|
その26 心に必要な時
ひと気のないビル内、目的のドアノブに手を掛け、ジェイはそっと右に回して扉を開けた。
建て付けがよく、ほとんど音がしない。
自分が滑り込めるほど開けて中に入ろうとしたら、話し声がするのに気づいた。
「知っていたよ。わたしもその場に居合わせたんだからね。…ああ、だがわたしの口から聞いていたら、星崎君が家に戻るまで、君は色々考えて辛い思いをしただろう? だから、君は家に帰った星崎君に直接聞くほうがいいと思ったんだ。…そうだね。突然だったからわたしも驚いた…」
聡と亜衣莉の会話が終わるまで、ジェイはその場で待っていた。
「…おやすみ、亜衣莉」
聡は携帯を耳元から離し、まるでその携帯がこの世でもっとも愛しいものであるかのように見つめている。
ジェイはそっと動いた。
靴音が微かにしているのに、恋心に嵌ってしまっている聡は気づかない。
「おやすみ、亜衣莉」
ビクリと身体を震わせた聡が、さっと振り返った。
「お前、心臓が止まるかと思ったぞ」
「来ることは知っていただろ」
「今夜はもう来ないと思っていたんだ」
「まあ、そうしたいのは山々だったんだが…結界がなくなってしまうと、どうにも自信がなくてね」
「結界ってなんだ?」
「美紅が僕との間に築いていた結界さ」
「そんなものがあったのか?」
「それを破壊出来なくて、弱ってたんだ。色々策を練ってみたんだが、どれも不発に終わってね」
「策?」
ジェイはにやりと笑った。
「聡、場所を移動しよう。密室の方が雰囲気が出て、話しやすい」
絶好調とはこのことだろう。
パターゴルフは当たり前のようにボールが穴に吸い込まれてゆくし、キューで小突いた玉に当たったボールは、面白いほどポケットにコトリと落ちてゆく。
遊びに夢中になっているジェイに、聡が話しの続きを催促し、やっと話が進んでゆくという感じだった。
聡は自分の知らなかった出来事を根掘り葉掘り聞きたがり、いささか閉口したが、それでも高揚した気分のジェイは、いつもより多く語った。
いま思い返すと、彼は美紅に初めて会った日に、彼女に心を奪われたのだと思う。
その不可思議な感覚がなんなのか、初め分からなかったが、毎日彼女と顔を合わせているうちに、美紅にのめりこんでいる自分に気づいた。
聡のことがなければ、もっと早くに気づけたのかもしれない。
ジェイは、聡は美紅のことを好きなのだと思っていたのだ。
過去、聡は辛い経験をしていたし、彼の恋が実ればと本気で思っていた。
だから、ふたりの恋の後押しもした。
聡が星崎家の塀のところで、嘔吐する美紅の背中を撫でてやっているのを見たとき、ジェイは自分を偽って喜んだ。
けれど、その偽りは心に重く、聡が美紅を介抱する様を目にしたくなくて、玄関先に佇んだまま、彼は家に上がれなかった。
そののち、聡と亜衣莉の関係に気づいたときは、心が震えそうなほどほっとした。
だがそれからは遅々として進まなくなったのだ。
美紅はジェイを特別なものとして思ってくれていたが、それは恋愛の対象ではなかった。
セリアが、相変わらず電話を掛けてくる時間帯に、携帯を転がしたままコンビニに買い物に行き、美紅を刺激しようと試みたりもした。
美紅は、彼が期待した嫉妬の感情など微塵もなく、「セリアさんって方から電話があったわよ」といつもと変わりない笑顔で報告してくれた。
あの時は立ち直れないほど気落ちし、意味も分からぬままの美紅に、たっぷりと慰めてもらった。
それから、用事があるから今日は一緒にいられないと、かなり無理をして冷たく言ったりもした。
もちろん結果は惨敗だった。
あの女子社員たちは、拳で殴ってやりたい気持ちだが、結果的には、彼女達のおかげで、美紅がジェイとの間に無意識に作り上げた結界を打ち破れたのだと思う。
医務室でそっと触れただけでも、彼女の瞳はこれまでと違う色合いで潤んでいた。
別れ間際に初めてのキスをし、あまりの甘さにそのまま押し倒したいのを堪えた自分を、称えてやりたい。
「甘いのか?」
「え?」
ジェイは顔を上げた。
気づくと、いつの間にやら右手にはブランデー入りの…グラス?
「これは?」
「酒を飲むかって聞いたら、飲むって言ったろ」
「言ったか?」記憶になかった。
「まさか…覚えてないのか?」
「僕は…」いったい何を語ったのだろう。甘い?
