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その5 懐いた子犬
何かに…似ている。
仕事の初日というのに、山ほどの仕事を聡からもらい、片っ端から片付けていたジェイは、思考の半分を使って別のことを考えるという特技を発揮させていた。
聡の言っていた粗忽者が、女だとはまったく予想出来なかった。
女嫌いの聡が、自分の職場に女を入れることがあろうとは…
ジェイは、自分のほぼ真向かい、この部屋の一番大きなデスクに、気難しそうな顔をして座っている聡を窺った。
いったい彼に何があったのだろう?
ジェイは自分の左隣に腰掛けて、机に向かっている星崎美紅という名の女性にちらりと視線を向けた。
この彼女を…気に入っているのだろうか?
美紅が必死の面持ちで見つめているパソコンの画面に視線を向けて、彼は眉を上げた。
「君、ここ、記入ミスのようだよ」
彼は、指をさして囁くように教えた。
「ありがとうこざいます。助かりました」
そう言って、律儀に頭を下げる。
ジェイは眉を寄せた。
なんだか心ここにあらずの瞳の揺らぎ。
「リラックス」
彼は思わずそう言って、彼女の肩をとんとんとやさしく叩いていた。
彼女が初めて、ジェイにまともに向いた。
もしかしたら、いま初めて彼のことを認識してもらえたのかもしれない。
彼女がじっと、困るほどじっとジェイの瞳を覗き込んできた。
「瞳。きれいです」
うっとりとかいうのではない。正直な感想?
彼はどんな反応をすればいいのか迷い、ひと時、時を止めた。
「そう。ありがとう」
「あの、天使様、お名前は?」
ジェイは眉を上げた。テンシサマ?
「…すまない、テンシサマって…なにかな?」
「名前です。お名前…」
名前?
「ああ、ジェイ・エバンスだ。よろしく」
腑に落ちなかったが、彼は答えた。
そして彼女に手を差し出した。
だが、彼女は彼の顔を見つめてくるばかりで、握手に応じてこない。
ジェイは差し出した手のひらの行方に困った。
「ジェイ・エバンス。天界でも苗字は下ですよね。エバンスさんとおっしゃるんですね」
テンカイ? 展開…?? 転回…???
彼女が大きく微笑んだ。
ジェイはいまさら周りを見回した。案の定かなりの注目をもらっている。
愉快そうな顔。そして、苦味を含んだ面白くなさそうな顔。
ジェイは聡に視線向けたが、彼はふたりを見てはいなかった。
その事実が、逆にジェイの胸に引っかかり、彼は堪えきれずに笑い出した。
やはり、彼女はおかしな女性だ。
仕事を再開し、楽しさを胸に感じながら、ジェイはそう結論付けた。
それにしても彼女…
この部署の男達は、どいつもやり手のいい男ばかりだ。
聡をボスにしているためか一番年かさの男でも、三十代半ばというところだ。
もちろん既婚者もいるようだが、半数は独身者だろう。
こんな男ばかりの中にいて、彼らを異性として意識していないし、この職場で自分がただひとりの女として、意識してもいないようだ。
逆に、数人の男は、彼女にかなりの好意を持っているのが丸分かりだ。
ジェイはデータを入力し終え、次の工程に移る前に、またちらりと彼女を見つめた。
小柄な身体に、好きな方向にカールした明るい栗色の髪。
大きな目と小さめの鼻。ぷっくらした唇。まるで愛らしいという言葉の象徴のようだ。
やはり聡は、この女性に恋を?
ジェイがランチから戻ってくると、美紅が待っていたように彼に話しかけてきた。
「エバンスさん、わたし一日中失敗ばかりしているんです。なんで首にならないのかしらって、いつも思うんです」
会話の中ほどで彼女が言った。
彼女の粗忽さは、すでに何度も披露してもらっていた。
ジェイは、どんな反応をすればいいのか、またひと時迷った。
「そうか」
彼女は頷き、哀しげな瞳を揺らした。
ジェイの先ほどからの疑問が、また表面に現れた。
確かに、何かに…似ている。いったい何に?
