恋は導きの先に
その12 返還と変換の時



「お姉、どう?」

黒いドレスを着た莉緒が居間にいた弥由のところにやってきて、くるりと回って見せた。

「わっ」と弥由は叫んだ。

莉緒のドレスの背中が大きく開いている。

「ちょっとそれは、いくらなんでも肌が見えすぎじゃない?莉緒」

「何言ってるのよぉ。これくらいどってことないって。せっかく芳野さんがご馳走してくれるって言うんだもん。おしゃれして彼のハートをゲットしなきゃ」

陽気な声で言うと、莉緒はふっふっと笑った。

手に持った銀色のレースの肩掛けを、肌もあらわな肩にかけているのを見て、弥由はちょっとほっとした。
弥由の方は淡いグリーンの上下だ。襟元が少し開いているけれど、丸い襟が付いていて、ドレッシーな黒いドレスを着た莉緒と並ぶと、子供のように見えるかもしれない。

莉緒のデビュー作が単行本になることになった。今日はそれを記念して、芳野がご馳走すると言ってくれたのだ。
弥由まで一緒と聞いて、莉緒はなんでお姉までと口をとがらせたけれど、ほっとしているのがわかる。
大人な芳野とふたりきりのデートに憧れを抱いていたとしても、それを現実とすることはまた別なのだろう。

「そろそろ時間だよ。お姉、芳野さん待たしちゃいけないから、わたし先行ってるね」

バッグの中身を確かめながら弥由は頷いた。
ハンカチとティッシュを引き出しから出している間に、莉緒は玄関を出て行ってしまった。

芳野との約束の時間までまだ五分以上ある。
少しくらいふたりきりにしてあげるつもりで、弥由はゆっくりと支度した。

芳野に恋人がいることは、もちろん莉緒に告げていない。
莉緒を傷つけることが怖くて、黙っていることにも、告げることにも弥由は躊躇していた。

芳野の存在があるから、莉緒はまだ…たとえそれが逃避だとしても…心を保っていられるのだと弥由には思えるのだ。それなのに、芳野への淡い恋心すら消えてしまったら、莉緒は…

階段を下りていくと、お隣の塚本さんがえらく急いででもいるのか、早足で上がってきた。

「莉緒ちゃん、なんか下でおかしなことが起こってるわよ。早く行ったほうが良いわ」

弥由は戸惑った顔で、「はい?」と尻上がりに聞き返した。

「弥由ちゃんのこと、あなたと間違えてる男の子がいて…」

「は?」

「とにかく早く行ったほうがいいわよ」

弥由は戸惑ったまま、残りの階段を駆け下りた。

一番下まで降りたところで、パーンという衝撃音が辺りに響き、弥由は驚いて足を止めた。
目の前に莉緒がいた。
莉緒と対面しているのは長沢だ。彼の左頬が真っ赤になっている。
莉緒の右手がブルブルと震えていた。

