恋は導きの先に

その2 抗えない縁(えにし)



手にした地図を見ながら、弥由は知らない通りを歩いていた。
手にしたバッグには、職安でもらった紹介状と履歴書が入っている。

母ほどの年代の職安の職員さんは、とても親身になって彼女の働き口を探してくれた。
話している最中に電話が掛かり、彼女が紹介状をもらった仕事先から求人募集依頼が舞い込んできた。

「不思議なもんでね。こういう風に話してる時に入ってきた仕事って、その人のために用意されたようにぴったりなのよ。あなたはバイト志望らしいけど、きちんとした仕事に就くって、良い経験になるのよ。それにほら」

ファックスで送信されてきた用紙を、弥由の前に差し出し、職員さんは指先でなぞりながら説明してくれる。困り果てながらも、弥由は律儀に話を聞いた。

「年齢ぴったり、資格もぴったり。向こうも、いますぐに来てもらえればありがたいって言ってるし。…とにかく、悪いこと言わないから、一度面接に行ってらっしゃい」

戸惑いが抜けないうちに必要書類をもらい、弥由は温かい目で送り出されてしまった。
あれだけの好意をもらって、面接をすっぽかせるだろうか?
それが出来たら、彼女は森川弥由ではない。

なんでこんなことになっちゃったんだろう?
まだ戸惑いの中、弥由は首を捻った。

これでもし仕事が決まってしまったら、職場の人たちすべて騙すことになってしまう。

だが、弥由が莉緒として就職すれば、母親の気懸かりも無くなり、莉緒もお小言をもらわずに済み、弥由は収入を得ることが出来る。

もしも、莉緒がパソコン検定二級の資格を持っていなければ、この話もなかったのにと、弥由はこの流れるように繋がった縁(えにし)を不思議に思った。

漫画家になるからそんなものいらないとうざったそうに言った莉緒に、資格は持っていれば何かと役に立つからと、弥由が強く勧めたのだ。
莉緒が試験を受ける前は、一級の資格を持つ弥由が、つきっきりで教え込んだ。

目的の建物を視界に入れた弥由は立ち止まった。

真新しい三階建てのオフィスビルだった。
駐車場も完備されているし、敷地面積もかなり広い。

明るいイメージの正面玄関の前は、数台の車が停められる駐車場とレンガで囲った花壇があり、かわいらしい花が植えられていた。芝生もきれいに刈られ、すっきりとした雰囲気をかもし出している。

右側には駐車場へと続く道があり、左側は弥由の背丈の三倍ほどありそうな樹木が何本か生え、洒落たベンチまで置かれて憩いの場のような場所になっていた。

玄関に入って行きながら、弥由はこの爽やかさを感じさせる風景に笑みを浮かべ、目を細めて見惚れた。

都市周辺から少し離れているここは、道路を隔てて閑静な住宅地が広がっている。
街路樹は青々と風にそよぎ、これまで弥由が勤めていた会社のビルばかりの風景とは違い、心が和らぐ。

転職することなどこれまで考えたこともなかったが、新たに開けた世界に弥由はわくわくしてくるのを感じていた。

これまでとまったく違う世界に飛び込むのだ。
自分の人生にこんなことがありえるなんて…

そんな弥由のわくわくした気分は、受付で名前を名乗った途端、後ろめたさに取って代わった。

受付の女性と笑いながら話しをしていた女性が弥由に向き直った。

「人事部の平林です。森川さん、どうぞこちらに」

弥由は急に気分が悪くなってきた。
常識が弥由に待ったをかけ、理性が彼女の行動を責めてくる。

けれど弥由は強い流れを背中に感じていた。
すでに流れに乗ってここまで来てしまった。弥由の中のなにかが、進むことを促しているようだった。

「森川莉緒さん、21歳。短大卒。パソコン検定2級」

羅列された経歴に、弥由は身が強張った。すべてが嘘だ。
彼女は、専門学校卒業の24歳。パソコン検定1級の資格を持ち、4年の職歴がある。

後悔が膨れ上がってきた。
居たたまれない思いに、弥由は両手を互いの手に縋るように握り締めた。

「緊張してる?」

弥由は、やさしい親しみのこもった言葉にためらいがちに顔を上げた。
面接をしてくれている平林聡子と名乗った女性の温かな瞳に、弥由は少し緊張を解いた。

「聞いていいかしら? 就職活動はしなかったの?」

「していません」

そう言ってから、弥由は俯いて唇を舐めた。喉がからからに渇いていることにいま気づいた。

「姉の仕事を、手伝っていたものですから」

「お姉さんの仕事って? 聞いてもいい?」

「あの…漫画家なんです。まだ駆け出しなんですけど」

ゆっくりと一度だけ頷いた平林の表情に、弥由はとても聡明なひとだという印象を持った。

「そうなの。あなたはアシスタントしてたわけね。それで? そちらの手伝いはしなくて良くなったの?」

話の回転が速い。弥由は会話のテンポと弾みに楽しさを感じた。

「いつまでも、アシスタントをしているわけには行きませんし、両親も定職に就くよう強く望んでいるものですから」

平林の表情に表れた次の問いに、弥由は先回りして答えた。

「姉の手伝いは、担当の方と話しをして、これからはちゃんとした方をアシスタントとして入れることになりましたから、私の手伝いはもう必要ないんです」

平林の目に笑みが浮かんだ。弥由も微笑み返していた。
互いに相手の言いたいことを、言葉にする前に理解している。そんな感じだった。
ふたりの波長はとても近いのだろうと弥由は思った。

