恋にまっしぐら
その19 おかしな気まずさ



「教習所に?」

「そう。やはり教習所での練習は不可欠だと思うんだ。使わせてもらえるよう、知り合いに頼んだんだが」

困ったように眉を寄せた亜衣莉の表情をすばやく読んだのか、聡が伺うように彼女を見つめている。

週末、車の運転を習うようになって、すでに一ヶ月ほどが過ぎていた。

週末を挟んだ平日の五日間を、永遠のように長く感じる自分が、亜衣莉は嫌だった。

それなのに、いまでは見慣れた紺色の車が玄関に横付けされると、否定できないほど…胸が弾む…

憧れ。憧れだ。
亜衣莉はいつものように呪文のように、心に唱えた。

「亜衣莉?」

ハンドルに長い腕を掛けて、上半身を少し彼女の方に傾けて問いかけてくる瞳。
速まってゆく鼓動の裏切りに憤りを感じ、亜衣莉は胸にぐっと力を込めた。

「来週と再来週の土日、四日間ですか?」

「何か外せない予定があるのか?」

「来週の金曜と土曜は、文化祭なんです。だから土曜日はどうしても…」

「そうか。なら、土曜日の振り替えで月曜日が休みなんじゃないのか?」

「ああ、それなら大丈夫ですけど、平日に変更出来るんですか?」

「連絡してみないとわからないが、大丈夫だと思うよ」

会社の駐車場までのドライブ。
見慣れてきた景色。
隣にいて当たり前の彼の存在。

だが、このひと時の現実は、いつか当たり前ではなくなるのだ。
いて当たり前だった父との暮らしが突然消えたように、母の存在が消えたように、この当たり前も消えるのだ。

喪失感には慣れている。だから大丈夫だ。

ただの憧れだし…

「亜衣莉?どうしたんだ? 何か悩みでもあるのか?」

心配そうな聡の眼差し。

亜衣莉は微笑んで首を振った。

彼女と同じ歳だという彼の妹を見つめる時も、これと同じ眼差しで、彼は見つめるのに違いない。
そう考えると、ひどく切なかった。

「私では駄目なのか?」

「え?」

「悩みを打ち明けられないほど、私は頼りにならないか?」

「伊坂さん、どうしてそんなにすぐに怒るんですか?」

「怒ってる?私が?私は、君がなんだか元気が無いから、心配してるだけだぞ」

「わたしが相談しないのが気に入らなくて、怒った顔してたじゃありませんか?」

「そんなことはない」

「あります」

「ない」

「あるっ!」

「怒ってるのは君の方じゃないか。ほら、練習を始めよう」

むらむらとした怒りが湧いた。こういうところが嫌いなのだ。

亜衣莉の怒りをさんざんあおり、彼女の怒りが自分よりも膨れ上がると、とたんに冷静さを取り戻し、大人な顔をこれ見よがしに見せつけてくる。

亜衣莉は怒りをぐっと押さえ込んだ。
ここでまだ怒りを見せたら、亜衣莉の負けだ。

腹立ちから頬が膨らみそうになるのを堪え、亜衣莉は車の練習を始めた。





「文化祭って、誰でも見に行っていいのか?」

「もちろん、いいですよ」

練習の帰り道によるいつもの喫茶店、何種類ものフルーツで飾られたカッティングケーキを一口味わって、しあわせを満喫していた亜衣莉は、聡の問いに無意識に答えていた。

「君は何をやるんだ?」

「はい? 何をって…なんですか?」

聡がクツクツ笑い出した。

「何がおかしいんですか?」

「いや、今、君の頭の中には、そのケーキのことしかなさそうに見えるから?」

亜衣莉はケーキに視線を当て、もう一度聡を見上げ、頬を染めた。

「すみません」

「謝らなくていい。見ているこっちも楽しんでるんだから? それで? 文化祭で君は何をするんだい?」

「…クラスの催し物は、自作のパソコンゲームを使った対戦なんです。そういうのがとっても得意な同級生がいて…わたしはゲームやったことないので、いま彼に特訓受けてる最中なんです」

亜衣莉は、得々とした平井の顔を思い出して声を上げて笑った。

「初心者のわたしをいたぶって、楽しんでるだけのような気がするんですけどね」

「彼…」

「はい。平井君って言うんですけど、しっかり者で、みんなから信頼されてます」

「仲が良さそうだな」

「ええ」

亜衣莉は軽く答え、最後のケーキを口に入れた。木苺の酸味に彼女は唇をすぼめた。

「少し酸っぱいけど、美味しい」

彼女は唇についたクリームを舌先で舐めながら、視線を聡に向けて言った。
ひどく苦々しげな表情を浮べた聡の表情に、亜衣莉は驚いた。

「あの…」

彼は何も言わなかった。
おかしな気まずさを感じて、亜衣莉も何も言えなかった。


「ありがとうございました」

家の前で車を降り、亜衣莉は丁寧に頭を下げた。
聡は固い表情で頷き返すと、無言のまま走り去って行った。

ふたりの間に、いったい何が起こったのか、亜衣莉はわからなかった。
聡の様子は、これまでの彼とはまったく違った。

何か口にしてはいけないことを言っただろうか?それとも、何か嫌われるような無作法なことでもしただろうか?と考えてみたが、どうしても思い至れなかった。

嫌われたのだ。
何が悪かったのかはわからなくても、それだけはわかった。


無表情な顔で誰もいない家に佇み、喪失感には慣れていると考えていた自分を、亜衣莉はあざ笑った。





「ストップ。君、振りが違う」

テンポの良い音楽が唐突に止まり、亜衣莉も動きを止めた。
振りの間違いを指摘されたのはこれで三回目だ。

「すみません」

「男女四人で踊る場面だから、ここで間違えると痛いぞ。もっと集中して」

「はい」

「それじゃ、もう一度」

パンパンと手を打ち鳴らし、もう一度音楽が鳴りはじめた。

文化祭での舞台の出し物、亜衣莉たちのクラスは全員参加で、ヒップホップダンスを踊ることになった。

ほとんどが受験生の集団だけれど、みんなこの日のために時間を工面して練習している。
亜衣莉も、バイトの時間を一時間だけ遅らせてもらい、練習に参加していた。

優勝出来ないにしても、観客に楽しんでもらえるようなものを披露したいとみな思っているのだ。

ヒップホップを教えてくれているのは、クラスメイトの知り合いだという専門学生だ。
ダンス科に通っているらしい。
月曜と木曜日の夕方なら空いているということで、こうして講師に来てくれている。

はじめに披露してもらった彼のダンスは、見事なものだった。
すばやい動きで踊り続けながらも、とても楽しげで、こんな風に踊れたらと皆が思ったに違いなかった。

なんとか間違えずに踊りきり、亜衣莉は疲れを覚えて座り込んだ。

このところ、食欲がまったく無くて、あまり食べていなかった。
姉とジェイが一緒の時は、無理してでも皿に盛った料理を口にするが、ひとりの時は作るのも億劫で、何も食べないで寝ることもある。

これが俗に言う恋煩いというやつなのかも知れない。
亜衣莉はそう考えてため息をつき、はっと気づいてそれを否定した。

恋煩い? 違う違う。

聡からはあれきり何の音沙汰もなかった。

彼は亜衣莉に興味を無くしたか、嫌いになったのだ。
運転の練習も、このまま頓挫ということになりそうだった。

もちろん、嫌われているのに、仕方なく教えてもらうなんていうのは絶対に嫌だ。
あの携帯も、なるべく早く返さなければならないだろう。

ジェイに頼むしかないだろうか?





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恋愛遊牧民G様
   
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