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その11 ブチネコの涙
タンスの中から二組の浴衣と帯を取り出し、弥由はそれらを床に並べた。
今津が、彼女の住んでいる地域で行われる夜祭に誘ってくれたのだ。
気晴らしになればと思って、莉緒にも声を掛けた。
「お祭りなんてひさしぶりだよ。ヨーヨー釣り、絶対あるよね。あと、べっこう飴売ってる屋台あるかなぁ。焼きとうもろこしも食べたいしぃ」
靴箱から下駄を取り出して、そのまま玄関の入り口に座り込み、莉緒は指を折りながらお祭りのお楽しみを数え上げている。
「ほらほら、莉緒、そろそろ浴衣着ないと…」
弥由が浴衣の一枚を莉緒に差し出すと、莉緒がだめだめと手を横に振った。
「その桃色の朝顔の柄はお姉だよ、わたしはこっちの紫着ないと…」
たしかにその方がいいのだろう。
弥由はアジサイ柄の浴衣を莉緒に着せて、自分も朝顔の浴衣を着た。
アパートまで迎えに来てくれた今津は、浴衣を着た莉緒と弥由を見つめて、呆れ果てたように首を振りながら笑った。
「双子君とはぜんぜん似てないのに、なんでお姉さんとこんなに似てるのよ」と、これまで姉妹が繰り返し耳にした言葉を、今津の口からも聞かされた。
「まあ、年齢差はきっちりあるけどね」と付け加えられ、莉緒は笑いをかみ殺していた。
「篠崎君も誘ったから、来るんじゃないかな」
運転しながら今津がちらっと弥由を見て、にっと笑った。
車窓の流れを見つめていた弥由は、どきりとした。
自覚した途端、恋の重量は日増しに重くなる一方だった。
まるで、胸にどっしりとした砂袋を詰め込み続けてでもいるようだ。
その反面、篠崎に笑顔を向けられただけで、羽毛よりも心は軽くなる。
それに今夜は莉緒が一緒だ。
莉緒を姉として紹介するなんて、偽称の事態にも遭遇したくない。
「篠崎って、誰なの?」
後部座席から、目を輝かせた莉緒がぐいっと顔を出してきた。
「妹さんの彼氏の卵ってところです。…すでに孵化待ちかなぁ? ねっ、森川さん」
「ふ、孵化待ち?…そ、そんなんじゃ」
「浴衣姿見せ付けてやんなさい。篠崎君、喜ぶわよぉ」
「おっどろいたぁ、しかし、遅い初恋だよねぇ、お姉…」
「初恋ぃ?」
今津が驚き、車が少し左右に揺らいだ。
弥由は驚きと安堵に目を白黒させ、後ろを向いて莉緒をぎっと睨んだ。
莉緒がごめんというように、片目を瞑って見せた。
互いを自分の名で呼ぶなんて芸当はとても出来ないし、したくない。だから、名前を呼ばないで置こうと、取り決めをしてきたのだ。もちろん、弥由をお姉と呼ぶことも…。
まだ明るいうちに着いたのに、駐車場はすでに満杯だった。なんとか空きスペースを見つけて、今津は車を停めた。
「なんか毎年、ここのお祭り派手になってくんだよねぇ。雑誌とかでも紹介したりするから…」
「早く、行きましょう。まずはヨーヨー釣りね。あれもってないと、お祭りに参加してるって感じになれないもの」
下駄をカラカラ鳴らしながら、莉緒が駆けて行く。
「あはは。お姉さんお祭り好きだねぇ」
「ちょっと待って、莉…り、りんご飴が先よっ」
弥由は、急いで莉緒の後を追って駆け出した。
後悔が沸いてきた。やはり、名前を呼ばないでいるというのは難しい。
こうなると、篠崎に逢わないでいられるように祈るしかない。
彼が側にいたら、弥由が失敗する確率が、数段跳ね上がってしまうだろう。
莉緒は、赤いヨーヨーを手に入れてご満悦に顔をほころばせた。弥由も白いヨーヨーを苦心の末に釣った。
三人はべっこう飴を舐めながら、すべての屋台を見学して歩いた。
「わぁ、かわいいお面があるよ。ね、ね、買おう。わたしこのブチのネコちゃんにする」
「お面?いったいいくつよ?」弥由はあきれて言った。
「こういう時は、歳なんて超越しなきゃ。楽しむ心を忘れたら、人生の醍醐味激減するよ」