「うん。合格。明日から来ていただくわ。それじゃ、必要な手続きをして、あと、社内のこととか色々説明させてもらうわね」

書類に目を通して書き込みながら、弥由の胸はざわついていた。
書類に書き込んでいる嘘が重い。
そして決まってしまったことに、どうしようもないくらい不安が湧いた。
平林の説明を聞いている間中、動揺が弥由の胸を震わせ続けていた。

「それじゃ、最後に職場に案内するわ」
お昼間際、広げられた書類を取りまとめながら平林が言い、弥由もゆっくりと立ち上がった。

ドアのノブに手を掛けた平林が、くるりと弥由に振り返った。

彼女らしくなく、少しためらってから話し始めた。

「急な求人だったのはね、四月に入った子が、昨日突然に辞めちゃったからなの」

弥由は頷いた。平林も頷き返して先を続けた。

「あなたが入る職場、一ヶ月前にも上司についてゆけないって、ひとり辞めちゃったとこで…。つまりその、鮫島係長ってのがいるんだけど、こいつがとにかく厳しいの」

「そうなんですか」

弥由は笑いが込み上げた。鮫島だなんて、名前からして怖そうだ。
平林も少し笑ったが、ずいぶんと苦々しそうな表情だ。

「そうなのよ。だから鮫島に対抗できる有能な子が欲しくて。パソコン検定2級の実力ぐらいは必要かなって…でも鮫島、1級にしといてくれって言ったのよ。呆れるわ」

ほんとうに呆れた顔で平林が言った。
弥由は、平林はいったいいくつなんだろうと、その方に興味が湧いてきた。

「そのぶん残ってる部下は切れ者が多いわ。出来るやつしか残らないんだから当然だけど」

「かなり怖いですね」

弥由は苦笑しながら言った。
面白そうな職場だ。仕事に張り合いもありそうだ。
平林が興味深そうに弥由を見つめているのに気づいて弥由はなんですか?という風に見返した。

「ううん。ビビらないんだなって思って」

「ビビるべきでしたか?」

平林が苦笑しながら首を横に振った。

「21に思えないくらい、しっかりしてるわ、あなた。…どうしたの?」

顔色を変えた弥由にすぐに気づいて、平林が尋ねてきた。

「いえ、少しお腹すいたなって思って…」

かわいらしい短いメロディーが流れた。

「ちょうどお昼だわ。森川さんは体内時計までしっかりしてるみたいね」

笑い返した弥由だったが、心には罪悪感がひたひたと押し寄せてきていた。

これから嘘にまみれて暮らさなければならないのだ。
抜き差しならないところにきて、躊躇しても意味は無いが。

「あ、篠崎君」

平林は目の前を通り過ぎようとした男性を呼び止めた。
平林より頭ひとつぶんは高い男性が、くるりと振り向いた。

「ふっふ、超高速であなたの部署の求めてる人材を確保したわよ。鮫島の奴はどこ?もう人事部は低能だなんて言わせやしないんだから」

「低能? 鮫島係長、そんな失礼なこと平林さんに言ったんですか?」

篠崎と呼ばれた男は、愉快そうにくっくっと笑いながら言った。

その笑みに弥由は見入った。
なぜか心臓がとくんと跳ね、彼女は馴染みのない体の反応に眉を潜めた。

「森川莉緒さんよ、篠崎君、鮫島から彼女を守ってあげてね」

平林はそう言うと、弥由に笑顔で振り返った。
その向こうにある篠崎の顔が、弥由を捉えた途端、劇的に変化した。

驚いた弥由の表情を見て、平林が篠崎に視線を戻した。

「ふたり、知り合い?」

「ええ」と篠崎が即答し、「いえ」と言った弥由は呆気に取られた。

「知ってはいますよ。僕の方は…」

眇められた瞳。そこに隠しようのない蔑みが浮かんでいる。

「あの…」

言いかけた言葉を弥由は飲み込んだ。
彼が知っているという人物は…莉緒なのに違いない。

「なんか不穏な雰囲気ねぇ」
困ったように平林が言った。

「なんかわからないけど、ふたりの間に何かあったのなら、早いとこ解決してちょうだい。彼女の採用は決まっちゃったし…」

「別に構いませんよ。僕にはなんら関係ないし、解決するようなこともない」

そう言うと篠崎は歩み去ろうとして一歩踏み出し、もう一度振り返った。

「鮫島係長喜ぶんじゃないですか、彼女のような部下が持てたら…」

そう付け加え、篠崎は歩き去った。

さらりと語られたのに、彼女のようなという言葉にははっきりと侮蔑が含まれていた。

「篠崎君らしくないわねぇ」

事態を収拾するすべがなく、平林が困り果てたように言った。

いったい莉緒は、彼にあそこまで嫌われる何をしたのだろう?

「あの方、篠崎、なんておっしゃるんですか?」

「え? 遥輝だけど」

篠崎遥輝(しのざき・はるき)。弥由はその名を心にとどめた。




   
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