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その25 どさくさまぎれの誓い
美紅は涙が止まらなかった。
もう泣き止もうと思うのに、どうしても止まらないのだ。
涙腺に蓋があるとすれば、その蓋が無くなってしまったのかもしれない。
誰もいなくなった部屋にはジェイと美紅だけだった。
ジェイは涙でぐしょぐしょになってしまった美紅の顔を、自分の胸に押し付けたままじっとしている。
ジェイの心臓の音が耳に聞こえ、その音を聴いていると、どうしてなのか、もっと涙が出てくるのだ。
みっともない声を上げてしゃくりあげている自分が恥ずかしくてならなかった。
ジェイにこんな自分を見て欲しくなかった。
美紅は唇から洩れてしまう泣き声を、なんとか喉元に押し込もうとやっきになっていた。
ジェイはいつも、美紅といると心があったかくて心地が良いと言ってくれたのに、いまの美紅では心地良くないだろう。
「ご…め…なさい。ごめ…な…さい」
美紅は嗚咽に、言葉をなんとか混ぜた。
ジェイの腕に力がこもり、彼の体温の温かさに、美紅は感情を押さえられなくなり、喉が痛いほど号泣しはじめた。
「仕事が…」
長い時間が過ぎて、やっと落ち着きを取り戻した美紅は、ひどく掠れてしまった声でそう口にした。
「今夜は何が食べたい?どこに行こうか?美紅の好きなイタリアンに行くかい?」
まるで何事もなかったかのようにジェイが言った。
ただ、彼の声は小さく震えていた。
「わたし…」
「美紅、僕は君がいないと不幸になる」
「え?」
「ずっと、君と一緒にいたい」
「わ、わたしも一緒にいたい。ジェイとずっと」
「うん。それなら僕らは、結婚しなければならないな」
「結婚…」
「そうしたらずっと一緒だ」
「ずっと一緒? ほんとにずっと一緒にいられる?」
「美紅がそれを望めば」
美紅はジェイの胸に顔を埋めた格好で、精一杯頷いた。
「結婚する」
「うん。そうしよう。それで…今夜は何が食べたい?」
「イタリアン」
「うん。そうしよう」
ジェイの声が遠くで聞こえた。
派手に泣きすぎたせいか、だんだん眠たくなってきた。
…愛してるよ…
天使の声が聞こえた。美紅の天使様…
膝がガクリと折れた気がし、彼女の全身からストンと力が抜けた。
「わたし、ジェイと結婚するの」
ジェイに送り届けられた美紅は、玄関先で出迎えてくれた亜衣莉に言った。
正確に言うと、美紅が鍵を開けて玄関に入ったら、亜衣莉がそこにいたのだったが。
亜衣莉は、聞いた事が信じられないのか、眉をひそめて怪訝そうな顔をしている。
「それで、ジェイは?どこにいるの?」
「彼はこれから用事があるんだって、すぐに帰っちゃった」
「美紅、ちょっと、待ってね…」
亜衣莉がストップを出すように手を上げ、両手で頭を抱え込んだ。
「えーっと。結婚…って言ったのよね。ジェイと結婚?」
「そう」
「そう。そうって、美紅、結婚って一大事なのよ。分かってる。そんな風にかるーく口にしたら…なんていうか重みがないって言うか…それにしても何で急に…付き合ってないって言ってたのに…」
亜衣莉はかなりパニックに陥ったようだった。
珍しく、あたふたと落ち着きのない妹の様に、美紅は笑いを堪えた。
「それがわたしもよくわかんないの。気がついたらそういうことになっててね」
まだ玄関先にいた美紅は、靴を脱いで上がった。
「いじめられてるとこ、助けられて…。そしたらジェイが、わたしがいないとジェイは不幸になるって言ったの。それで結婚しようって」
美紅は自室に向かってスタスタと歩いた。
後ろから亜衣莉が慌ててついて来る。
「ちょっと待って、美紅。いじめられてるとこって…どういうこと?」
「それはもういいの。解決したの。もう誰もわたしをいじめないって、伊坂室長が請け合ってくれて…」
「い、伊坂さんが?でも、彼は何も言って…」
「うん、彼って?」
「あ、な、なんでもない…」
美紅はコートを脱ぎながら亜衣莉に振り返った。妹の赤くなった頬に、美紅は眉をひそめた。
「亜衣莉、熱があるんじゃない?ほっぺたが凄く赤いわよ」
「そ、そんなことない。急に結婚なんていうから、その、動転しちゃって…」
亜衣莉の視線が、やたら空中を泳いでいる。たしかに動転しているようだ。
「ご飯はちゃんと食べた?」
亜衣莉が倒れてから、美紅は必ずそれを確かめるようになっていた。
ご飯を食べなかったら倒れるに決まっているというのに、困った妹だ。
そのままで充分スリムなのに、なぜダイエットみたいなことをしていたのだろうか?