「そうなんです」
心底情けなさそうな声。
ジェイの胸がきゅんとした。
「これから、僕が援護してあげるよ」
そんな言葉が知らぬ間に口から零れていた。
美紅が、ぽかんとした表情をしばらく続けたあと、ぱあっと大きな笑みを浮べた。
あっ!
「ありがとうこざいます。今日お会いしたばかりなのに、エバンスさん、いい方ですね」
ジェイに心まであずけるように、手のひらに顎を載せてきた子犬と同じ目がそこにあった。
どうやら…懐かれたな。
困ったことに、懐かれたことが嬉しい自分がいて、ジェイはおかしかった。
先ほどから考えていた問いの答えが、いまさらぽんと出た。
彼女が何かに似ていると感じたのは、彼の、すでに天国に行ってしまった愛犬、サスケだったのだ。
「初日の感想は?」
また聡に夕食をご馳走になっていたジェイは、彼の言葉に微笑んだ。
「初日?よく言うな。初日の仕事量じゃなかったろう」
「出来ないやつには仕事を回したりしないよ」
聡はそう言って、焼き魚を口に運んだ。
昨日は鮨屋だったが、今日は日本料理屋。
聡はいつでも肩の凝らない親しみやすい店に連れてきてくれる。
ジェイに好き嫌いはないが、こちらに来たばかりだから、出来ればしばらくの間、日本の料理を口にしたい。それを聡は分かってくれているのだろう。
「ひとの心を、安い言葉でくすぐって、さらに働かせようって魂胆か、聡?」
聡は返事をしなかった。腹の底から笑い声を響かせている。
「聡」
「なんだ?」
「僕が聞きたがっている問いが何か、すでにわかっているだろう」
「まあな」
「それで、答えは?」
「質問されていないのに、答える気はない」
「そんなの時間の浪費だろう?まあいい、星崎美紅が、どうしてあの職場にいる?」
ジェイは小鉢に盛られた酢の物を、器用に箸を使って食べた。
この箸というのが彼は好きだった。
指の器用さを必要とする繊細な道具。
何より素材が良い。
フォークやナイフみたいな金属で食べるより、木の質感を感じながら食材を口に運ぶ方が自然なことな気がする。
「君ら、初日だけで、ずいぶん仲良くなったようだな?」
ジェイは聡の質問に質問で答えた。
「女嫌いの君が、女を職場にいれるなんてよほどの理由があるんだろう…その理由を教えてくれ」
「頼まれたんだ」
「君が?頼まれて、仕事の邪魔になる人材を、自分の職場に…」
「ジェイ、手厳しいな。ずいぶん彼女と親しそうにしていたようだったが」
「彼女と親しくなったとしても、真実は真実だ」
「どうでもいいことさ」
「どうでもいいか?それにしては彼女のことを気にしてるじゃないか?」
「そりゃあね、いつだって気にしてるさ。あの彼女は、いつどんな失敗をするかわからないからな」
聡が一言一言に力を込めて答えた。
「今日一日で分かったことがあるんだ」
ジェイは、たっぷりと間を持たせた。
聡がその間をもてあまして、眉をしかめた。
「君は、彼女に恋をしているな」
聡がたまらないというように、ブッと吹き出した。
「馬鹿馬鹿しい」
「そうかな?」
「お前、わたしを苛立たせて、理由を聞き出そうとしてるんだろ?」
ジェイはクツクツ笑った。
さすがに聡は、手ごわい。
「そうだとしても、一緒の職場にいて嫌悪を感じない女など、君にとって初めてじゃないのか?」
ジェイの言葉に、聡が怪訝な顔をした。
そしてしばらく、視線を左右に動かしながら考え込んだ。
「たしかに嫌悪は感じない。でも…」
「でも?」
「彼女を見ていると、無性に苛立つ…」
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