恋にまっしぐら
その9 ささやかなもてなし



食卓に並べられた手料理を前に、聡はあぐらをかいてくつろいでいた。
彼の真向かいに座ったジェイは、足を崩してはいるものの、無意識に背筋を伸ばしてかしこまっていた。

「見事だな。ジェイ」

まだキッチンでなにやらやっている亜衣莉をちらりと見て聡が言った。

「店で売っている惣菜じゃないのかな?」

若い女性がこんな料理を作れるとは、ジェイには想像し難かった。
日本料理は手が込んでいて、調理に時間がかかるものだと思い込んでいたのだ。

「いや、きっと違うな。これはみんな彼女の手作りだろう」と聡が言う。

「この短時間で、これを全部作ったって言うのか?」

「あの」

ひそひそと小声で話していたジェイと聡は、亜衣莉の呼びかけにふたり同時に顔を上げた。

「緑茶でよろしいですか?」

ジェイだけに尋ねているようだ。彼は頷いた。

「それでいいよ。お茶は大好きだから」

亜衣莉は微笑んでこくりと頷き、俯いた。
こぽこぽとお茶を注ぐ音が室内に心地よく響く。

トレーを持って亜衣莉がキッチンから出てきた。

「改まったものを作る時間が無かったので、作り置きのものばかりですけど…どうぞ」

炊き立てらしいうまそうな湯気を立てたご飯が、ふたりの前に置かれた。

「飯まで炊いてくれたのか?」と聡が言った。

「はい。圧力鍋だとすぐなんです。好きなんです圧力鍋。光熱費も浮くので…。ただ、買う時はかなり、勇気が要りましたけど」

彼女はそう言ってやさしい笑い声を上げた。

「勇気?」ジェイは思わず聞き返した。

「はい。かなり高価なんです」

ひどく真面目な顔で亜衣莉が言う。

「高価って、たかが鍋なのに、そんなに高いのか?」

鍋の値段などまったく知らないジェイは驚いた。

「はい。一万五千円もしたんです。もう買おうかどうしようか、三ヶ月くらい悩みました」

聡が珍しく、ポカンとした。
ジェイは頭の中で円の価値を考えていたが、どう考えても、一万五千円というのは一万円札が一枚と五千円札が一枚。先ほど自分が聡の財布から気軽に抜き出して、運転手に渡した札。

