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その18 投石の波紋
部屋を愉快そうに眺め回しているジェイに、聡はグラスを手渡した。
酒ではなかった。
この部屋に、酒は腐るほどあるが、飲んでしまったら、車を置いてゆかなければならなくなる。
社内とは思えない洒落た内装。社長室の奥にある密室。
聡と父親だけがこの部屋の存在を知っている。
もちろん社員の何人かは、ここに部屋があることを知っているが、その部屋が社長の気晴らしの憩いの場になっているとは知られていない。
希な創造力を持つ彼の父親は、遊びを忘れない。
常識とかを鼻にも掛けない。
若い頃は非常識者と中傷を受けたようだが、有名になり成功したいまは、変わり者と評されている。
ジェイは、部屋の中にあるものに時折手で触れながら、楽しげに歩き回っていたが、最後には聡の前に座り込んだ。
ビリヤードの台。手作りの城のミニチュア。パターゴルフのセット。バーカウンター。
壁の棚にはぎっしりと酒の瓶。大型の冷蔵庫。
こうした物品の搬入は父親と聡の仕事だ。
大物を搬入するときには、警備の人間を騙したり、そっと忍び込んだりして運び込む。
そのスリルもたまらない。
ふたりとも掃除が得意なわけでも好きなわけでもないから、片隅にはほこりが溜まっているが、それもまた、秘密の味わいが得られていい。
「君の親父さんらしい」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
「そうか? いまの君は、あんまり嬉しくはなさそうだが…」
「それで…何が聞きたい」
聡は、心地よいソファに頭をもたらせた。
「聞きたいことはないよ。君が事実と認めるだけでいい」
「…好きにしろ」
「では遠慮なく。君は亜衣莉に携帯を与え、彼女とコンタクトを取っている。だから僕が夕食を食べたことを知っていた。そして…」
「確かめるくらいしろよ」
聡は抗議するように言った。
「必要ない。…君と亜衣莉は、美紅がよっぱらった夜だけの関係ではない」
聡は眉をしかめた。
「関係とか言うな」
「美紅が亜衣莉に、君に恋人がいるという情報を洩らしたおかげで、ふたりの関係にいささかヒビが入った」
「深読みしすぎだ」
聡は声を荒げた。
彼の言葉を、気にも掛けないジェイの態度には腹が立つ。
「そうかな。だが、君には不満でも、深読みではない。おめでとう」
差し出されたジェイの手を、聡は呆気に取られて見つめた。
「なんのことだ?」
「女嫌いの君は、やっと過去を清算し、恋を…」
聡は吹き出した。そして堪えきれずに笑い出した。
「ジェイ。君の推理はさすがだった。だが君の勝手な解釈に走りすぎだな」
「理由を聞こう」
「わたしは亜…星崎君の妹に恋などしていないし、その推理には明らかに無理がある。考えてもみろ、彼女をいくつだと思ってる? 玲香と同じ歳だぞ。まだほんの子どもだ。この私が、恋愛感情を彼女に対して持つわけがない」
「もっともな理由だ。…なんて言うと思うか?」
「充分、もっともな理由じゃないか」
「君は…」
「なんだ」
ジェイは返事の代わりにすっと立ち上がった。
「もう帰ることにするよ」
さっさと出口に向かって歩いてゆくジェイを、聡は怪訝そうな眼差しで追った。
「またここに招いてくれ。ここは素敵な場所だ」
その言葉を最後に、パタンとドアが閉じた。
シーンとした室内。
投げ返されたはずのボールが、目前で消えたような戸惑い。
聡は居心地の悪いもどかしさに捉われた。
自分の車に近付いてゆくと、ジェイが彼の車に凭れていた。
「なんだまだ帰っていなかったのか?」
「ちょっと言い忘れたことがあってね」
聡は返事をしなかった。
もんもんとしたものがまだ胸にわだかまっている。
亜衣莉と聡を、そんな意味で見て欲しくなかった。
聡の言葉をきちんと受け取ってくれなかったジェイに、腹が立ってならなかった。
「亜衣莉がちょっとした事故に遭ってね」
聡はぎょっとした。
「事故?」
「後ろ向きに倒れて後頭部を打ったんだ。意識はちゃんとしてたし、たいしたことはないと思うんだが。僕も気になってね。美紅には、今夜彼女が吐いたりしないか、気を…」
「病院には連れて行ったのか?」
「亜衣莉が、行かなくていいって強情を張るもんだから…」
「馬鹿な。亜衣莉ならそういうに決まってるだろ。なんで無理にでも連れてゆかなかった」
「まあ、大丈夫だとは思うんだ。そのあと作ってくれた料理の味もまともだったし…」
信じられない…
「後頭部を打った彼女に、君ら、し、食事を作らせたのか?」
「だから大丈夫そうだったって言ったろ。一応報告しただけだ。君は、亜衣莉の足長おじさんのつもりらしいからね」
ジェイの嫌味な言い回しなど、聡は聞いていなかった。
ポケットから携帯を取り出した聡は、ジェイに手首を掴まれた。
「でしゃばった真似はやめたほうがいい。君には、亜衣莉にそこまでする権利はない」
「権利とかの問題じゃないだろ。誰かが彼女を病院に…」
「亜衣莉の保護者は美紅だ。それをするかどうかは彼女が考えることだろ」
「だが」
血が通わなくなるほどきつく、ジェイは聡の手首を締め上げてきた。
聡はジェイを睨み返した。
「もどかしいか? どうしてそんなにもどかしいか、よく胸に手を当てて考えるんだな」
ジェイは聡の手首を乱暴に放し、隣に停めていた車のドアを開け、そして振り返った。
「借りていたこの車、今週末には返せることになった。新車買ったんだ」
世間話のついででもあるかのように、ジェイが言った。
元から、聡の返事があるとは思っていないようだった。
ジェイはさっさと車に乗り込み、あっという間に走り去った。
憤りが過ぎた聡は、車の窓を拳で力いっぱい叩き付けた。
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