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その32 パーティー会場へ
「やっぱり、やめておきます。ジェイ、ここで下ろして、わたし歩いて帰るから」
車の後部座席から、運転席にいるジェイに、半分懇願するように亜衣莉は言った。
「亜衣莉、大丈夫だから。それにもうすぐ着くよ」
もうすぐと聞いて亜衣莉は竦みあがった。
パーティに呼ばれてもいないのに、のこのこ顔を出せるほど亜衣莉の神経は図太くない。
「亜衣莉、君の携帯にも、聡からなんの連絡もないのか?」
ジェイの問いに、亜衣莉は困った。
まだ寝ていた時、聡から電話が掛かってきたと思うのだ。
電話に出て話しをして…はっきりと目が覚めたときには、携帯を手に持ったままだった。
「いえ。それが、朝早くに来たような気がするの。でもそれが現実だったのか良く分からなくて…夢だった気も…」
ほとんど内容も覚えていないし、やはりあれは夢だったのかもしれない。
「亜衣莉、大丈夫だ。聡を信じろ」
ジェイの言葉に亜衣莉は顔を上げた。
「聡さんを、信じる?」
「そう。聡の元に行くのをためらってる君は、彼の気持ちを信じてないってことになるぞ」
「わたし…」
ジェイの言葉はかなり衝撃だった。
ジェイの言うとおり、亜衣莉は、聡を信じていないのかもしれない。
彼を信じていれば、聡の家に行くことを怖いと思いはしないだろう。
それでも、亜衣莉は怖かったし、怯える気持ちも取り除けなかった。
そして、そんな自分がたまらないほど情けなかった。
ジェイは、大きな門を抜けて入って行った。
目の前には巨大な屋敷があり、あたりは車でいっぱいだった。
ジェイは開いたスペースに車を入れて駐車した。
「あの、ジェイ。ここは?ホテルとか…なの?」
真実を知るのが嫌で、望みを繋ぐように亜衣莉は尋ねた。
「いや、聡の家だ。少々でかいが…」
でかいなんてものじゃなかった。亜衣莉は泣きたくなった。
「うちの何倍くらい大きいのかしら?」
屋敷に見惚れていた美紅が、単純に興味を見せて呟いた。
「わたし…やっぱり、行けないわ」
やはり聡は、亜衣莉とは住む世界が違ったのだ。
亜衣莉は、こんなところに迷い込みたくなかった。
それもひとりきりで…
ジェイと美紅は、これからふたりしてホテルに行ってしまう。
せめて、このふたりが一緒にいてくれれば…
「お願い。しばらくでいいから、ふたりとも一緒にいてくれない。そうでないと、わたしとても行けない…」
情けない顔で亜衣莉は懇願した。
「仕方がない。美紅、しばらく亜衣莉に付き合おう」
ジェイが温かな笑顔を浮べたのを見て、亜衣莉はほっとした。
「もちろんいいわ。亜衣莉に心細い思いさせたくないもの。ずっと一緒にいてあげるわ」
「美紅、さすがにずっと一緒にはいられないよ。ホテルの予約もあるし…」
「そうだけど、亜衣莉が…」
「こんなところで話していても、埒が明かない。とにかく行こう。聡に引き合わせてあげれば、僕達は邪魔なだけさ」
亜衣莉はジェイと美紅の後ろから、嫌々付いて行った。
ふたりがいてくれると決まって、気持ちも楽になったが、踏み込む場所があまりにも場違い過ぎる。
亜衣莉は、聡へのプレゼントを持って来ていた。
さんざん悩んだ末に買ったネクタイだった。
初めは手ごろな値段のものを見ていたのだが、見比べているうちについつい高いものを手に取ってしまい、結局、彼女らしくない買い物をしてしまった。そのことは亜衣莉を落ち込ませた。
聡は値段など気にせず喜んでくれたに違いないのだ。それなのに…
近付けば近付くほど巨大になる館は、驚くほどの圧迫感をもって亜衣莉に迫ってくるようだった。
