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その13 恋におたおた
「辞める、って言ったの?」
弥由は深く頷いた。
仕事が終わったばかりだった。
窓の外の景色がすこしオレンジ色に染まりつつある。
面接で使用したこの部屋で、平林と対面していると、まるで面接をしていたあの時に舞い戻ったように感じてしまった。
「どうして?」
「私事で、どうしても辞めなくてはならなくなったんです」
「まずその私事とやらを、話して欲しいわ」
弥由はきゅっと唇を噛んだ。
「わたし…」
弥由はテーブルを見つめて、気力を集めた。
「わたしは…森川莉緒ではありません」
平林が「はい?」と言った。弥由は続けた。
「莉緒は妹です。わたしは姉の弥由なんです」
「どういうこと? 意味がわからないんだけど…」
弥由は、テーブルを見つめたまま話した。
そして話し終わって顔を上げた。
平林が混乱した顔で弥由を見つめている。
「辞める日時はお任せします。後任が決まるまでということでしたら、もちろん、それまでは仕事を続けさせていただきますし、明日ということでしたら、そうします」
「困ったわ」
「ほんとうに、すみませんでした。もちろん、お詫びしてすむことではないのはわかっています」
「困ったわ」
平林の混乱は、そう簡単に消えないようだ。
そんな平林を見つめ、弥由は遠慮がちに切り出した。
「平林さん、入れ替わりのこと、ここだけのことにしていただきたいんです。勝手なのはわかってますが、それだけはどうしてもお願いできないでしょうか?」
弥由はテーブルよりも深く頭を下げた。
ほんとうは、床に額を擦り付けて謝っても足りない気がした。
「頭上げて頂戴。わかったから…」
「はい。…あの、明日はどうしたら…」
「しばらく…とりあえず一週間くらいいままでどおりで行きましょう。わたしもまだ混乱してるし…」
平林が深く吐息をつきながら言った。弥由はまた申し訳なさでいっぱいになった。
「わかりました。一週間ですね。それじゃ…」
ロッカーでのろのろと着替えてからやっと、弥由は出口に向かった。
玄関のところに篠崎がいた。
「森川、…話があるんだ」
弥由は息を詰めた。
きゅっと目を瞑ると、はいの言葉の代わりに彼に頷いた。
今日の篠崎は何かおかしかった。
言いたいことがあるかのように弥由をじっと見つめてきたり、そのわりに弥由と視線が合うと慌ててそらしたりしていた。
篠崎が鮫島に仕事のミスを指摘されるのを目撃したのも、今日が初めてのことだった。
それも二度も。
篠崎は車の中で何も言わなかった。
運転しながら言葉にしたくなかったのか、彼が話し始めたのは弥由のアパートの前に着いてからだった。
「祥吾。ここに来たらしいね」
「あ、ああ、はい」
「君は…あいつのこと…いま、どう思ってる?」
弥由は言葉に詰まった。
莉緒は…いまでも長沢を愛している。それは間違いのない事実だった。
「君が好きだ」
弥由は息が止まった。
彼の言葉を現実と思えず、どこかにふわりと消えてゆきそうになり、弥由は意識で捕らえようと懸命になった。
篠崎が弥由の右手をぎゅっと掴んできた。
あまりに強い力で、痛かったけれど弥由は篠崎に触れ、体温を感じられていることが嬉しかった。
「君を、祥吾にとられたくない」
その言葉は意味を持っては弥由の耳に入って来なかった。
彼女は左手を伸ばし、自分の手を掴んでいる篠崎の手の甲にそっと触れてその現実を確かめた。それから、篠崎が何か言葉を口にした気がして、瞬きして彼の顔を見つめた。
「いま…何か言いました?」
だが篠崎は何も答えず、自分の手に触れている弥由の指を、眉間に皺を寄せ、レーザーを放ちそうなほど鋭い目でじっと見つめている。
弥由は次第に、自分の行動に自信がもてなくなってきた。
手を引こうとしたら、その手をまた掴まれた。
しばらくの間、お互いの手をじっと見つめていたふたりは、同じ時にゆっくりと顔を上げた。
弥由の膝の上で両手を繋いでいるものだから、お互いの顔は触れるほど近くにあり、弥由は急激に顔が熱くなった。
篠崎が片手を離し、弥由の前髪に触れ、そのまま顔の輪郭を味わうように触れてゆく。
弥由は体の芯が震えた。
弥由の顎に指先をあてた篠崎は、何かと葛藤しているような表情をしていたが、弥由の唇を指先でなぞると、未練を残したまま弥由から離れた。
無意識に息を止めていた弥由は、苦しさに気づいて大きく息を吸った。
「明日、予定とかあるか?」
篠崎の態度に混乱していた弥由は、現実に立ち戻るのに、少し時間が掛かった。
弥由は小さく首を横に振った。
「明日、何時なら、家を出られる?」
弥由は篠崎を見つめて二度瞬きした。無言のまま、彼は問いを繰り返している。
「九時か十時…」
「それじゃ、九時に迎えに来る」
「は…い」
それきり、車内がシーンとした。
篠崎の行動に翻弄された直後、会話の流れの目指すものの曖昧さ。
弥由は自分の置かれた状況に途方に暮れた。
次にどう行動すればいいのか弥由は迷い、篠崎を見てからドアを見た。
明日の約束をしてしまった。
そして篠崎は何も言わないし、行動もしない。あとは…
弥由は車のドアを、おどおどと開けた。
「それじゃ、…あのぉ、…送ってくださって、ありがとうございました」
そう口にした瞬間、篠崎が弥由の右手をまた掴んだ。
どきりとして振り返ると、篠崎の唇が弥由の指先に触れるところだった。
指先から腕に向けて、びーんと、強烈な不思議な震えが走った。
篠崎の唇がゆっくりと指から離れて行く。
「おやすみ」
弥由を見つめる篠崎の瞳が大きく揺らいでいる。
「はい…おやすみなさい」
篠崎は、何かに苦しんでいる。それだけは分かった。
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