恋にまっしぐら
その20 もどかしさの停滞



ベッドの上にある服をうつろな目で見つめながら、聡は頭を掻きむしった。

理性と感情が完全に分離し、それぞれが彼の意識とは無関係に強い意思を持って行動しているような気がする。

そして、そのどちらもを意識しながら、ただ傍観している自分。

自分のことがわからなくなるなんて初めてのことだ。
感情のままに買い込んだ服を、理性が軽蔑している。

聡は服を手に取ったものの、次の瞬間憤りに駆られ、力いっぱい床に叩き付けた。

肩で大きく息をし、呼吸が静まってもそのまましばらく佇んでいたが、急激な脱力感に捕らわれ、ベッドにドサリと横たわった。

昨日の仕事中、父親に呼び出された。
上層部を集めての大事な会議をうっかり忘れてしまったのだ。

聡はシニカルに笑った。
うっかりの回数が多すぎる。

美紅のことを無能呼ばわりしていた自分が…

社長室に入ってきた聡を、父親は例の隠れ家へと誘った。
何も言わずにビリヤードを始め、無言で聡をプレーに引き込んだ。

もちろん聡はミスの連発だった。
集中力など、彼の中から欠如してしまったようだった。

「このあたりで、長期の休暇を取ったらどうだ」

最後のボールを難しい角度から見事にポケットに落としたところで、父親は何気なく言った。

「そんなわけには行かないよ。仕事が…」

「心配ない、いまはジェイがいる。お前、大学時代バスケの主将をしてたな。試合中、プレーに集中できないやつがいると、お前はどうした?」

聡は奥歯を噛み締めた。

「自分の感情に抵抗してるんだろ。抵抗するのはやめたほうがいいな」

怖いんだ…

父親の言葉にすがりつくように、思わずそう口にしそうになり、聡は噛み締める力を強めた。

怖い?怯え?

脳裏に印のように刻まれた言葉に、聡はあらがった。

「仕事を休むのは嫌だ。会議をすっぽかすような真似は、もう二度としない」

「抗うからそれに縛られる」

ひとり言のように父親が呟いた。

「何もかもお見通しみたいなことを言うんですね」

「弱さは誰にでもある。それを認めなきゃいかん」

「父さんにも…?」

「ああ、わたしにも怖いものがあるさ。弱さもある」

手に持ったキューを布で磨きながら父親は言った。
面と向かってこんな話を口にしては、聡が素直に耳を傾けないことを父は良く知っている。

「前から思ってたが…お前の心は固い。色々なことを、もっと柔軟に素直に受け入れることだな」

それは言われずとも分かっていることだった。
父の視線が自分にちらりと向いたのを感じたが、聡は微動だにしなかった。

「しこりに手を触れて、ほぐしてやる頃合じゃないのか?」

ドアを開けて部屋を出る直前、父は呟くように言った。

磨かれて光を反射している社長室の窓ガラス。
そいつを破壊したら、耐え切れないもどかしさが巣食う胸をすっきりさせられるというなら、躊躇なく、高価な置物を手にして投げつけてやっただろう。


仕事を休むなんて一度も無かったことだ。

結局、自分の書斎で、昼間過ぎまで持ち帰っていた仕事をし、昼食を食べに外に出た。
家の中は彼一人で、シンとした静けさはいたたまらなかった。
こんなときに限って、ハナはどこにいるのか一度も姿を現さなかった。

食事を終えると、目的もなく車を走らせた。
いつの間にかあの堤防についていて、川の流れを見つめているうちに、亜衣莉の学校に行ってみる気になった。

ちょうど金曜日で、亜衣莉の言っていた文化祭の初日だということを思い出したのだ。

彼女の通っている高校は公立で、私立とはやはり建物の趣も違う。
聡はそれらを視野に入れながら、校門を素通りした。

そしていつも利用している更紗叔母の経営しているメンズの店に向かっていた。
あれは彼の感情がそうさせたのだと思う。

シックなものばかり着ていると玲香にはいつも非難めいたことを言われていた。
おじさんぽくみえるよと言われても、気にならないどころか嬉しいくらいだった。

馴染みの店長に、今回はもっとカジュアルのものを…と言うと、彼は承知したとばかりに嬉々として店内から服を集めてきた。

両手にいくつもの袋を提げた聡が店を出る前に、店長は「それを着るときは、前髪、下ろしてくださいね」と付け加えた。

店長の彼は、聡よりひとつかふたつ上らしかった。

若向きのシャツに凝ったデザインの上着を重ね、色の褪めたジーンズにカラフルなスニーカーといういでたち。

服装なのか髪型なのか、彼は聡より数歳若く見える気がする。

聡は床に落ちた服を拾い上げた。まだタグがついたままだ。
これを着たら、亜衣莉の目に、彼はいくつくらいに映るだろうか?