だだ広い玄関には受付が設えられ、係の者がふたりで対応していた。
このパーティを請負った会社の人間だろうと、ジェイが美紅に言っているのが聞こえた。
ジェイの顔を見て、彼らは英語で話しかけてきたが、ジェイはその必要はないと手を振った。
「すまないが、伊坂聡を呼んで欲しい」
招待状を差し出しながらジェイが言った。
「…あの、伊坂様のご長男様を…ですか?」
「そうだ」
亜衣莉と美紅は意味もなく顔を見合わせた。
彼女の中で、聡はますます遠くなってゆく。
「いま聡様は、パーティー会場にいらっしゃいまして、こちらにお呼びするというのは、出来かねますが…」
「いいから、ジェイ・エバンスが…、いや、星崎亜衣莉が来たと伝えてくれ。やつの方がすっ飛んでくるだろうよ」
迅速に対応しない彼らに苛立ったらくし、ジェイが当て付けがましく言った。
「星崎…亜衣莉様ですか?」
「そうだ」
自分の名前を繰り返されて、亜衣莉は震え上がった。
「あの、ジェイ。わたしやっぱり、帰る…」
亜衣莉が泣きそうな声でそう言ったとき、少し離れた場所から、ジェイを呼ぶ声がした。
ロングドレス姿の上品な女性が、笑顔を浮べてこちらに向かって近付いて来る。
受付のひとたちが、彼女に向かって丁寧に頭を下げた。
「ジェイ、いらっしゃい。…こちらのお嬢さん達は?あなたのお友達?」
「ゆり子さん、今日はお招きいただいてありがとう。彼女は星崎美紅。僕の恋人だよ。それと、美紅の妹の亜衣莉、彼女は…」
「まあ、ジェイ。素敵な方と巡り合えたようね」
女性は、美紅と亜衣莉にやさしい笑顔で微笑みかけてきた。
「ええ。僕は世界で一番のしあわせ者ですよ」
冗談と本気を混ぜてジェイが言った。
「こちらは、聡の母のゆり子さんだ」
頬をピンクに染めた美紅と、姉とは対照的に青くなった亜衣莉は、それぞれ頭を下げて挨拶した。
「わたし、いつも失敗ばかりして、伊坂室長にご迷惑掛けているんです。すみません」
なにも聡の両親に謝る必要はないのに、美紅はぺこりと頭を下げた。
聡の母が愉快そうな笑い声を上げた。
「聡さんと、同じ職場の方なのね」
「ええ。僕も美紅も、聡の部下ですよ」
聡の母は、悪戯っぼい笑みを浮べた。
「聡さんが自分の職場に女性を入れた話は主人から聞いていたのよ。それがあなただったのね。あの子との仕事はやり辛くありませんか?」
「やり辛いというより、すっごく怖いです。表情を変えずに無能って言われたこともあります。あ、でも、この前、よくやっているって褒めてもらえたんです。いつもは鬼みたいな伊坂室長が、あの時だけはやさしく見えました」
亜衣莉は、美紅の独白に、思わずよろけそうになった。
聡の母は楽しげに、声を上げて笑った。
「会場の方に移動してお話ししましょうよ。主人も喜ぶわ。お料理も素敵なシェフを招いたから、とてもおいしいのよ」
「ゆり子さん、聡も会場に?」
「ええ。いま会場内をいやいや挨拶して回っているところよ。わたしもそろそろ主人のところに戻らないと、彼の機嫌を損ねてしまいそうだし…」
その時、ジェイの携帯が鳴り出した。ジェイは渋い顔をして携帯を耳に当てた。
「…ああ、セリア、なんだ。今忙しい…え、今なんて言った。…ホントにか…うん…うん…」
少し長めの会話を終え、ジェイはみんなに向いた。その顔は悦びで弾けそうだ。
亜衣莉はどきりとした。
以前、美紅との会話に登場した女性の名前。まさか…
「ちょっと行くところが出来た」
亜衣莉は愕然として息を止めた。
まさかジェイは、美紅を置いて、その女性のところに行くというのだろうか。
「もしかしてお母様、日本にいらしたの?」
亜衣莉は緊張を解いた。
母親?