ジェイは顔を歪めて聡に向き直った。
「甘い?」
「ジェイ、本当に甘かったのか?気分とかじゃなくて、ほんとに?」
ジェイは目を閉じて事態を飲み込んだ。
どうやら自分で気づかないほど舞い上がっていて、回想しながらすべてを独白したらしい。
あまりのことに顔が引きつったが、聡の方は甘いという言葉にばかり気を取られているようだ。
「甘かったよ。あまりに甘くて意識が飛びそうになった。あんなゴージャスな体験は初めてだったよ」
やけくそになったジェイは、聡にそう言った。
あてつけがましく言ったのに、聡は何か考え込んでいるばかりだ。
「聡、どうしたんだ?」
「いや。ひとによって味わう感覚というのは違うもんなんだなと思ってな」
「そりゃあ、個人差はあるだろうけど…というか。キスの相手によるさ。そんなの当たり前だろ」
「相手による…?」
「好きでもない女とキスしても甘いわけがないだろ。相手を愛する分、甘さは増すんじゃないか」
「たしかにそうだったな。実際、嫌悪感しか湧かなかった」
「嫌悪感?」
「わたしは最低な男だ。ジェイ、今だからいうが、わたしは彼女を愛してなかったんだ。これっぽっちも。彼女が浮気してくれて、わたしはほっとした…」
「なんだ…それが、真実ってことか?」
「ああ」
ジェイは聡の陰のある表情をみて、眉をひそめた。
「愛していないのに、彼女を愛している振りをしていたわけか」
「口にしないでくれ、ただでさえひどい罪悪感にさいなまれてるんだ」
ジェイはグラスをテーブルに置くと、腕を組んで背筋を伸ばした。
「それなら、もうひとつの真実をおしえてやるよ」
「なんのことだ?」
「あの浮気女は、君を愛してなかったってことさ」
思った以上に聡は驚いたようだ。
美しさだけが取り柄の女だった。その性格は最悪だった。
彼女の家は貧しくて、そんな生活にピリオドを打ちたかったあの女は、金持ちの聡に目をつけたのだ。
他の男と仲のいいところを巧に演出し、聡をワナに掛けた。
もちろん、そのころの聡は、女性の気を引くに充分なほど魅力的で、女たちの人気の的だった。
金持ちで魅力的、そんな彼に、あの女は目をつけたのだ。
策士だった。見事なくらい悪知恵の働く女だった。
ジェイも、聡を気に掛ける友達はみな、彼に警告した。
だがあの頃の聡は、そのいっさいを聞き入れなかった。
「そうなのか?」
「君があの女を愛してなかったなら言うけど、あの女は僕にも誘いを掛けてきたんだぞ」
聡がショックを受けたというよりは、単純に驚いたというように唖然とし、ジェイはほっとした。
「セックスが大好きな女だった。君だけでは満足できないんだろうって、彼女と関係のある男は言っていた」
「そこは訂正して置きたいもんだな。彼女とわたしは関係を持たなかった」
ジェイは思わず噴き出した。
「これは驚いたな。あの女に誘いを掛けられて断れたのは僕だけだと自慢に思ってたのに」
「キスだけでも嫌悪感が湧くのに、抱けるわけがない」
「彼女は君と肉体関係があると周りに仄めかしてたぞ。そうか…君に相手にされなくて、よほど悔しかったんだな」
聡が笑い出した。密会の場に、ふたりの大きな笑い声がしばらく続いた。
「ああ、気分がいい。ジェイ、礼を言うよ。おかげでこれまで取り付いて離れなかった罪悪感が吹き飛んだ。まるで彼女に会う前の自分に戻れたような気分だ」
「それは良かった。あとは亜衣莉との仲を深めるだけだな」
ジェイの楽しげなからかいの言葉に、聡は顔を曇らせた。
「どうした?」
「彼女は駄目だ。若すぎるし、わたしでは相応しくない」
「まさかと思うが、本気でそう思ってるのか?彼女を愛してるんだろ」
「…わからない」
ジェイは眉を寄せて俯いている聡を見つめ、やおら立ち上がった。
聡にはまだ時間が必要だ。
「それじゃ、帰るとするよ。飲んでしまったからタクシーを呼んでくれるか?」
「…ああ」
ジェイが帰ると聞いて、聡は少しがっかりしたようだ。
もしかすると、理解出来ない自分自身から抜け出したくて、ジェイにすがりたかったのかもしれない。
だが、ジェイにはどうしてやりようもない。
これは聡の心の問題で、彼には充分な時が必要なのだ。
|
|