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その23 ふたりはお友達
「二日間、終えての感想は?」
聡が手配してくれた教習所での練習を終えての帰りだった。
午後から二時間。合計四時間の乗車で、だいたいの感覚はつかめた気がした。
一番厄介だったのはクランクで、切り替えしてバックしたとき、勢いが過ぎて障害物に当たり、ぶつかった音がした時には思わず青くなった。
厳しい指導教官は、「ブロック塀だったら見事にへこんでるぞ」と冷ややかに言った。
「はい。昨日はかなり戸惑いましたけど、今日は走りやすかったです。ただ、教えてくださる方が怖くて…」と思わずため息をついてしまう。
慰めが欲しくて言ったのに、聡はおかしそうに笑い出した。
「笑うなんてひどいです」
「ごめん、ごめん。僕が頼んだんだ。一番厳しい教官にしてくれるように…」
「え?なぜそんなこと…」
「前にも言ったけど、本試験の時には、警察の試験官がふたり同乗する。彼らは君を竦ませるのに充分愛想が良くないと思う。厳しさに慣れておく方がいいだろうと考えたんだ」
「不平を言えなくなりました」亜衣莉は頬を膨らませて言った。
「君の顔は、充分、わたしに不服を伝えてるよ」
聡に指先でほっぺたをつつかれ、亜衣莉はぽっと赤くなった。
彼はさらに愉快そうに、彼のたわむれに反応した頬を見つめてくる。
まったく、このすぐに赤くなる頬をどうにかしたかった。
こんなだから、彼に子どもとしてしか見てもらえないのだ。
「今日は本当によかったんですか?お仕事休んでしまって」
「ああ…有給休暇はありあまってるんだ。こんなことでもないと休暇も取らないから」
「わたし…」
「うん?」
「伊坂さんの休日を、ずっとわたしのために使わせてしまってたんですよね。わたし、自分のことばかりで、伊坂さんの都合とかぜんぜん考えてなくて」
「わたしは好きな事をしてるんだ。君と会っていなかったら、休日も仕事をしてるだろうな」
「そんなにお仕事が忙しいんですか?」
「忙しいといえば忙しい。仕事なんていくらでもあるから」
「わたしにお手伝いできるといいのに…わたしからは何もお返しできなくて…」
「…それなら、ひとつ頼みを聞いてもらおうかな」
「何でも言ってください」
亜衣莉は力強く請けあった。
「遊園地に一緒に行ってくれないか?」
「はい?」
「行ったことがないんだ。ジェットコースターは嫌いか?」
亜衣莉はきょとんとした表情のまま、首を激しく左右に振った。
「もちろん、行きたいです!」
「なら決まったな。日にちは、そうだな。再来週の土曜日はどうかな?」
亜衣莉に異存があるわけがない。
彼が亜衣莉といたいと思ってくれるなら、何もない公園でも、いつもの堤防の土手でもどこでもよかった。
亜衣莉は運転している聡をそっと盗み見た。
突然に変身した聡。
昨日、迎えに来てくれたときの彼はいつものシックな服装ではなく、とてもカジュアルだった。
彼はいつもよりぐんと若く見えた。その最大の要因は、前髪を下ろしていたことだ。
揺れる前髪をすかして見える聡の瞳。
ふたりの歳の開きの壁を、彼はポンと飛び越えて、いまは亜衣莉の側にいる。そんな気がした。
ほんの少し手を伸ばせば触れられる彼の身体。けれど、亜衣莉は彼に触れられる立場にない。
切ないけれど、それが現実だった。
どんなに親切にしてもらっても、どんなに楽しげに会話しても、ふたりは友達だ。
友達ならば、亜衣莉のような感情を抱いて、彼に触れてはいけないのだ。
ひさしぶりにふたりきりの夕食を食べ終わり、亜衣莉は片付け物をおえて、急いでコタツに入った。
美紅は丸くなって、コタツの温かさに気持ちよさそうにウトウトしている。
今日はこの冬一番の寒さだと天気予報が騒いでいる。
この寒さに襲われる前に、用意周到な亜衣莉はコタツの布団を干しておいた。
今日はめずらしくジェイが用事があるとかで、美紅も早く帰っていた。
「ジェイと会えなくて寂しい?」
亜衣莉は切り出しづらい話のクッションに、そう言った。
「そりゃあ淋しいわ。いつも一緒にいるのが当たり前みたいになってたから」
美紅は、眠そうな目から眠気を飛ばすように、幾度も瞬きして答えた。
「ジェイは素敵なひとだもの。よかったわね美紅、あんなに素敵な恋人が出来て」
美紅がぽかんとした顔をした。眠気が吹き飛んだようだ。
「恋人じゃないわ」ふるふると首を横に振りながら、美紅が言う。
「えっ、だって、ふたり、付き合ってるんでしょ?」
「友達よ、わたしたち。ジェイはわたしといると心地が良いって言うの。わたしもとっても心地が良いの」
「それって…」恋ではないのか?心地よくて一緒にいたくて…?
