恋は導きの先に
その1 安寧な日々の崩壊



「お姉、ため息つくのやめてくれないかな。わたしまでテンション落ちるんだよね」

妹の買ってきたファッション雑誌を、一枚一枚律儀にめくっていた森川弥由(もりかわ・やゆ)は、ためらいがちな妹の言葉に、緩慢な動作で顔を上げた。

「虚しいんだもの…とっても…」

言葉を発することさえ、いまは億劫だった。
雑誌に掲載されている写真も文字の一文字も、弥由の脳は受け入れていない。

妹の莉緒(りお)は、何も返事を返さなかった。
だが、妹がどんな顔をしたのか想像に難くない。
弥由の虚しさの原因は、すべてこの妹が創り出したものなのだから。

四つも歳の離れた姉妹なのに、二人はかなり酷似している。そのうえ、妹の莉緒はかなり大人びてみえ、ふたりが並ぶと、たいがいのひとが莉緒の方を姉だと思う。

弥由は、なんとなく莉緒を見つめた。
莉緒は少女漫画の構想を練ってでもいるのか、パソコンの画面をじっと見つめている。

以前から漫画家になりたいという大望を抱いてあちこちの出版社に投稿していた莉緒は、ついに大賞という栄誉を掴み、短大を卒業する直前に漫画家としてデビューした。

初めて掲載された独特なタッチの画風の漫画は、思いのほか人気を博し、半年経ったいま、連載も一本もらって忙しい毎日を送っている。

締め切りが迫り忙しさが暴走し始めると、莉緒の下働きとなっている弥由も、竜巻のような騒動の只中でキリキリ舞させられることになる。

いまはちょうど、書き上げた原稿を締め切りの昨日、担当者に手渡したばかりで、弥由もやっと、ゆるい時間を手に入れたところだった。
そして、忙しさから開放された弥由のもとに、自分の境遇に対する虚しさが舞い戻ってくるのだ。

二ヶ月ほど前、地元のローカルなテレビ番組から、莉緒に出演の依頼が舞い込んで来た。
おめでたいほど有頂天になった莉緒は、ふたつ返事でその番組に出演した。
その時は、弥由も苦笑しつつも妹の成功を喜んでいたのだ。

