その4 恋は芽吹きを知り
「グルメ会?ですか」
「そ」
外のベンチで木陰の涼みを感じながら、弥由は今津とのおしゃべりを楽しんでいた。
部署のみんなで、月に一度、グルメ会なる食事会があるのだそうだ。
前の職場ではそんな和やかな会などまるでなかったから、物珍しさも手伝ってとても心が浮き立った。
「鮫島係長、仕事には手厳しいけど、本気出す部下には、さりげにだけど優しいから」
「さりげにですか?」苦笑しつつ弥由は言った。
「俺がなんだって」
鮫島が弥由の頭の上にひょいと顔を出し、弥由はビクンと震えて上向いた。
してやったりという顔で、鮫島は弥由の驚きの顔を覗きこんでいる。
「うちの出来すぎた新人を驚かす機会に恵まれて嬉しいよ」
「あー、本当に驚きました」
近すぎる鮫島の顔に、弥由はくすくす笑いが止められなかった。
鮫島は両手にアイスコーヒーの紙コップを持っていて、ひとつを今津に渡すと、隣に立っている篠崎に振り返った。
彼も両手に紙コップを持っている。まったく有難くなさそうに、篠崎が弥由に紙コップを差し出してきた。
弥由に対する、あからさまではないのだが、篠崎らしくない態度に鮫島がおせっかいを焼こうというのだろう。
「ありがとうございます」
嫌々頷いた彼は、背後にある木の幹に背中をもたらせた。
冷たいコーヒーを一口味わってから、頭上を見上げ葉の揺れる様を見つめている。
その彼の仕草の一コマ一コマを、吸いつけられたように弥由は見つめてしまう。心臓がドキドキと強く脈打っているのに気づいて、弥由は自分の鼓動の速さを確かめるように手のひらを当てていた。
気づくと、鮫島と今津がとてつもなく面白いものでも見たかのように、弥由をじっと見つめている。
「ふたりとも、どうかしました?」
「どうもしない、どうもしない」と言いながら、今津が大袈裟なほど頭と両手を振った。
弥由はコーヒーを飲みながら首を傾げた。
「ね、森川さん、彼氏いないよねぇ?」
「いませんけど」
「だよねぇ。好きな人とかいるの?」
「いませんけど」
鮫島がぶっと吹いた。
「鮫島係長、コーヒー吹かないでくださいよぉ」
「すまん。我慢できなくて」と言った後、鮫島はしゃがみこんで笑い出した。
鮫島の笑いがなぜ起こったのか、弥由には訳がわからなかった。
「一体全体、何がおかしいんですか?」
「ほんとに、何がおかしいんです?」
眉を寄せた篠崎が、弥由の横に立って同じように質問している。
「篠崎、お前彼女いないよな、好きな女はいないのか?」
「どうでもいいでしょうそんなこと」
酷く腹立たしげに篠崎が言った。
「グルメ会が楽しみだな、今津君」
「ですねぇ」
そういうと二人、同じほどの笑みを浮かべ、揃ってコーヒーをうまそうに飲んだ。
「気が合うんですね、お二人。何も言わなくても通じ合ってる感じで、理想的な部下と上司ですね」
「鮫島係長はね、平林さん…いてっ」
「…と、付き合ってらっしゃるんですか?」
「森川、お前、ひとのことには鋭く反応するな。それに俺はあいつとなんか付き合っちゃいないぞ」
鮫島の言葉に大きく頷いた篠崎がこう言った。
「それどころか、かなり嫌われてますよね。鮫島係長、ことあるごとに平林さんをいじめてるようだから」
「そんな覚えないぞ」
ほんとうに覚えがないというように、鮫島が抗議するように言った。
今度は鮫島をのぞいた全員が噴き出し、しばらくの間笑い声が響いた。
グルメ会の行われるお店まで、弥由は今津の車に乗せてもらうことにした。
夕暮れの空は、心がほんわかするようなピンク色に染まっている。
今津の後ろから着いて歩いていた弥由は、聞いたことのない声に呼び止められた。
振り向くと、知らない男性が弥由を見つめている。
「あの、どなたですか?」
「芳野と言います。本当にそっくりだな。すぐにわかりましたよ」
「芳野って、あの、姉…の、担当の…」
「そうです。お聞きしたいことがあって。お時間いただけませんか?」
「いまは…」弥由は困って今津に向いた。
「あの、どういうお話ですか?」
「ここでは、ちょっと話せません。今は…駄目ですか?」
今津を見てから、芳野が困ったように言った。
「すみません。彼女を三十分ほど貸していただけませんか?」
今津がうーんと考え込んだ後、「それじゃ、彼女を目的地まで乗せてきてもらおうかな。ここからだと十分くらいで着いちゃうけど」と提案した。
「少し短いけど、それでいいですよ」
今津と芳野の間で合意が得られ、気づいたときには弥由は芳野の助手席に乗っていた。
「すみません。強引でしたね」
芳野は莉緒との会話の中で、さりげなく同居している弥由の勤める会社を聞き出したらしい。どうしても聞きたいことがあり、無礼を承知でやって来たと言った。