コトンと微かな音がして、聡はドアの方に振り向いた。
ハナが入ってきたのだ。

賢そうな瞳が光を放ち、聡の手にした服をじっと見つめてくる。

「これは…」そう言ったとき、ドアがノックされた。

「兄さん、入っていいかい?」

翔の声に、聡は慌てて立ち上がった。

「ち、ちょっと待ってくれ」

そう叫ぶように言うと、あたふたと手にした服を持ったまま右に1回転、左に1回転し、最後にベッドの中に全部押し込んだ。

「いいぞ」

そういうと同時にドアが開き、翔が入ってきた。

聡は、ハナと視線を合わせて顔を引きつらせた。
たった今、心躍るものを目撃し、味わい終えて舌なめずりをしているハナ。

ハナに悦びを与えた自分の無様さに、聡は心の中でうめきをあげた。

「寝てなくて良いのか?」

「寝る?どうして」

「いや、こんな時間にいるから…具合が悪いんだとばかり…」

「まあ、たまにはな」

翔が大きく頷いた。

「いい心がけだよ。あんな風に、夜も休日も仕事ばかりしていたら、いくら鉄人の兄さんでも身体を悪くするって、心配してたんだ」

休日は亜衣莉に付き合っていたのだし、翔が思うほど仕事ばかりしていたわけではないのだが、聡は弟の勘違いをそっとしておいた。

もちろん亜衣莉の存在を知られたくない。

「仕事、…少しくらいなら手伝おうか?」

「葉奈さんにダイアモンドの指輪を贈るのに、小遣い稼ぎしたいのか?」

聡は冗談めかして言った。なのに翔は、真顔で答えてきた。

「いや。まだ早いだろうな。そんなもの差し出したら、彼女に引かれそうだ」

「そんなことはないだろう。高価な指輪をもらって喜ばない女はいないさ」

「普通の女ならそうなのかも知れない。でも葉奈は、俺に何も欲しがってくれない」

不服そうな顔で、翔はハナが丸くなったベッドの近くに座り込んだ。

彼の重みでベッドのスプリングが上下し、服が入った紙袋のカサカサという音がはっきりと部屋に響いた。

翔が眉を潜め、その音に反応したのが分かった。
だが気づかないふりをすることにしたのか、何も言わなかった。

聡は空咳をした。

今気づいたが、ハナは聡がぶち込んだ品物の真上にいる。

どうにも心地が悪かった。
翔は、ベッドの下に何が隠されていると思って、気づかないふりをしたのだろう?

聡はもう一度、軽い咳をすると、翔に尋ねた。

「教師と生徒の立場で、付き合うのは大変じゃないのか?」

「俺は葉奈を生徒だと意識してないから」

「意識とかの問題じゃないんじゃないか?現に彼女は生徒なんだし」

「俺の中じゃ、葉奈は女だよ。世間一般的な肩書きとかどうでもいい」

「やっぱりお前は親父に似てるな」

「そうかな」

「不安じゃないか?」

「不安…」

「葉奈さんは玲香と同じ歳だ。私にしてみれば、子どもとしか思えない年齢だ」

「それで?」

「心が安定してない年頃だと思えるんだ。今はお前を好きでも、心変わりとか…」

「ただ歳を食えば、心ってのは安定するもんなのか?」

「すまない。…確かに、そんなことはないな」

「心は歳には関係なく不安定なもんさ。…不安? もちろんあるさ。兄さんの想像以上に、俺は不安にさいなまれて苦しんでると思うよ」

皮肉な口調で、翔はあてつけがましく言った。

「すまん」

「いいさ、別に」

反省をたっぷり含ませて謝った聡に、翔は苦笑いして言った。

「お前に聞きたいことがあるんだが…」

「何を?」

「星崎美紅のことだ」

「ああ、…彼女が何?」

「どうして彼女のことを、私に頼んできたんだ」

「頼む先が兄さんしかなかったからに決まってるだろ。俺は兄さん達ほど、顔が広くないからな。父さんでも良かったけど、はっきり言って、父さんは兄さんよりたちが悪い。頼みごとなんかしたら、俺はなんらかの危機に陥っただろう」