すでにお金を払ってブチネコのお面を手に入れ、莉緒はにはには笑っている。
「はいはい。御託はいいわ。わたし、このピンクのリボンつけた白うさぎにする」
「なんだかんだいいながら、可愛いの選んでるじゃん」と、ブチネコが言った。
弥由は、愛想のいいおじさんにお金を払い、うさぎのお面を被った。
おかしなことに、突然変身した気分でウキウキしてきた。
「それじゃ…わたしは…このくまにするわ」
まったく買う気を見せていなかった今津までお面を選んでいる。
「今津さ〜ん、それくまじゃなくてハムスターですよ」ブチネコが指摘した。
「まあ、なんでもいいや。耳と目がかわいいし」
「このキャラクターたち、ゲーセンで、けっこう人気あるんですよ」と、ブチネコが教えた。
「そうそう、部屋はこのキャラでいっぱいだもんね」と、うさぎが言った。
「どっちの部屋が?」
「わたしが」「莉緒が」
ブチネコとうさぎが同時に答え、ふたりぎょっとして少し飛び上がった。
「そうなんだ。森川さんらしいかも」
うさぎはほっとして息をついた。ブチネコも「ははは」と笑っている。
今津はすぐにお面を頭の上に乗せたが、莉緒と弥由はお面をつけたまま歩いた。
互いの顔を見ては、お互いにお面の中で笑いあった。
顔を隠しているからだろうか、なぜだか安心感があるのだ。
きっと莉緒も同じなのだろうと弥由は思った。
「今津さん! 森川は?」
突然篠崎が現れ、弥由はぎょっとして立ち止まった。
「え、どしたの?篠崎君」今津が言った。
「なんだそんなものつけてるから、わからなかったじゃないか?ちょっと付き合ってくれ」
何をそんなに焦っているのか、早口でそう言うと、篠崎はなんの躊躇もなく弥由の手首を掴んだ。
「とうもろこし食べたいか?食べたいよな。今津さんも、こっちこっち」と強引に引っ張ってゆく。
「し、篠崎さん、あの、どうして?」
「いいから」
「で、でも…」
「ちょっと待って、篠崎君。森川さんのお姉さんが着いてきてないよ」
「えっ? お姉さんが一緒だったのか? どこに…」
そう言いながら篠崎は弥由の頭を捕まえ、自分の胸に押し付けた。弥由は驚いて固まった。
「あ、後ろ向いてるけど、あれだわ。紫の浴衣の…」
「今津さん、お姉さんは任せたから、俺、森川借りて行きます」
「えっ、そんなわけには行かないわよ。お姉さん怒っちゃうわよ」
「篠崎さん、いったい何が…?何か訳があるんでしょう?」
篠崎の胸からようやく顔を上げて弥由は尋ねた。
「あ、お姉さん、こっちで〜す」
莉緒が追いついてきたのを見計らって、篠崎は早足で歩き出した。弥由は篠崎のせかすままに歩いて行った。
「どこまで行くのよ、篠崎君」
今津の問いに答えず、篠崎は黙ったまま角を曲がった。
「あ、あの射的やらないか?」
そう言うと、弥由の手首をやっと解放し、篠崎が歩を止めた。
「射的? まあ、いいけど。面白そうだし…。お姉さん、いいですか?」
「もちろん、いいです」
弥由は莉緒の固い声に驚いて、妹に振り向いた。
篠崎は早々と射的屋のおじさんにお金を払っている。
射的用の銃をすでに持ち、今津は楽しそうに笑っている。
弥由は莉緒の側に寄ると、そっと囁いた。
「莉緒、どうかしたの?」
「…なんでもないよ」
「莉緒?」
「ほら、名前で呼んじゃ駄目だよ。それにしても、篠崎さんっていいひとじゃん。カッコイイし。お姉、いい人と出会えて良かったね」
弥由ははっと息を呑んだ。莉緒の首筋に、幾筋かの涙が伝っている。
「いったい…」
「森川、射的やろう」
「ほら、呼んでるよ。わたし、りんご飴買ってくるね」
莉緒がさっと離れていった。
篠崎にもう一度呼ばれて、弥由はお面を頭の上に乗せて、彼の促すまま銃を持った。あれこれと世話を焼いてくれる篠崎には悪かったが、莉緒のことが気掛かりで仕方なかった。
