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その8 恋の二面性
弥由は、コーヒーを味わいもせず飲み込んでいる莉緒を見つめてため息をついた。
明日に迫った締め切りに、莉緒も莉緒のアシスタントも、顔は固く強張り、怖いほど目が血走っている。
少しくらいは休憩しないとと言って、コーヒーとサンドイッチを差し入れたのだが。
ほとんど手が着けられていないサンドイッチを見て、弥由は首を振った。
こんな生活には二度と戻りたくない。
会社を辞めたら、今度は弥由としての就職探しが待っている。
芳野にも一度連絡を取らなければならないだろう。
両親にも本当のことを話さなければならないし、それらすべてを、莉緒にゆとりがある時にすませてしまう必要がある。
空になったカップを持って台所に入ったところで、弥由の携帯が鳴った。
番号表示だけで誰だかわからない。
「はい?」
「あの、長沢だけど」
「は?長沢さん? どうしてわたしに?」
「それがその。…わかってるって」
「はい?」
「いや、あ、君…に言ったんじゃなくて。遥兄が電話しろって、煩いもんで…あの、教えてもらった番号、電源が切ってあってぜんぜん連絡取れなくて…そしたら遥兄が、…君の番号知ってて…ふたつ持ってたんだね?」
最後、長沢に強く言い切るように尋ねられ、弥由もやっと事の次第がわかってきた。
「篠崎さんがそこにいるんですね?」
「そう」
「莉緒、締め切り間近で余裕なくて、携帯の電源切ったままなんだわ」
「ああ、そうだったのか。あ、遥兄、何すんだよ」
「森川」
「あ、は、はいいっっ」
突然の篠崎の声に、弥由は焦りまくって姿勢まで正してしまった。
「すまなかった。祥吾に君のこと聞いていて…。誤解して酷い態度取り続けた。…いくら謝っても、君を傷つけたことは取り消せないけど…」
「い、いえ、いいんですっ。謝らないでください。すべては誤解で…だから、篠崎さんは少しも悪くないです」
「本当にすまない。あわせる顔がない…」
篠崎が、悔いを込めた辛そうな息をついた。
弥由の方がいたたまれないほど辛くなった。
「それじゃ、あの、…今度パフェでも奢ってください。篠崎さんの残したデザート、いまだにもったいなくって…今からでも食べに行きたいくらいで」
自分でも馬鹿なことを言っていると思ったが、篠崎の気持ちが少しでも和らぐならなんでも構わなかった。篠崎の小さな笑い声が聞こえて、弥由はほっとした。
「森川…」
「はい」
「これから、よろしく頼むな」
「はい。こちらこそ、お願いします。…あの、これからは仕事も頼んでくださると、嬉しいです」
篠崎がくつくつ笑った。
弥由の心にほっと温かな明かりが灯った。
「森川、仕事出来過ぎだぞ。少しは先輩に遠慮してくれ」
篠崎の冗談に弥由は笑った。
ふたりは数秒、心地よい沈黙を分かち合った。
弥由は、篠崎の心が和らいでいるのをはっきりと感じ取れて嬉しかった。
「それじゃ、祥吾に代わる」
篠崎がそう言った途端、弥由は物足りなさを感じた。
もっと、ずっと彼の声を聞いていたかったのに…
「どうもすみませんでした。遥兄、どうしてもいますぐ電話掛けろって、きかなかったもんですから」
長沢の口調が変わった。
どうやら篠崎は長沢の側から離れたらしい。
「こちらこそ、ごめんなさい。莉緒が忙しいのわかってたのに、あなたに伝えてなくて」
「また掛けます。いつだったら彼女暇出来ますか?」
「明日の夜には大丈夫だと。締め切り明日なんです。いまの莉緒、目が殺気だってて、恐ろしくて声も掛けられないくらいなの」
長沢が声を上げて笑った。
「…あの時、電話すれば良かったって、いまさらなのわかってるんだけど、後悔にまみれちゃって」
電話を切る直前、長沢が暗い声で言った。
ふたりの関係がどうなるのか、どうしたいのか、彼にもわからないと言った。