そんなふたりの様子にまったく気づかず、亜衣莉が話し続ける。

「でも、使い始めたら毎月の光熱費がぐっと下がったんです」

「いくらぐらい?」

我に返って口を閉じた聡が聞いた。

「そうですね。千円は違いますね」

マジな表情で亜衣莉が答えた。

「どうぞ、冷める前に食べてください。ご飯たくさん炊きましたから、お代わりしてくださいね」

「あ、ああ。いただかせてもらうよ」

「あの、わたしちょっと姉の様子を見てきますので、ごゆっくり」

亜衣莉は立ち上がると、部屋を出て行った。

ドアがバタンと音を立てて閉まり、三十秒ほど過ぎたのを見計らって、聡が唐突に口を開いた。

「千円…」

「聡?」

眉間に皺を寄せた聡がジェイに振り向いた。

「なんだ?」

「星崎さんの給料、彼女が失敗するたびに減給しているんじゃないだろうな」

「何を言う。そんなことなどしないぞ」

「だよな」

「たぶん、…あの子は、節約が趣味なんだろう」

そう言いながらも、聡は落ちつかなげだ。

「そうか」

両親を亡くし、姉妹二人きりの暮らしなのは、亜衣莉がキッチンで忙しく動いている間に、聡から耳打ちされていた。

「足りないのか?」

箸を持った聡は、そう呟きながら目の前の料理に手をつけた。そして「…うまいな」と呟く。

その驚きを含んだ呟きに促され、ジェイも口に運んだ。

うまかった。じんわりと心が満ちるような深い味わいだった。


「うまかったよ」

食後にお代わりのお茶を飲みながら聡が言った。

「そうですか。ありがとうございます。姉以外に食べてもらったことなかったから、実はお口に合うか、とても心配だったんです」

打ち明けるように言う彼女は、とても恥ずかしげだ。頬が桃色に染まっている。

「あ、でもこれは、わたしの作ったものじゃないんです。バイト先のお惣菜屋さんのもので、半額にするからって勧められてしまって…」

亜衣莉が指さした皿の料理は、ジェイが唯一塩辛いなと心の中でクレームをつけたものだった。

「君、バイトしてるのか?どうして?」眉を上げた聡が驚いたように言った。

「どうしてって、バイトするとお金がいただけるからですけれど…」

それ以外にどんな理由があるのだというような、不思議そうな顔で亜衣莉が言う。

「学業があるだろ。君はいま受験生だ。バイトしてたらそちらがおろそかにならないか?」

「…え?姉からお聞きになったんですか?…姉には内緒なんですけど、わたし就職を希望してるんです」

「どうして?君はとても優秀だと…」

「姉ったら…会社で身内の自慢なんかしてるんですか?」

亜衣莉が真っ赤になった。よほど恥ずかしかったらしい。

「いや。その。とにかくどうして進学しないんだ。星崎君の給与の額では足りないのか?」

「もちろんそんなことはありません。でも貯金しておかないと、何か不測の事態が起きたときに困りますから」

「そんな先の心配ばかりして、切り詰めた人生では楽しくないだろう」

「不測の事故は起こりえます。…すでに二度、経験していますし…」

ひどく遠慮がちに亜衣莉が言った。聡が顔色を変えてぐっと詰まった。

「すまない」

「いえ、わたしこそすみません。家の事情ばかり話題にしてしまって…」

「わたしが聞いたんだ」

聡が黙り込んだ。
部屋が急にしんとし、ジェイは気まずい沈黙を埋めるために、目に付いたものを話題にした。

「これは?」

「ああ、それは車の運転の教則本です。友達から借りて、いま勉強してるんです」

「友達から借りて…?教習所に、これから通うのかい?」聡が尋ねた。

ジェイには意味が分からなかった。

「いえ、その…」

亜衣莉がまた真っ赤になった。何かとても言い難いことがあるらしいと分かる。

「では、そろそろ行こうか。もうずいぶんと長い時間お邪魔してしまった」

壁の時計を見ると、すでに10時を過ぎている。

亜衣莉の厚意に礼を述べ、ふたりは星崎家をあとにした。


「彼女はいくつなんだ?」

帰りのタクシーの中、ジェイは聡に聞いた。
その質問がひどく唐突なものだということに、彼は気づかなかった。

「彼女って?星崎君の妹のことか?」

「ここで出てくる彼女は、彼女しかいないだろ。星崎美紅の歳は知っているんだからな」

「高校三年だ。十七か十八だろ。誕生日までは知らない」

「十七か…若いな」

「歳よりもしっかりしていたからな。わたしも驚いた。妹のことはいくらか聞いていたが、星崎君のイメージが強烈すぎて、彼女のミニチュアを妹にも想像していたからな」と聡はくすくす笑う。そして続けた。

「綺麗な子だったな。それに頭もよさそうだ。粗忽者でもない。星崎君とは大違いだ」

「そんな風に言っては星崎さんが…」

「だが事実だ」

あっさりとした聡の言葉に、ジェイは反論するのをやめた。
聡は本当のことを言っただけだ。そこに悪意は無い。

「…星崎美紅の粗忽を見越して、神様があの妹を授けたんだろう」

「お前の口から神が出てくるとはな」

からかうように聡が言ったが、ジェイは聞いてはいなかった。

「彼女の中には…」

ジェイは途中で黙り込んだ。


しばらく沈黙が続いた。ジェイは気を取り直してまた質問をした。

「最後の会話の意味がわかりかねたんだが」

「最後? 何を話したかな?」

「運転とか、彼女が言っていたろ」

聡が「ああ」と呟きながら、座席に深く凭れて腕を組んだ。

「車の教習所のことだろ。進学も諦めてるくらいだ。教習所は高いし、その金を工面出来ないんだろう。…なんらかの理由があるんだろうな。それでも彼女は免許を取りたがってる」





風呂から上がり、ベッドに腰掛けてジェイは濡れた髪を緩慢な動作でタオルで拭いた。

ベッドだけの空っぽの空間。
星崎家の温かな部屋が脳裏に浮かび、ジェイは後ろにひっくり返った。

ジェイの住まいは、いつだってこのようなものだった。
物が無い方が、自由でいられるような気がして…

昨日まで満足だった部屋なのに、いまは虚しく感じる。

携帯の着信音が微かに聞こえた。
ジェイは立ち上がってクローゼットを開け、スーツのポケットの中で鳴り続けている携帯を取り出した。

『もう掛けて来るなって昨日言ったろ。…いや、二度と帰らない。僕は日本で暮らす。…そうさ、その通りだ、僕は薄情さ。それじゃもう切るよ。さよなら、セリア』

ジェイは躊躇なく通話を打ち切った。そして電源も…

携帯の番号をレイに教えたのは間違いだった。彼はセリアに弱すぎる。

ジェイは自分の愚かさにため息をついた。
この携帯は会社から与えられたもので、勝手に解約することはできない。




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恋愛遊牧民G様
   
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