妹のテレビ番組出演が、自分に驚くべき波紋をもたらすなどと、ちらとも思うはずもなかった。

テレビ番組の放送される日時を、莉緒は教えてくれなかった。だから弥由は見なかった。

番組が放送された翌日の朝、職場の上司に呼び出されても、弥由は「なんの用件だろう?」と首を傾げていたのだ。

「森川君、君、社の規約を知らんわけじゃなかろう?すでに辞める覚悟なのかね?」

責めといくばくかの腹立ちを込めて上司が言った。
弥由は、ぽかんとした。
上司の言っている言葉の意味が理解できないなんて、初めてのことだ。

「あの…なんの…」

「地元のテレビに出て、バレないと思っていたとすれば、森川君、浅はか過ぎるぞ」

「テレビ?」

頬をひくつかせた弥由の呟きなど、上司は耳に入れない。

「とにかく、こうなってしまった以上、どうしようもない。副業は禁じられているんだからね」

弥由は頭の中で、得ただけの情報を処理していた。

「君の仕事の引継ぎもある。いますぐ辞められてもこちらとしても困るからね、一ヶ月ほどは頑張ってもらうよ」

話が終わった。上司は彼女の返事など望んではいない。
弥由は急いでロッカールームに引き返した。

番組、副業。この単語には妹が絡んでいる、それだけは分かった。
だが、妹に電話をする前に、弥由は真実を聞く羽目になった。

「森川さんってば、漫画描いてたのね。意外爆発!驚きぃ。テレビにまで出ちゃって、もう有名人じゃない」

「先輩、仕事辞めちゃうんですねぇ、寂しいなぁ。でも、漫画家ってOLなんかより儲かるんですか?」

同僚と後輩の興奮した言葉に、弥由は身体を強張らせた。

莉緒でなく、なぜわたしが番組に出たことになっているのだ?
蒸し暑いロッカー室にいるというのに、身体がすっと冷えた。
答えはひとつしか思い浮かばない。

その日は、ずいぶんと長い一日だった。
みなの反応はまちまちで、弥由の疲労を増長した。
そして莉緒の携帯は、電源が切られたままだった。

こうして、弥由は妹に名前を奪取されたまま、今日に至っている。

もちろん彼女は黙って耐え忍んでいたわけではないし、負けを認めたわけでもないが、母と同じ鋼レベルの強情さを持つ妹に、どうしても太刀打ち出来ないのだ。

虚しかった。太刀がかすりもしないことが、ひどく虚しかった。

「あの受賞した漫画を投稿しようと思ったときに、なんか天の啓司みたいに閃いちゃったの。ものの弾みっていうか…受賞するなんてこれっぽっちも思ってなかったし。でも、大賞もらっちゃってさ。…あたし思ったわ、これはもう、お姉の名前が幸運を呼んだんだって…」

失職した弥由をアシスタントのように使いながら、莉緒はぬけぬけと言った。

慣れ過ぎた仕事にはいささか退屈を感じていた。
同期の女性は、数人を残して寿退社して行き、歳が増すにつれて、居心地悪く感じてもいた。そして、出世してゆく男達と違い、能力があっても女性に昇進の道を開いてくれる、公平な会社組織でもなかった。

それでも、職を無くしたかった訳ではない。

莉緒に名を語られているせいで、再就職もままならない。
妹の下働きをしているだけでは、当然月々の収入もない。
いままで貯めこんできた貯金はあるが、いまは莉緒の言うまま、生活費は妹の稼ぎで暮らしていた。
さすがに小遣いは、くれると言ってももらう気にはなれず、貯金を少しずつ下ろしている状況だ。
定職を持たぬ不安定な立場でいるのは、これ以上耐えられない。

「莉緒、名前、いつ返してもらえるの?」

のらりくらりとかわされ続けている問い。
妹の肩がギッという軋みの音を発して強張ったように感じた。

雲泥に飲み込まれたような沈黙が、部屋に満ちた。

振り返った妹の目尻から、ぽろりと涙が零れた。
弥由は顔をしかめて床に視線を落とした。

「泣いたって駄目。莉緒、名前を返してちょうだい」

「だってさ…。みんな駄目になっちゃうよ。私の幸運…全部消えちゃうよぉ」
莉緒がすすり泣きながら言った。

弥由はめまいがして、こめかみをぎゅっと押さえた。
なぜ妹は、こんなばかげた強迫観念に捕らわれてしまったのだろう?

「そんなことないのよ。莉緒には才能があるの。名前がどうとか…そんなのまったく関係ないのよ」

莉緒は、哀れな顔でぽろぽろと涙をこぼし続けるだけだ。
完全に弥由の名が、すべての幸福に繋がったと盲信している。

負けそうになる心を叱責して、弥由は妹の説得に努めた。

「ペンネームを使えばいいのよ。私の名前を少しもじったような、莉緒の気にいる名前にすれば…」

莉緒は立ち上がると、ノートパソコンをパンと音を立てて閉じ、ベッドに突っ伏した。
両耳を両手でぎゅっと押さえつけたまま、彼女がどれほどまでに頑なで強情になれるのかを、弥由に見せしめた。





「莉緒ちゃん、お買い物に行ってきたの?」

重たい買い物袋を両の手に食い込ませ、アパートの階段を上っていた弥由は、階段を下りてくるお隣の塚本さんを見上げた。

「こんにちは。買い出しに行ったら特価物があったものだから、つい買いすぎちゃって…。もう重くって、三階までの階段がきついです」

「まあーっ、そんな台詞、きゃぴきゃぴの若い子が言う台詞じゃないわよぉ」

弥由は苦い思いを押し込んでへらへらと笑い返した。
お辞儀をしてお隣さんとすれ違い、重々しい溜息を付く。

塚本さんとは、このアパートに越してきた当初からの長い付き合いだというのに、短大入学と同時に莉緒が同居して以来、幾度となく二人を取り違えている。

そして莉緒が弥由を語り出してからこっち、完全にふたりを取り違えているようだ。
編集者との打ち合わせうんぬんに出かける莉緒が、大人っぽい服ばかり着て行くせいだ。

あまりファッションに興味の無い弥由に対して、莉緒はおしゃれに生きがいを感じているタイプだ。
このところの莉緒は前にも増して大人びたドレッシーなものばかり好んで着ている。
どう見比べても、莉緒の外見の方が大人っぽく、間違えられるのは道理だろう。

