと美紅は、思い出しては噴き出しているのだ。
後頭部には、まだ少しジンジンした痛みが残っていた。
こんなに恥ずかしい思いをしながらご飯を食べたのは初めてだった。
亜衣莉は洗い物の手を速めた。
さっさと片付けて自室に籠もってしまおう。
そのうちにふたりの笑いの虫もおとなしくなるだろう。
「ごめん。ところで、いったい誰を怒鳴りつけてたんだい」
ジェイの質問に亜衣莉は口ごもった。
「え…それが、あの時相手はもう切ってて…。あんまり勝手なことばかり言うから…つい」
「友達?」と美紅が問う。
「そ、そう」
そう答えるのに、少し気がとがめた。だが、ふたりの関係を言うならば、友達に違いない。
「それじゃ、美紅、わたし先にお風呂に入って休むわね。ジェイ、ゆっくりしていってくださいね」
「亜衣莉、ありがとう。…美紅、彼女にあのこと言わないといけないんだろ?」
「え?あのことって…」
「訂正」
「あ、ああ、そうだったわ。亜衣莉、あのね…」
自分の部屋に引き上げ、机に向かった亜衣莉は、自分の思いの揺れにため息ばかりついていた。
おかげで少なくない課題は、ちっとも片付いてゆかない。
聡に恋人がいるというのは間違いだったらしい。
そんなことは少しも気にしていなかったと、亜衣莉は自分に向けて呟いた。
たしかに心の底に居座っていた固いしこりが消えている。
気を緩めると喜びが湧き上がってくる。
亜衣莉は強く首を振った。
違う違う。そんなことを考えたいわけではない…
彼に恋人がいようが関係ない。だいたい彼とは歳が違いすぎるではないか。
聡にとって亜衣莉は、単に部下の妹であり、気に掛かる子ども程度のものなのだ。
彼ははっきりそう口にした。
君が心配だからだ。と。
課題をどうにか片付けてベッドに横になった頃には、亜衣莉は自分の心を、素直に受け止めることにした。
聡に恋人がいないと聞いて嬉しかったし、心も羽のように軽くなった。
でもそれは憧れに付随したものなのだ。恋をしたわけではない。
愛はこんなに短期間で芽生えたりしないはずだ。
いままで身近にいなかった大人の男性と知り合い、親切にされ過ぎて、強い憧れを抱いてしまったのだ。
「うん、ただの憧れ」
亜衣莉は口の中で呟き、導き出した結論にほっとして目を閉じた。
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