「美紅は、ジェイに恋してるんじゃないの?」
「恋?」
美紅はまるで初めて聞いた言葉のように反応した。亜衣莉の方が戸惑いが湧いた。
「だからね。一緒にいて心地が良いのよ。ジェイがいるとなんでもうまくいって、わたしがわたしでいられるの。失敗もあんまりしなくて、世界がわたしにそっぽむかないの。ジェイは天使様で、神様がわたしが生き易いように、わたしのもとに遣わせてくださったの。だから彼に恋なんかしちゃいけないの。彼は天使様なんだから…つまりそういうこと。分かった?」
亜衣莉は美紅の言葉に思わず頷いてしまった。
美紅が物覚えの悪い子に言い聞かせるように、噛んで含めるように言ったからだ。
美紅が、そう、それでいいのよ。といわんばかりに大きく頷いた。
亜衣莉はそれ以上何も言えなかった。
ジェイと美紅って…いったい…
寒い季節になると、暖房費節約のために、亜衣莉は炬燵で勉強をする。
いまも、テレビを観ながら笑い声を上げる美紅の前で課題に取り組んでいた。
その途中で、美紅に言わねばならないことがあったのを思い出した。
「あの、美紅」
「なあに」
テレビに視線を当てたまま美紅が返事をした。
「わたし、新しい服を買ってもいいかしら」
驚いた美紅がパッと振り返った。
「服?珍しいわね。亜衣莉が服が欲しいだなんて。もちろん好きに買っていいわよ。いつも、節約ばかりしてないで少しぐらい贅沢しなくちゃって、わたし、言ってるでしょ」
「うん。そうだけど、一応相談してからって思って」
「それで、どんな服が欲しいの?」
「どんなって、遊びに行けるような服ならなんでも…」
「遊びに行くの?どこに?友達と?」
「遊園地。友達と」
聡のことは、いまだに美紅に告げていない。
美紅は休日、ほとんどジェイとともにいる。
ふたりして彼女達の家でくつろいでいることもあるし、ジェイとともに出かけることもある。
家にいるときに聡が迎えに来ても、美紅は気づかない。
ジェイとじゃれている美紅は、出かける亜衣莉に行ってらっしゃいと機嫌よく手を振るだけだ。
それに改めて、実は…と切り出しづらく、話のついでがあったらなどと思っているうちに、日が過ぎてしまったのだ。
ジェイも知っているのに、美紅に教えなかったし…
「へえっ、いいなー、わたしも行きたい。ジェイを誘ってみようかしら。亜衣莉はいつ行くの?」
「わたしは再来週の土曜日だけど」
「そっか。楽しみね。ケチケチしないで、可愛い服いっぱい買うのよ。そうだ。今度の休みに一緒に買いに行こうか?」
「つ、次の休…ウァッ」
焦り過ぎたおかげで、思わず舌を噛んでしまった。
噛んでしまった舌先を出して痛みに顔を歪めている妹に、美紅が笑い出した。
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