気が逸れていたのが良かったのか、弥由は三つも賞品を当てた。
ふたつは取るに足らない品物だったが、ひとつはずいぶんと大きな箱だった。
「すごいねぇ、うさぎのお姉ちゃん、二等賞だよ。ほれ」
大きな箱をほいっと渡され、弥由は困った。持ち歩くのはかなり大変そうだし、出来ればお返ししたいぐらいだった。
「これ、なんですか?」弥由は聞いた。
「ペンギンだよ」
「ペンギン?」
包装紙を透かしてみると、どうやら颯太のお気に入りのキャラクターのようだった。
持っていってあげたら喜ぶだろう。
おじさんも、そのままではと思ったのか、足元をさぐって大きな袋を取り出して弥由にくれた。
「貸して、持ってやるよ。それにしても、森川、射的の天才だな」
「篠崎さんも当てたじゃないですか?」
「当たったのは、まあ嬉しいけど…どうするかな。これ」
「当たったひとの贅沢な悩みよねぇ。わたしなんてひとつも当たらなかったのにぃ」今津が拗ねた声で言った。
「今津さん、これ全部あげますよ」
「いらないわよ、そんなガラクタ。自分で当てた品物だから愛着が湧くのよ。篠崎君も、そいつらに愛着感じてあげなさいよ」
「ガラクタって言ったくせに…」
「わたしにとっては、それはガラクタ」
「あの、あんまりそういうこと、言わない方が。…気を悪くしてらっしゃいます」
今津と、篠崎が二人一緒に射的のおじさんを振り返った。
「どうも」
篠崎は、すまして言うと、弥由の手を取って射的屋から離れた。
タイミングよく、莉緒が戻ってきた。
手に四つのりんご飴を持っていて、みんなに一本ずつ配った。
「すみません。俺にまで…」
「心からの喜びはなかったみたいだけど…」と言って、ブチネコはくすくす笑っている。
弥由は、ほっとした。何かあったのは確かだが、莉緒は気持ちを立て直したようだ。
「お姉さん、お面外してみて、篠崎君びっくりするわよ。ほんとふたりそっくりなんだから」
「いい加減汗掻いちゃってたの。ブチネコでいるのも楽しいけど」
莉緒がお面を外して、篠崎に「はじめまして」と頭を下げた。
「こちらこそ、はじめまして、篠崎と言います」と、篠崎も、きっちりと頭を下げた。
「ね、ね、そっくりでしょ?」
篠崎が二人を見比べたあと、緩く首を振った。
「確かに似てますけど、そっくりってほどじゃない」
「えーっ、そうかな。そっくりじゃん。同じ着物着てたら、わたしは見分けつかないよ」
「いや、森川は…」
篠崎が何か言いかけて、口を閉ざした。
「森川さんは、何?」
「いや、そ…そういえば、花火があるとかって聞いたけど、そろそろじゃないのかな」
「あ、ホントだぁ。場所移動しようよ。いいところあるんだ。ちょっと登らなきゃならないけど」
今津が連れて行ったところは、少し小高い場所にある神社だった。
地元の人々なのか、何組かのグループがいて、敷物をしいて見晴らしのいい場所に座り込んでいるひとたちもいた。
おしゃべりをしていると、初めの一発が打ちあがった。
夜空が味わうように、間を置いてはじける花火を飲み込んでゆく。しだいに打ちあがる間隔が狭くなり、どどどどという連射の音が響き渡った。
夜空はド派手な色を飲み込んで、笑いがその身いっぱい弾けるように躍っている。
「きれい」
弥由は、白いヨーヨーを唇に寄せて思わず呟いた。
「うん。きれいだ」
弥由の左隣で篠崎も呟いた。彼の視線は空になかった。
弥由は、右隣にいる莉緒を見た。
空をまっすぐに見つめている莉緒は、またブチネコになっていた。
弥由は胸がつまった。
莉緒が涙を流したわけを、弥由は悟っていた。
そして、篠崎の一連の行動のわけ。
あの場には、篠崎が莉緒の目に触れさせたくなかったものがあったのだ。
それは、ひとつしかない。
長沢がいたのだ。
彼女とともに…
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