「た、食べたわ。ちゃんと」
「お腹いっぱい?」
美紅は、着替えの寝巻きと下着を引き出しから取り出しながら尋ねた。
「お腹いっぱい」
亜衣莉が模範的な生徒のように繰り返した。
美紅は、よろしいというように頷いた。
「それで、ほんとに? ジェイと結婚するの?」
亜衣莉はまだ信じられないらしい。着替えを両手に抱え、美紅は亜衣莉に振り返った。
「同じこと聞いても、同じ答えしか聞けないわよ。お風呂に入ってくるわね」
いつも冷静な亜衣莉でも驚くだろう。あまりに突然だったから。
正直、美紅だって驚いているのだ。何度ほっぺたを抓ったかしれない。
医務室で目が覚めたとき、ジェイは美紅を見つめていた。
いままでより、もっとやさしさのこもった温かな眼で。
初めはジェイの変化に戸惑った。
結婚する話を、寝て起きたら、うっかり忘れてしまっていたのだ。
ジェイはそれまでと違って、とても…とても…
湯船に浸かった美紅は、表現する言葉を探して考え込んだ。
セクシーだ!
美紅は閃き、右手を左手の平でポンと叩いた。
ポシャンとお湯が顔に跳ねて、美紅は「わっ」と叫んだ。
美紅の頬を触れるジェイの指も、髪をすく指も、美紅の身体をゾクゾクさせた。
これまでジェイが抱き締めてきても、温かさと心地良さしか感じなかったのに、そこにそのセクシーがプラスされたのだ。
戸惑いも感じたけれど、そのやたらゾクゾクする感じは、ぜんぜん悪くなかった。
それにしても、ジェイには恋人がいたのではなかったのか?
美紅は、その恋人らしい人物と、ジェイの携帯で話していた。
ジェイがちょっとコンビニに行った時に、彼の携帯が鳴り、美紅が代わりに出たのだ。
もちろん、相手は英語がぺらぺらで、何を言っているのかいくつかの単語しか分からなかったが、相手の名前がセリアらしいことはわかったし、彼女がやたらジェイとラブの単語を繰り返していたのもわかった。
戻ってきたジェイに掛かってきた電話のことを報告したけれど、彼はちっとも気に止めず、折り返しの電話もせずに買ってきた品物を冷蔵庫にしまった。
ジェイが美紅に結婚しようと言ったということは、あの女性は恋人ではなかったということだ。
それならば、誰だったのだろう?
美紅は疲れを覚えて考えるのを止めた。これ以上の情報がないのに、考えるのは無意味だ。
これからずっと、ジェイと一緒にいられるのだ。
そう約束をした。
結婚したら、ジェイと美紅と亜衣莉の三人で暮らすのだ。
美紅は湯船に両腕を掛けて顎を乗せ、大きく微笑んだ。
三人には、素敵で楽しい生活が待っている。
「美紅、そろそろ上がったら、あまり長いこと入ってると、また湯あたりしてひっくり返ってしまうわ」
「はーい」
心配げな亜衣莉の声に、美紅は素直に返事を返した。
心配性の亜衣莉は困ったものだと思う。
たしかに、二度ほどひっくり返ったことはあるが、あれはだいぶ以前のことだ。
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