「ええ。僕が美紅と結婚するって報告したから、いても立ってもいられなかったんでしょうね」
「セリア、日本に永住するつもりはあるのかしら」
「さあ、どうだろう。怜治はそうなって欲しいんだろうけど…とにかくふたりに会ってきますよ。おかげで思っていたより早く、美紅に母を紹介できる」
ジェイはなんのことやら分からずに驚いたままの美紅を促し、聡の母に何度も亜衣莉を頼むと言い、ふたりはいなくなった。
展開の速さに、亜衣莉は呆然としたままふたりを見送る形になった。
残された亜衣莉を促しながら、聡の母は歩き出した。
ジェイと美紅がいなくなったいま、亜衣莉はついてゆくしかなかった。
極大の心細さに取り付かれながら…
「亜衣莉さんは、おいくつなの?」
「じ、18です」
強張った顔の亜衣莉に気づいたのか、聡の母ゆり子がほっとさせるようなやさしい笑みを浮べた。
その笑顔にも、彼女の極度の緊張は和らがなかった。
亜衣莉は、救いを求めるように、手にしていた聡へのプレゼントをぎゅっと胸に抱き締めた。
「大学生?」
「いえ、高校三年生です」
「あら、娘と同じだわ」
亜衣莉の声は、無様なほど震えていた。
ゆり子は、それに気づかないふりをしてくれたようだ。だが、その事実は益々、亜衣莉を萎縮させた。
「は、はい。…聡さんが、妹の玲香さんと同じ歳だと、言っていました」
自分の語っている言葉がぼんやりとこもって聞こえた。
どうやら亜衣莉が思うよりもっと、彼女はてんぱっているらしい。
聡の母が突然立ち止まり亜衣莉に振り返った。
瞳を閃かせ、ひどく楽しげに亜衣莉を見つめてくる。
何かおかしなことを言っただろうか?と亜衣莉は心配になった。
亜衣莉は自分が分からなくなった。こんなに思考が働かないなんて初めてのことだ。
「素敵なドレスね。更紗のかしら?」
そう突然問われて、亜衣莉は戸惑った。
更紗とはなんだろう?
「このドレスは、…クリスマスのプレゼントに、聡さんからいただいたもので…」
言葉にした片っ端から、話した内容が消えてゆく。
亜衣莉は焦りに駆られて、思いつく言葉をそのまま口にした。
「この靴も、アクセサリーも、聡さんにいただいたもので…」
自分はいったい、何を話しているのだろう。
亜衣莉は、聡の母の言葉に必死で耳を傾けようとした。
「そうなの。とても素敵よ。エメラルドがお似合いだわ。聡さんも、良いセンスをしてること」
エ、エメラルド?
「こ…これ、ま、まさか本物とかじゃ…ないですよね」
亜衣莉は真っ青になった。
ゆり子の顔が、少し心配そうに曇った。
「さあ。どうかしら…。でも、どちらでもよいのではなくて…あなたが聡さんにそれをプレゼントされて嬉しかったなら、私は、どちらでもいいと思いますよ」
「もちろん、嬉しかったです。でも…」
「でも?」
「聡さんと、わたしは…住む世界が違うんです…だから…」
「だから…」
「帰らなくちゃ…わたしはここにいられません…」
「…彼は、何も特別な人間ではないわ」
「でも…」亜衣莉は後ずさった。
「こちらよ。行きましょう」
ゆり子は、亜衣莉の背に手を当てると、彼女を宥めるように促しながら歩き出した。
やさしい手に抗うことが出来ず、亜衣莉は従うしかなかった。
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