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その29 胸の中の思い
一緒に行動する相手が違うと、思いがけない新境地が次々と開けるものだ。
免許の学科試験問題に取り組んでいる亜衣莉を前にして、聡はそんなことを思っていた。
遊園地。そしてファミレス。
聡は周りを見回してその建築のデザインをじっくり楽しんだ。
独特の雰囲気をうまく表現している。
そして、若者が低価格で楽しめるメニュー。驚くような値段で飲み物は飲み放題。
その飲み放題のコーヒーを飲みつつ、こんな場所もあるのか…と聡は目を見張る思いだった。
とにかく亜衣莉とともにいるのは楽しかった。
くるくると変わる亜衣莉の表情、そして仕草。彼には予測不可能な突飛な行動。
彼女を懐に入れて、ずっと抱えていたかった。
温かくて驚きでいっぱいで、彼の視野を大きく広げてくれる。
亜衣莉の仮免の試験は、冬休みに受けることになっていた。
クリスマスが終わった次の週、暮れも間近で聡も仕事に追われる時期だが、聡はなんとか都合をつけて彼女を試験会場に連れて行くつもりだった。
このところ、これまでになく頻繁に休んでいるが、ジェイがいてくれるから大丈夫だろう。
それに、就業時間に関係なく、使える時間を仕事に回せばいい。
その時、更紗から電話が掛かってきた。
シャーペンを持って俯いていた亜衣莉は少しだけ顔を上げたが、すぐにまた俯いた。
「珍しいですね。更紗叔母さんからわたしに電話なんて。何かありましたか?」
更紗には、クリスマスパーティに同伴してもらうモデルをひとり貸してくれるように頼んであった。
もしかすると、その約束が無理にでもなったのだろうか?
「24日のお昼前後、聡さん、予定がおありかしら?」
「ええ。予定はありますよ?それが何か」
「頼みがあるのだけど、もちろん…聞いてくださるわね。頼みはお互い様ですものね。聡さん」
聡は苦笑いした。
たしかに頼みはお互い様だが、いったい何を頼もうと言うのだろう。
24日は、仕事もあるし、亜衣莉との買い物も予定している。
「まずは、その頼みとやらを聞きましょう」
「ショーをすることになっているの。そのショーのモデルとして玲香さんに出ていただくのだけど、彼女のパートナーが必要なの」
「ショー?」聡は思わず叫んだ。
驚いたらしい亜衣莉が彼を見つめてきた。
困った聡は亜衣莉に向けて、意味もなく小さく手を振った。
「ショーってファッションショーのことですよね。それに出ろと言うんですか?このわたしに!」
声を潜めていたが、あまりに信じられない話に、聡の語尾が強まる。
「翔が、あいつがいるじゃありませんか。経験者なんだし、あいつに頼んでください」
「翔さんも出ることになっているの。彼にはすでに別のパートナーがいるのよ」
自分から翔のことを口にしたのに、聡は驚いた。
二度とやらないとあれほど嫌がっていた翔がなぜ。
「翔がやると言ったんですか?…どうしてまた」
「翔さんの彼女も出るからよ」
聡はため息をついた。それなら道理だ。
「とにかく、予定があるんです。頼むから他を…」
「あら、聡さんの頼み…わたくしもう聞いてあげたと思うのだけれど…」
聡は目眩がした。
言い出して引くような叔母ではなかった。
「分かりました…」
「引き受けてくださると思ったわ。それじゃあ、よろしくお願いね」
「あ、違う…」
電話は切れていた。聡は呆然と携帯を見つめた。
また夜にでも電話でというつもりだったのに…
叔母に対して、いささか憤りが湧いたが、いまさら反故になど出来ないだろう。
それに元々聡は、更紗に借りがある身だ。
「モデルをするんですか?ファッションショーの…」亜衣莉が呟くように小さな声で言った。
聡は改めて亜衣莉を見た。ひどく驚いたようだ。
叔母も場所をわきまえて掛けてくれれば良いものをと、思わず身勝手な不満が湧いたが、彼がどこにいるかなど、叔母に把握できるわけがない。
「あ、いや。…それが…参ったな。妹がモデルをやることになったらしいんだ」
「妹さん、モデルをなさってるんですか?」
「いや、今回が初めてだと思うよ。ショーのモデルというタイプじゃないんだが…とにかく妹のパートナーを務めて欲しいらしい」
「そうなんですか」少し明るい声で亜衣莉が言った。
「笑えるだろ。このわたしが…だなんて」
「いえ、素敵だと…思います」
亜衣莉はそう言うと、シャーペンを持ち直し、問題集に視線を落とした。
もろちん、素敵と言う言葉に、聡の心は弾んだ。
「もう、完璧に近いな。学科試験を落とすことはないだろう」
ファミレスで2時間あまりも過ごし、テーブルに広げたものを片付けている亜衣莉に聡は言った。
「そうでしょうか?」
「あとは、緊張しないことだ」
「それが一番難しいです」亜衣莉が肩を竦めながら微笑んだ。
「星崎さんじゃない」「あ、ほんとだぁ」「ぐうーぜーん」
振り向いた亜衣莉が小さく会釈した。
親しげな相手の様子ほどには、親しくなさそうだった。
「こんなところで浮気してちゃだめじゃん。彼氏に言いつけちゃうわよ」
「え?」亜衣莉が驚いて叫ぶように言った。
