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おまけ 比類なき笑み
篠崎の望むまま、弥由はこれまでのことを自分の中で整理しながら語った。
長沢と莉緒の別れのいきさつに自分と駿が関係していたこと。
長沢から一方的に裏切られたと思い込み、漫画に没頭していった莉緒。
そして弥由の名で投稿した漫画が大賞をとり、漫画家としてデビューしたこと。
弥由が名前を騙られていると分かったのが、莉緒のテレビ出演がきっかけだったこと。そして弥由の失職。
「大変な思いしたんだな」
「しばらくは、妹のアシスタントとして働いてたんです。でも、母親の小言も耳に痛いし、莉緒は信じられないほど頑なで」
そこまで言って弥由は、莉緒の思いが改めてわかった気がした。
「莉緒は、…もう自分でいたくなかったんですよね。諦めるには、長沢君のことを愛しすぎてたんだと思います」
「なのに、祥吾のやつは、他の女と付き合ってたんだ」
顎を強張らせて篠崎が言った。
「彼は彼で、悩んだ結果なんじゃないでしょうか。結局は、彼も莉緒のことを忘れられなかったのだし。原因を作ったのがわたしと駿だから、ふたりには申し訳なくて…。それに、いまになってもまだ、あの時の妹が可哀相で堪らなくて…」
「でも、すべてのことが起きていなければ、俺は君と出逢えなかった」
弥由は笑みを浮べた。
あの時の導きに従ってここまで来たのだ。
「縁ってあるんですよね。その縁には不思議な力が備わってるみたいです。職安でのことも、この会社を紹介されたことも、以前から計画されていたみたいにすべてが流れるように進んでしまって。戸惑ったけど、おかしなくらい違和感を感じなかった」
「君と俺が出会うため…って聞こえるな」
幸せそうに篠崎が笑った。弥由もはにかんだ顔で頷いた。
「莉緒と長沢君をもう一度やり直させるためでもあったのじゃないかと思えます」
そこまで言って、弥由はふいに思い出した。
「そう言えば、篠崎さんは、どうして長沢君と莉緒のよりが戻ったって知ってたんですか?」
「お袋が、わざわざ電話で教えてくれた」
「ふたりが仲直りしたことですか?」
「ああ、祥吾が顔腫らして帰ってきて…」
「それって莉緒が…」
「いや、もうひとりの彼女の方。殴られたらしい。げんこつで」
「まあ」
眉を寄せて両手を口にあてた弥由に、篠崎がそっけなく言った。
「自業自得なんだから奴の心配なんていいんだ。顔腫らしたまま君の妹のところに行って、やりなおしたいって言ったんだろう」
そこまで言って、篠崎が弥由の頬に指先でほんの少し触れてから微笑んだ。反射的に弥由も微笑んでしまう。
「俺のお袋、君の妹と面識あるらしいんだ。君連れてったら、驚くんだろうな」
篠崎が腕を伸ばして弥由の腕に触れた。
「ところで、君の名前は?…何度か聞いたと思うんだけど…もう一度教えてくれるか…」
「弥由です」
「弥由。可愛い名前だ」
味わうように、篠崎は口の中で何度も弥由の名を繰り返している。
「篠崎さん、まだ年齢も聞いていませんよ。わたし…」
弥由は口ごもった。
たぶん篠崎は弥由が年上だと思ってはいない気がする。
どうもひとつ年下くらいに思っているのではないだろうか。
「うん」
「篠崎さんより、ひとつ年上なんです」
「え?見えないな」
「すみません」
「何で謝るの?」
「なんとなく、申し訳なくて…若くないから」
篠崎がゆっくりと起き上がり、ソファにぐったりと凭れかかった。まだ調子は良くなさそうだ。
「起き上がって、大丈夫なんですか?」
「熱はほとんど下がってる。それよりここに座って」
篠崎が自分の隣に手を置いて言った。
「篠崎さん、座ってるより横になったほうがいいですよ」
「いいから座って」
弥由はためらいながら篠崎の横に腰掛けた。
無意識に、部屋のまわりに視線を這わせてしまう。
「こんなところで、襲ったりしないよ」
苦笑しつつ言いながら、篠崎は弥由をそっと抱きしめ、すぐに離した。
弥由の体は緊張できゅきゅっと縮こまった。
「ずっと君に触れたかった。君のすべてを全身で感じたかった」
そう言うと、篠崎は苦しそうに息を吐き、またソファーにもたれかかった。
弥由の手を取り、自分の頬に当てて、大きく息を吸ってからため息をついた。
「祥吾のことがあったから、…辛かった」
弥由はもう片方の手で、唇を噛んで目を閉じた篠崎の額を、そっと癒すように撫でた。
「あいつがいつも、君…いや、君の妹の名前を…莉緒って呼んでたから。…俺に、今日は莉緒がどうした、莉緒がこんな服着てたとか…いつものろけ聞かされてて…」
篠崎は弥由のてのひらの筋を、いとおしむ様に人差し指と中指でそっと触れてゆく。
弥由は篠崎が自分の身体に与える甘いうずく様な痺れを体の内部に感じて、震えそうになるのをひたすら堪えた。
「だから君を名前で呼びたくなかった」
篠崎は、なおも弥由の指を甘く攻め立ててくる。全身がその甘い振動で満ちてゆくようだった。だが、そんな弥由の様子に、篠崎はまったく気づいていないようだ。
「君が俺のものになっても、俺は君の名を素直に呼べないんだろうかとか…祥吾の気持ちを無視して君と付き合って俺は自分が許せるんだろうかとか…あの日、水族館でそんなことばかり考えてた」
篠崎は、弥由にとどめを刺すつもりなどなかっただろうけれど、彼は意識なくそれをしたことになる。
彼は弥由のてのひらを唇に触れ、そっと…
ドアがトトンと跳ねるように二度叩かれすぐにドアが開いた。
それと同時に、室内に「きゃあーー」と、なんともかわいらしい弥由の悲鳴が響いた。
ドアの戸口に立ったまま、今津がふたりを見つめて、おもむろに両腕を腰にあてた。
「篠崎君、元気になったみたいね」
「ええ、まずまずです」
弥由の手のひらを唇からゆっくりと離しながら、苦笑しつつ篠崎が言った。
「恋の初心者なんだから、あんまり怖がらせちゃ駄目よ」
「初心者…森川が…」
篠崎の舌が触れた自分の手のひらを、弥由はぎゅっと握り締めた。
頬が火照るを通り越して、まるで火がついたみたいに熱かった。
「それじゃ、俺と同じだ」
篠崎が、微かな囁きのように呟いた。
「何?」と今津が篠崎に尋ね、彼はふっと微笑んで弥由に向いた。
篠崎の笑みが好きだ…比べるものがないほどに…
弥由の胸に、急激に熱いものが湧き上がってきた。
篠崎に微笑みを返した弥由の頬に、ひとしずくの涙が零れた。
End
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