「確かにな」

「それで彼女は役に立ってるのか? なんか少しそそっかしい子だって話だったが…」

「お前、まさかと思うが、星崎美紅の並外れた粗忽さを知らないのか?」

「並外れた? …それはそれは。申し訳ないけど彼女とは俺、面識がないんだ」

「はあっ?」

聡は思わずあんぐりと口を開けた。そんな兄の表情を見て、翔が苦笑した。

「高校の時の恩師に頼み込まれたんだ。前にも言ったとおり、彼女が仕事に就けないと、姉妹ふたり、路頭に迷うことになるって頭を下げられて、あの時の兄さん同様、俺も断れなかったんだ」

聡は、その時のことを思い出して、笑いを堪えた。
確かに、星崎姉妹の困窮した内情をこまごまと聞かされ、とても断れなかった。

「その恩師はなぜ星崎美紅のことを…」

「もちろん教え子だよ。専門学校卒業目前になっても就職が決まらないもんだから…先生が動いたのさ」

「その根岸って先生は、星崎美紅のことを好きなのか?」

「いや、そういう間柄じゃない。彼には別に好きな女がいる」

それならば、美紅とジェイの関係を邪魔するものは何もなさそうだ。聡はほっとした。

「それで、この中には何が隠されてるんだい?」

「えっ?」

翔が指さした先にはハナがいて、いまは楽しげにジャンプを繰り返していた。

気づかなかったが、部屋の中には先ほどからずっと、ガサガサという音が小気味良く響いていた。

「ハナッ!」

聡が怒鳴りつけたとたん、楽しげな顔をした翔が、ガバッとベッドの上掛けを剥いだ。

ハナは翔の行動が前もって分かっていたというように、慌てることなく枕の方へと飛びのいた。

「なんだぁ? 服…」

聡が止める間もなく、翔は服を袋から引っ張り出し、両手で掴むと大きく広げた。

「へぇ、イメチェンってやつか?」

苦い表情をして弟のからかいの言葉を待つ聡に、翔がにやりと笑う。

「兄さん、これ着るときは、前髪、下ろした方がいいよ」

聡は堪らずに吹き出した。





その夜遅く、伊坂の家にジェイがやってきた。

家族たちと久方ぶりの対面を果たし、一時間ほど話しをした後、ふたりは聡の書斎に落ち着いた。

「今日はこのまま泊まってゆけばいい。酒飲むだろ」

「いや、止めておくよ。明日は朝が早いんだ。美紅と、亜衣莉の文化祭に行くことになってる」

「そうか」

聡は眉をひそめた。

明日、彼も覗きに行くつもりだったのだが…このふたりと出くわしたりしたら…
考え直した方が良いだろうか?

「お前、星崎君とはどうなってる?」

「どうもなっていないよ」

「冗談で聞いているんじゃないんだぞ」

「彼女とは友達の関係だ。もちろんキスひとつしていない」

「それにしては頻繁に会ってるじゃないか?」

「友達だからね。それはそうと、今日はことづけと頼まれ物を持ってきたんだ」

「ことづけ?」

「そう」

ジェイは聡の反応をうかがうように、ポケットから出したものを差し出してきた。

「これは? どうして?」

「亜衣莉が返してくれって。それと、運転の練習はもういいそうだ」

聡はジェイの言葉に耳を疑った。

「そうか」

聡はそっと口にした。

思いもしなかった彼女の仕打ちに、感情が少しも波立たなかった。

「亜衣莉に何をしたんだ?」

「何のことだ? 私は何もしていない。運転の練習に付き合って、連絡を取り合いやすいように、携帯を持たせただけだ」

「恋をすることを怖がって、逃げ出そうとしてるんだろう? いい加減、過去のことは清算しろよ」

「関係ない」

「女嫌いで一生を過ごすつもりか? あんな女のために…」

「過去は関係ないって言ってるんだ。それに彼女は悪くない」

「そうやって浮気した女を庇ってるじゃないか。そんな女なのに…まさか、まだ愛してるのか?」

「いい加減にしてくれ。ジェイ、真実は違うんだ」

「真実?」

勢い言葉にしてしまったが、聡はジェイに何のことだと聞かれても話はしなかった。

ジェイが帰って行ってから、聡は自分に問いかけた。

誰かに語ることで、彼の罪悪感は軽くなるのだろうか?と。





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