恋にまっしぐら
その4 救世主?登場



美紅は、膝の痛みを我慢しながら社の玄関をくぐった。
またやってしまった。駅の構内で見事に転んだのだ。

それでも打撲だけで済んでよかった。
血が出てしまっていたら、更衣室でストッキングを履き替えるという時間を別に取られてしまう。

「美紅ちゃん、おはよう」

更衣室に居合わせた女性たちから親しげな挨拶を受け、美紅は微笑んだ。

「皆さん、おはようございます」

「ね、ね、美紅ちゃんの部署、今日ひとり配属されるってほんと?」

「はい。室長がそう言ってらっしゃいました」

「やっぱりー、期待しちゃうわ」

「あそこは理想の男の巣窟だもんねぇ」

「いいなあ、美紅ちゃん、あの部署は女の天国よ」

「は、はあ」

美紅は先輩達の羨望の視線に恥ずかしげに俯いた。

上司から叱られてばかりの美紅の実態を、彼女達は知らない。

「中でも室長は最高」

「そうだけどさ。室長には…」

「そうなのよね。でも、いまの彼女とは別れるかも知れないじゃない」

「あんな美女と?人気のファッションモデルよ」

「だからこそよ、派手な女に飽きて、地味目の女が新鮮に見えるかもしれないじゃない」

「地味目ぇ、なんか自分がそうだって思いたくは無いわ」

先輩達のそんな盛り上がりの中、ほんとうに地味目の服から、斬新なデザインの女性社員の制服に着替え終わった美紅は、先輩達に笑みを見せ、更衣室から先に出た。

美紅の職場の男達は出社がとても早いのだ。
彼女ひとり、ぎりぎり職場に飛び込むようなことはしたくない。

開いていたエレベーターに急いで駆け込み、弾んだ息を整えながら痛む膝に手を当てる。

「星崎君」

扉が閉じた途端、背後から聞き覚えのある声が飛んできて、美紅は飛び上がりざま振り向いた。
すぐ目の前に、背広のネクタイがあった。

美紅の頭のてっぺんと同じ位置にある肩のライン。まぎれもなく室長だ。

「お、おはようございます。気づかなくてすみません」

「君、また膝をどこかで打ったのか?」

「あ…いえ、打ってはいません。その…」

「転んだのか?どこで?」言葉に苦笑が混じっている。

答えたくは無かったが、尋ねられた以上無視することも出来ない。

「駅の…構内です」

「一度君と出勤してみたいもんだな。朝からずいぶん楽しめるだろう」

美紅は真っ赤になって、これ以上俯けないほど俯いた。

「すまん。…冗談のつもりだったんだが」

「…いえ」

その時エレベーターの扉が開いた。
降りる直前気づいた。

エレベーターの中にいたのは、室長だけではなかった。
彼以外の数人の人影。

美紅は唇を噛んだ。

室長は意地悪だ。

美紅はまだ赤いままの頬を強張らせ、エレベーターから出てそのまま職場に急いだ。


自分の職場。
半年もの間ここで働いている。

だが、美紅はこの職場にいる自分を、この会社にいる自分そのものを、とてもぼんやりとしたものとしてしか感じ取れなかった。

ここに存在している実感が無いのだ。
いつだってスクリーンの世界が、三百六十度、自分を取り囲んでいるような気がする。
その感覚のせいで、ひどく息が詰まる。

頭脳の切れ、冴え、そして生き抜くことに長けたものたちばかりの世界。
ここは美紅の世界ではない。

始業のメロディーが流れ、室長のよく通る声が響く。

「みんな、こちらに注目してくれ」

室長の隣にひとりの男性が立っているようだ。
先ほどのことがあり、美紅は顔が上げられなかった。
エレベーターの中に、この男性もいたに違いない。

いまさら恥ずかしがっても仕方がないのだが…
この部屋の全員が、美紅の粗忽さを知っているのだから。

彼の簡単な自己紹介が終わったが、名前をどうしてか聞き取れなかった。

みんなすぐに仕事に戻り、美紅も昨日の続きの仕事を始めた。

配属されたばかりの男性は、そのまましばらく室長と話しこみ、美紅の隣の席は空いたままだった。

「君、ここ記入ミスのようだよ」

パソコンの画面を凝視して、仕事をしていた美紅は、そのやさしい声にはっとした。
声の主が指さしているところをあらためて確認すると、確かにミスをしている。

「ありがとうございます。助かりました」

美紅は深く頭を下げた。

だが心の中では戸惑いが湧いていた。
いま、間違いを指摘されたのよね。

これが室長だったら、また大目玉を食らっていたに違いない…

その時、とてもやさしい手つきでポンポンと肩を叩かれた。

「リラックス」

その言葉はまるで天使の囁きのように美紅の耳に届いた。
室長の怖い声とは百倍違う。

美紅は振り向き、そこに天使を見た。

吸い込まれそうに澄みきった青い瞳。

「瞳。きれいです」

考えるより先に言葉が零れていた。

「そう。ありがとう」

頭がぼーっとしていた。
天使の声が、頭の中でぼわんぼわんとおかしなぐあいに響き渡った。

「あの、天使様、お名前は?」

「…すまない、テンシサマって…なにかな?」

天使様は、日本語はあまり知らないらしい。

「名前です。お名前…」

「ジェイ・エバンスだ。よろしく」

相手の顔ばかり見つめていた彼女は、握手のために差し出された手に気づかなかった。

「ジェイ・エバンス。天界でも苗字は下ですよね。エバンスさんとおっしゃるんですね」

美紅はこれ以上ないくらい大きく微笑んだ。
エバンス天使様は周りを見回し、少し困ったような顔をしている。

その顔を見て、美紅はやっと自分がどこにいるのか思い出した。

ここは職場だ。
職場に天使?
ありえなくないだろうか?

ぼうっとしていた脳に風が通ったようで、美紅は意識がはっきりしてきた。
それとともに、美紅の顔から笑みが消えていった。

彼は、天使ではなかったらしい。
今日この職場に配属されてきたひとだ。

ジェイ・エバンスは美紅を前に、心から楽しそうに笑っている。

その笑顔をみて美紅は思った。
彼はやはり天使だ。

美紅に意地悪を言ったり、したりしない。
彼がリラックスという言葉とともに叩いてくれた肩が、いまとても軽かった。

亜衣莉の手とおんなじ癒しを含んだ温かさを、青い瞳の彼は持っている。




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恋愛遊牧民G様
   
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