「それで、お話って…」
「時間がないから、ためらってる時間もないな」
発進した今津の車の後について行きながら、芳野が苦笑した。
「お姉さんの弥由さん、年齢を偽ってますよね」
弥由は目を見開いた。その表情を見て、芳野が頷いた。
「話をしてて、わかるんですよ。でも年齢を偽ってるからと言って、仕事に差し障りはないし、個人的に責めるつもりもないんです。ただ、原稿料を支払っている以上、社に対しての嘘はさすがに…」
その言葉が胸に突き刺さり、弥由は唇をきつく噛んだ。
「彼女、妹は双子だと言ってました。彼女の双子の妹があなたなわけだ」
弥由はためらった挙句、真実を告げることにした。
「わたし、芳野さんには、本当のことをお話ししようって、ずっと考えていたんです」
弥由は手短に、けれど必要な要所を確実に押さえて話をした。
包容力のある芳野は弥由の法外な話に驚きながらも頷いて聞いてくれた。
弥由が莉緒として社に入社したくだりが、芳野にはもっとも驚きだったらしいことが、弥由を落ち込ませた。
「そうでしたか。それにしても、あなたは大変でしたね」
「芳野さん、これからどうするつもりですか?莉緒のこと」
「うーん、困ったな。わたしには、あなたのいまの立場が、一番微妙な問題という気がしますよ」
弥由はため息をついた。ほんとうにその通りなのだ。
目的の店に着いた。
駐車場に入ってゆくと、駐車し終えた今津が車から出るところだった。
少し頭を下げた弥由に、今津がわかったというように頷き返してくれた。
「戸籍上、そっくりそのまま入れ替わっているという状況なのだから、書面的には問題がないと言えばないわけだし…」
弥由は芳野に向いた。
「このままでいいと思います?」
すがるような口調になった。本心から頼りがいのある芳野に弥由はすがりたかった。
「わたしに聞かれても困るが…」と、芳野が苦笑した。
「すみません」弥由は唇をきつく引き結んだ。不覚にも涙が出た。
「泣かないで。…あまり深く考え込まない方がいい。なんとかなりますよ、世の中ってそうしたものだから」
「そうでしょうか?」
「真実だけが正しいとは限らない」
「芳野さんにそう言っていただけて、少しだけだけど、気持ちが楽になりました」
「そういわれると、いささか良心が痛みます。わたしはただ、真実を知りたかっただけなんですよ。すみません」
頭を掻きながら申し訳なさそうに言う芳野に、さらに好感が増した。
「正直な方ですね」
それに目上の者が目下の者に持ちやすい傲慢さもない。
莉緒は、いいひとを好きになったなと弥由が考えたその時、芳野が愉快そうにこう言った。
「そうでもない。彼女には、いつも何考えてるかわからないなんて言われてるし…」
弥由は内心動揺していた。芳野には彼女がいたのだ。とすると、莉緒は…
「長話ししすぎたな。あなたの連れの方に、わたしの分もお詫びしといてください」
弥由は車を降りて芳野に向け丁寧に頭を下げた。
「芳野さん、ありがとうございました」
「今後のこともあるし…」そう言って、芳野は名刺を差し出してきた。名刺を持っていない弥由は手帳を破いて携帯番号を書き込み、彼に手渡した。
走り去ってゆく芳野の車を弥由は複雑な思いで見送った。
いつの間にか今津が隣に並んで立っていた。
「森川さん、早く行こう」
興味深々の輝きを瞳に宿している今津に、弥由は苦笑いした。
グルメ会は総合的には楽しかった。
あらかじめ料理も予約されていて、鮫島の名を告げると、ふたりは二階の個室に案内された。中では男五人楽しそうに談笑していて、遅れて入ってきた弥由と今津もすぐに仲間に加わった。
「ここの料理、うまいんだけど、明後日にならなきゃ出てこないんじゃないかと思うくらい遅せえよなぇ」
栗田が柄の悪い大声で言い終わった瞬間、最初のオードブルを乗せたお皿を抱えてウエイターが入って来た。
鮫島がコホンと誤魔化せない咳をし、今津が取るに足らない世間話を大仰に始めた。
全員の前に料理の皿が配られ、ウエイターが姿を消した途端、栗田は各種様々な責めを浴び、弥由はしばらくの間笑いから逃れられなかった。
そう、篠崎の笑いの一粒も存在しない冷たい瞳を目に捉えるまでは…
弥由以外の人たちと、楽しそうに会話しながら料理に舌鼓を打っている篠崎を見つめていたら、胸がキューンと締め付けられるように痛んだ。
彼にストレートに聞いてみたくてならなかった。
解けるものならば、誤解をすべて解いてしまいたかった。
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