親不孝なことに、両親までも騙くらかしているわけだが、親を騙すのは並大抵じゃない。
嘘に嘘を塗り重ね、莉緒は大丈夫大丈夫と、何が大丈夫なんだか、蛇口から出る水のようにザーザーと嘘を流し続け、弥由の心の中ではそれらの嘘が重く淀んでいる。

弥由は、この事態を打開するための策を、ひたすら練っているところだった。
まずは、莉緒の担当をしてくれている、莉緒の片思いの相手でもある芳野というひとに、この真実を話して相談してみてはどうかと迷っていた。

芳野氏は弥由よりも六歳歳上の三十歳、六月に誕生日が来て、今二十一歳になった莉緒だが、それでも芳野と九歳もの隔たりがある。
莉緒が弥由でいることに拘る理由の一つには、この彼のことがあるからなのだ。

だが、芳野に話した結果がどう転ぶか分からない今、ためらいが弥由に待ったをかける。
妹の不幸を招くようなことはしたくない。それだからといって、このままでいられるわけもない。

冷蔵庫に買ってきたものを入れていた弥由は、堂々巡りの重い思考に疲れ果て、肩の力がぬけてその場にしゃがみこんだ。

いったい、どうしたらいいのだろう。これから…

携帯の呼び出し音が聞こえ、妹が電話に出ている声が聞こえて来た。
どうやら母親と話しているようだ。

「言われなくたって、分かってるってば。…だーから、ちゃんと探してるって。まあ、…そうだけど」

弥由は、ジンジャーエールを入れたコップを片手に、莉緒の部屋の入り口に立った。

話の内容はだいたい見当がついていた。
むうっとした顔をした莉緒が「はい」を連発して、あげく弥由に携帯を差し出して来た。

「弥由、あんたも甘い顔ばっかりしてちゃ駄目よ。仕事どころかバイトもしないで、あんたに食べさせてもらってるなんて。わたし情けなくって…。お父さんはまあいいじゃないかなんて、甘いこと言ってるし、いやんなっちゃうわ」

弥由は母親の愚痴を、唇を噛み締めて聞いていた。
嘘をついていることも痛かったが、母親の小言は一直線に自分に飛んでくるようだった。

口をへの字に曲げた莉緒が、携帯を憎らしそうに睨みつけている。

「母さん、莉緒もちゃんと考えてるわ」

明るい口調で言ったあと、弥由は哀しい眼で、妹の顔を見返した。
莉緒が、バツが悪そうに視線を逸らした。

会話を終えて、弥由は携帯を莉緒に返した。

「ごめん。お姉を睨んだわけじゃ。母さんがあんまりくどくどいうんだもん。夜も寝ないで漫画描いて稼いでるのに、何にも知らないで勝手なこと…」

「莉緒、それ、あなたに言える言葉?」

弥由はなんの感情を込めずに言った。憤りが過ぎて、爆発しそうだった。

不平たらたらだった莉緒の顔からも、血の気が引いたように見えた。
弥由は震える胸にいっぱい新しい空気を吸い込んだ。そして手にしている半分ほどになったジンジャーエールの泡粒をじっと見つめた。

「一度、帰ってらっしゃいって。聞いてたと思うけど、来週帰るわよ。ふたりで」

一瞬、抗議しようとした莉緒が、仕方なさそうにしぶしぶ頷いた。

「なんとか仕事見つけさせてって頼まれたわ。わたしどうすればいい、莉緒?」

突然、莉緒が動いた。
弥由の持っているコップを取り上げ、そのまま壁に投げつけ、衝撃音とともに割れたガラスが飛び散った。

うわーっと錯乱したような叫びを上げ、莉緒は部屋を出て行った。
玄関の扉が激しい音で閉まる音を耳にしながら、弥由は呆然として割れたコップを見つめていた。


弥由はコップの破片で指を切った。
痛みは感じなかった。
外傷的な痛みを自覚するには、心の痛みと混乱の方が強すぎた。




   
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