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その6 美少女の悩み
「運転免許、ですか?」
放課後の進路指導室、進路指導の教師を前に、手にした書類を見つめながら亜衣莉は言った。
「ここは運転免許取得していることが必須条件なんだ。社の車を使っての外出が多いらしい」
「そうですか」
亜衣莉はひどくがっかりした。
この会社の給与が一番高く、待遇も良く、家からも通える距離で、ここならなんら文句もなかったのに。
「なんとかならないか?」
教習所に通うお金などとても払えない。
数万円でなんとかなるなら払えないこともないが、それではとても無理だろう。
「もう少し考えて見ます。ありがとうございました」
亜衣莉は、教師の手前、一応そう言って頭を下げ、机の上の書類を集めはじめたが、彼女の頭の中で、この会社のことはすでに選択肢から外されていた。
残念だが、とても無理だ。
「運転免許は、持っていたほうがいいんだが」
次の進路相談をする生徒の書類を手に取りながらそう言った教師は、ひとり言のように呟いた。
亜衣莉は教師の視界に入っていないことは分かっていたが、もう一度頭を下げてからドアへと向かった。
廊下で自分の順番を待っていたクラスメートに笑顔を見せ、亜衣莉はその場から離れた。
「教習所なんてとても無理だわ」
鞄を取りに教室に戻ったところで、亜衣莉は思わず呟いた。
「美少女、何を悩んでおるのだ」
亜衣莉は、おどけた言葉に笑みを返した。
少し目の垂れた、優しい顔立ちの平井。
彼は前期、生徒会の副会長をしていた人物で、性格の良い彼は、みんなから好かれている。
平井はいつもふざけて、亜衣莉のことを美少女と呼ぶのだ。
「運転免許証を、数万円で取れないかしら?」
「数万円って、正確にはいくらだい?」
亜衣莉の真面目な様子に、平井が面を改めて聞き返してきた。
「最高、三万円…くらい」
「無理だな」
額に皺まで寄せて考え込みながら、重々しく平井が言った。
「無理よね」
「うむ。無理だ。いや、待てよ…」
考え込んだ平井。
亜衣莉は期待を込めて彼の言葉を待った。
「美紅、何かいいことあった?」
お風呂上がり、亜衣莉が剥いた柿を美味しそうに頬張りながらハミングまでしている姉に、亜衣莉は問いかけた。
このところの、これまでにない姉の機嫌のよさは、どうやら本物だったらしいと確信して、亜衣莉は尋ねてみることにしたのだ。
「あ、うん。あのね、天使が来たの」
「え?」
美紅の言葉に、亜衣莉はどう反応して良いのか分からなかった。
「やだ。亜衣莉ってば、わたしがトチ狂ったとでも思ってるみたい」
そう言って美紅がくすくす笑う。
「職場に新しいひとが入ったの。そのひと、とっても澄んだ青い瞳をしてるの」
亜衣莉の心に大きな喜びが湧いた。姉に、職場内の友達が出来たのだ。
嬉しすぎて、胸が異様にドキドキし、亜衣莉は自分の反応がおかしかった。
「髪はブロンドでね、キラキラ輝いてて、まるで天使みたいなひとなの。わたしにやさしくしてくれるの。でもね、ブロンドの髪、くるくるカールはしてないのよ」
姉の見当外れなこだわりに、亜衣莉は笑いを堪えた。
クルクルカールした髪は、美紅が持っている。
ちっともまとまってくれないと、朝、唇を尖らせて髪を梳いている姉だが、そんなことをしなくても、自然なままでとても可愛らしい。
「ねえ、そのひとにわたしも会って見たいわ。今度そのひとを、家にお呼びして…」
「亜衣莉ってば、まだそこまで親しくないわ」
美紅はそう言って笑ったが、姉の楽しげな様子に、亜衣莉は胸が震えそうなほど嬉しかった。
「あ。それでね、金曜日の明日、そのひとの歓迎会をするんですって。これまで、お酒飲めないし、遅くなるのがイヤで断って…」
亜衣莉は美紅に最後まで言わせなかった。
「わたしなら、大丈夫よ。楽しんできて」
「いいの?」
「もちろんよ。さて、わたしもお風呂にはいってくるわ」
亜衣莉は涙を堪えながらそう口にし、お風呂に向かった。
姉に友達が出来たくらいで泣くなんて滑稽すぎるだろう。
けれど亜衣莉は、溢れてくる涙をどうにも止められなかった。
湯船に浸かってお湯のぬくもりに手足を伸ばしながら、亜衣莉は平井の案を思い返していた。
免許証は教習所に通わなくても取得できるらしい。
だが、教習所に行かない代わりに、運転技術を学ぶため、免許証を持ったひとに習う必要があるのだ。
車、そして免許を持ったひとの力。
そのふたつが揃わなければこの案は実行不可能。
ペーパー試験は勉強すればなんとかなるだろうが、技能試験は、車の運転席に座ったことのない者が受かる筈が無い。
平井は心当たりを探してみると言ってくれたが、さすがに知らない人にそんなことを頼むのは、あつかましすぎるだろう。
イメージトレーニングだけじゃ駄目かしら。
駄目に決まっている。
亜衣莉は深いため息をつき、蛇口を捻った。
どうやらシャワーに切り替わっていたらしい。
亜衣莉は頭から冷たい水を浴び、叫びとともに飛び上がり、タイルに足を取られて、したたかお尻を打った。
「はい。これでいい?」
亜衣莉のお尻にシップを貼ってくれた美紅は、最後にシップを張った場所をピシャンと叩いた。
彼女は痛みに飛び上がった。
「美紅、ほんとうに痛いのよ」
「ごめんなさい。ついね。だって亜衣莉がこんな失態演じるなんてめったにないんだもん。なんかほっとしちゃって」とくすくす笑う。
「なんでも出来ちゃう亜衣莉だって、こんなこともあるんだなって」
「美紅ってば」
「だって、本当に自分の妹かって思うくらい亜衣莉はなんでもできるんだもの。それにみんなから好かれてる。お人形さんみたいに綺麗だし」
最後の言葉は身内の贔屓目というやつだ。
亜衣莉は笑みを浮べたが、虚しさを感じていた。
たしかに彼女はみなから好かれていると思う。
けれど、本当の親友と呼べる友達は、ひとりもいないのだ。
一番親しいのは平井だが、彼は異性で同性ではない。
「明日、ほんとうにいいの?」
「わたしの心配はいらないわ。そうだ。明日の夕飯は、ひとりですっごいご馳走作って食べちゃおうかしら」
「えーっ、ずるーい」
本気で拗ねている美紅をみて、亜衣莉は笑いこけた。しあわせだった。
親友はいないくても、彼女にはかけがえのない姉がいる。
美紅がいてくれれば、それでいい。
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