「彼女がいるくせに…」

強い怒りを含んだ声で莉緒が言った。
憎々しい敵を見るように莉緒は長沢を凝視し、ゆっくりと右手を下ろし拳に固めた。

「帰ってよ。祥吾の顔なんか、二度とみたくないわ」

両腕をだらりと脇に垂らし、赤く腫れた頬に手を当てることもせず、俯いたままの長沢はじっと立ち竦んでいる。

「早く、帰ってってば…」悲鳴に近い莉緒の言葉だった。

「ごめん」

少し離れた弥由のところにはほとんど届かないような長沢の震えた呟きだった。

「そんな言葉、いらないっ」悲痛さが増している。
弥由は莉緒に駆け寄って肩にそっと手を掛けた。

長沢が顔を上げ、莉緒と弥由を交互にじっと見つめて、泣きそうに顔を歪めた。
それから何も言わずに背を向け、凄い勢いで走り去って行った。

さきほどからこの事態を目撃していた芳野が動いた。

「今日はやめておきましょうか?」と弥由に向けて言った。

困って莉緒を見ると、莉緒の左手からショールがはらりと落ちた。
莉緒が弥由に向いた。莉緒の目を見て弥由は頷いた。

肩を落としてマンションの玄関に入ってゆく莉緒を、哀しい目で弥由は見送り、ショールを拾い上げて芳野に向いた。

「芳野さん、何があったんですか?」

「何がと言われても…わたしがここに着いた時には、さっきの男の子がいて、彼女が出てきて…ふたり見詰め合ったというか、正確に言うと彼女の方は睨んでたんだが…。それから彼女がわたしの方に向かって歩いてきて、ショールを外して、くるりと回ってわたしにドレスを見せて」

芳野はそこで、ためらいがちに苦笑した。

「そしたらあの男の子が突進してきて…「行くな」って怒鳴ったんです。それで彼女がパーンと…。その後はあなたも目撃したとおりです」

弥由は頷いた。

「あの男の子は、彼女の彼氏かと思ったんだが、なんだか複雑そうですね」

芳野が心配そうに言った。

「すみません。せっかく芳野さんが…」

「いいんですよ。食事なんていつでも行けます。ただ…」

芳野が困った顔で頭を掻いた。

「今日、名前の入れ替えの件のことを話し合って、解決してしまおうと思ってたんですが…」

弥由も困った笑いを芳野に返した。

「すみません」

「今日は無理でしょうが、明日でもなんとか時間いただけませんか?今後のためにも、単行本を出す前に、彼女のペンネームを決めたいんです」

弥由は、アパートの自分達の部屋を見上げ、少し考えてから頷いた。
やるべきことは、時期を逃さずやらなければならないだろう。

芳野と別れて弥由は部屋に戻った。
莉緒は予想していた通り、自分の部屋に閉じこもっていた。

弥由はドアをノックしてから、言葉を迷い、それから言った。

「明日、あらためて行きましょうって…」

返事はなかったが、弥由はそれ以上何も言わなかった。
莉緒の荷を重くするのは、明日でいい。





ついに終わる。

弥由はベッドに横になって、暗闇を見つめていた。

弥由が化粧室に立ったのを見計らって、芳野は入れ替わりの事実に気づいていることを莉緒に話し、弥由が席に戻ったときには、莉緒に名前を戻すことを納得させていた。

硬い表情をしていたけれど、莉緒はほっとしているようだった。

「お姉、芳野さんにバレちゃってたよ」
わざとふざけるように莉緒が言った。

席に座って、弥由は芳野と、そして莉緒とも視線を合わせてゆっくりと頷いた。

「名前、戻すね。ほんと、いままでごめんなさい」

莉緒はふたりに向かって深く頭を下げた。

莉緒は、何かしらを諦めたような、それでいて悟りを得たような安らいだ表情をしていた。これまでのさまざまな出来事に答えを見出した、そんな感じだった。

名前が戻る。
つまりそれは、弥由が莉緒ではいられなくなるということだ。

明日、会社に辞表を出さなければならない。

篠崎と会えるのは、あと何日だろう?
嘘が根底にあるから、知り合いとして逢うことも出来ないし…
そう考えて弥由は苦く笑った。

篠崎には、長沢のことがあって、迷惑ばかりかけてしまった。
罪悪感のために、ずいぶんと気を使わせてしまうことになったから、弥由がいなくなるほうが彼には精神的に楽に違いない。

あの会社に弥由を流れのように導いた存在が、もしも本当にいるのならば、いまこそ新しい導きが欲しかった。

導きの果てに、得たものはたしかにあった。
たとえ得たものを、この手で捨て去らなければならないとしても。

「捨てるわけじゃないわ」と弥由は暗闇に向けて呟いた。
恋する気持ちは、捨てるとか捨てないとかそういうものじゃない。

心に、ただ、在る。ものなのだ。




   
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