ひとの思いとはそういうものだろう。
ゆらゆらと揺れて本人の手にも余るのが恋というものなのだと、いま弥由も感じている。
芳野氏に原稿を渡すために出掛けて行く莉緒は、怖いほど生き生きとしていたが、戻ってきた時には魂が抜けたような風情で、すぐにベッドに転がった。
「今夜、何か食べたいものある?」
「焼肉」
ドアから顔だけ出していた弥由は、莉緒の返事があったことにほっとして顔を引っ込めた。
今夜はちょっと奮発してやろうと思いながら、財布を手にして玄関に向かったが、靴を履いたところで、大事なことを思い出して莉緒の部屋に戻った。
「莉緒、携帯の電源入れときなさい」
「いいよ。掛かってきたら、かえってうざいもん」
「芳野さんが掛けてきたらどうするの?」
「わたしがグロッキーなの知ってるから、掛けてこないよ」
弥由はその言葉にふっと笑った。
莉緒も芳野氏も、互いをよく分かり合っているようだ。
莉緒がうとうとし始めたのをみて、弥由は部屋を後にした。
その夜、焼肉の匂いが漂い始めたのは、もう九時になろうかという頃だった。
睡眠を取って、少し血の巡りが良くなった莉緒は、シャワーを浴びてさっぱりした様子で大好物のお肉をうまそうに食べ始めた。
「駿、いま下に車停めたとこだって」
携帯を仕舞いながら弥由が言うと、莉緒がぷっと噴き出した。
「駿、さすが。顔出すタイミングわかるんだよね。おまけに焼肉だし」
「お肉、多めに買っといて良かったわ」
ふたりがそう言って笑っているところに駿輔がやってきた。
彼女達の部屋は3階で、このアパートにエレベーターはない。
神業的に早い駿輔に、ふたりは笑い転げた。
焼肉食べたさに、三段飛ばしに階段を駆け上がってきたのかもしれない。
三人してお腹も満ち、弥由が食器を洗っていると、駿輔が台所に入ってきた。
「まだ莉緒は知らなかったんだな」
「話したの?」
「ああ」
「莉緒、なんて?」
「事態を噛み砕けなくて、喉に詰まらせてる感じだな」
「水、持ってってあげた方が良い?」
「窒息死はしないだろうから、消化するまでひとりにしといてやった方がいいかな」
「…可哀想で…たまんないの。色々考えちゃうの。いまさら考えても仕方ないのわかっても、考えちゃう。私たちが行かなかったらとか、もっと早く帰ってればとか…」
目に涙をためた弥由の頭に、駿輔の手のひらがそっと置かれた。
「人生万事塞翁が馬。それに莉緒は、今回のこと、ちゃんと消化するよ。長沢とのことも、戻るものなら元に戻る。ふたりがもう駄目なら、あのまま続いていても結局は駄目になってる。それに、すべての恋が最終的な相手とは限らないんだ。弥由はそう思い込みたいようだけど…」
弥由は、俯いて唇を尖らせた。
たしかにそう思っていた。
そして、駿輔の言うとおり、莉緒にとっての長沢はそうなのだと弥由は思いたがっているし、恋とは蜂蜜のように甘くて、心が愛で満たされるものだと、いまも思いたがっている。
「恋は楽しいばっかじゃないし、人生の中でうまくゆく恋なんてほんの少しだ。何度も恋をして、破局迎えるたびに辛い思いを心に積んで、みんな人生歩んでくんだから。…俺、莉緒よりも弥由の方が心配だ」
「あーあ、なんか、自分にがっかり」
駿輔の言うことは、わかる。わかるけれど、弥由は割り切れないものを感じるのだ。
彼女はそれを隠すために、無理して明るくそう言った。
「がっかりする必要はないさ。心配は心配だけど、それが弥由のよさでもあるから」
駿輔に掛かると、なんか自分がものすごく情けない存在のような気がしてくる。弥由は苦い笑いを浮かべた。
「わたし、駿より四年余計に生きてるはずなのになぁ」
「窒息死して欲しくないから言ったんだ。弥由、俺の言いたいこと、わかるよな」
駿輔が怖いくらい真面目な顔で言った。
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