「ほんとだよ。こんな素敵なひと連れちゃって、平井君が知ったら怒っちゃうわよ」
「平井君は…」
「ねえねえ、紹介してよぉ。もしかして、星崎さんのお兄さんなの」
聡は腹が立ってきた。
彼女達の瞳にははっきりと悪意がある。
どうやら亜衣莉にはそれが分からないらしい。
彼女達の言葉に動揺さらせれているばかりだ。これでは相手の思う壺だろう。
「ね、ここに座ってもいい?」
先ほど紹介してくれと言った子だった。
彼女はそう言うと、返事も待たずに、聡の隣に座ろうとする。
こんな無作法な子どもに勝手な真似をさせる聡ではない。
彼はすっと立ち上がり、亜衣莉に手を差し出した。
「彼女達はこのテーブルに座りたいようだ。亜衣莉、僕らは出よう」
僕という単語が、自然に口をついて出た。
これまで口にしたことがなかったのに、不思議と違和感がなかった。
亜衣莉が彼の手を握り返し、聡は亜衣莉の手を取ったままレジへと歩き出した。
彼女達をそのままに捨て置けなかったのか、亜衣莉は振り向き、「それじゃあ」と言った。
「なによあれ」「失礼しちゃう」という声が後方でしたが、聡はもちろん振り返らなかった。
「すみませんでした」
車に乗り込んでから、亜衣莉が申し訳なさそうに言った。
「君の友達ってわけじゃないだろ。謝ることじゃない」
「クラスメートなんです。たしかに友達ってほどじゃありませんけど…」
「困ったか?」
「はい?」
「このことが平井とかいう男に知られたら…不味いか?」
「平井君に…。えっ、いえ、もちろん不味くなんかありません」
聡の問いに困惑したような亜衣莉の表情を見て、彼は少しほっとした。
「でも、君と平井が付き合っていると、彼女達には思われているみたいだったが…」
「仲が良いから、そう思い込んでいるひとは多いのかもしれません。けど、本当に、わたしたち、ただの友達です」
「そうか」
分かったというように聡は表情を変えずに頷いたが、ほんとうのところ、胸にはわだかまるものでいっぱいだった。
嫉妬…
聡は心に浮かんだその単語を、否定しようとして止めた。
もう、認めるべきだろう。
助手席に座っている亜衣莉を、聡は見つめた。
膝の上に重ねて置いている折れそうに細い指。華奢な肩のライン。やさしい笑みを浮べる桃色の唇。
聡の視線を感じて、亜衣莉がそっと見上げてきた。
長いまつげに縁取られた瞳が、恥ずかしげに聡に向けられる。
「なんですか?」
君を愛している…聡は胸の中で囁いた。
本当なら今頃、亜衣莉と買い物に出掛けているはずだったのに…
きらびやかなショーも、聡の目にはちっとも楽しいものに映らなかった。
時間が過ぎるのが、いつもより異常に遅すぎる気がする。
仕事をしているとあっという間だし、亜衣莉と一緒にいる時は、あんなにあっけなく過ぎ去る時が、いまは誰かの力で間延びさせられているのではないかと思うほど、遅々として進まない。
弟の翔がいれば、会話も成り立ち、時間つぶしになるのだが、いまは席を立っていた。
聡は、先ほどから黙り込んでいる吉永という教師をちらりと見た。
この場に居心地の悪さを感じているらしく、ひどく落ち着きがない。
翔の話しだと、彼は聡と同じ歳らしい。
おまけに、この男は、綾乃が好きらしかった。
つまり、亜衣莉と聡と同じだけ、綾乃と吉永も年の差があるということだ。
「綾乃が好きなんですか?」
思わずそんな率直な質問が、聡の口から零れていた。
「は、え、…そ、そんなことは…か、彼女は、わたしの受け持ちの生徒で…」
しどろもどろに吉永が言った。
その慌てっ振りが、語るに落ちるだと気づかないらしい。
「歳の差をどう考えてます?」
「は?」質問の意味は伝わったはずだ。吉永が唖然とした。
「七つの歳の開きをどう思います?埋められる差だと思いますか?」
「あの、小原はわたしの生徒なんです。そういう目で見てはいけない存在で…」
「見てはいけないけど、見てしまう?」
吉永は苦笑しつつ頭を掻いた。
「参ったな」
「参りますよね」
亜衣莉のことを考えて聡は言った。
「はい?」
「実はわたしも、あなたと同じ立場です」
「と、言いますと…」
「そのままですよ。好きになった相手が七つ下なんです」
「高三?…って、ことですか?」
「ええ、やっかいなことに…」
「そうなんですか」
「それであなたは、どうするんです?」
「ど、どうするって?彼女はわたしの教え子で…」
「それはもう何度もお聞きしましたよ。まあ、生徒だとか教師だとか言っていられる程度の気持ちなら、どうでもいいですよね」
「どうでも良くは…」
「その発言、矛盾、してませんか?」
吉永はひどく赤くなった。
彼は俯いて「すみません」と謝ってきた。
聡はジレンマに苦しんでいる彼が気の毒になってきた。
「否定しないで、柔軟に素直に受け入れた方が…」
聡は言葉を止め、苦い笑いを浮べた。この言葉は父親の受け売りだった。
亜衣莉のことを考えると、人に言える立場ではないのに…
だからこそ、吉永に言ってしまうのかも知れない。つまりは、自分自身に言いたい言葉なのだ。
彼女への思いを、否定せずに、素直に受け入れろ…と。
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