恋は導きの先に
その9 行き場のない思い



翌日の弥由はさんざんだった。
コピーの部数やら用紙のサイズをことごとく間違え、あげく急ぎの書類は作成し忘れ、鮫島からガツンと、再起不能に陥りそうな激しいお小言を食らった。

弥由が失敗をするたびに、篠崎からは困るほど庇護され、それまでとは反転した彼の態度に、職場の奇異な視線がふたりに向けられた。
弥由はひたすら恥ずかしかったが、篠崎はまったく関知しなかった。

昨夜、莉緒に長沢から電話が掛かって来た。
莉緒は自分の部屋に入って話したから、ふたりの会話がどんなものだったかなどわからなかった。それに電話を終えた莉緒は部屋から一歩も出てこなかった。
今朝になっても莉緒は部屋から出てこず、心配を抱えながら弥由は出勤してきたのだ。

莉緒は窒息死しないまでも、消化不良を起こしている。それもかなり症状が重い。
弥由も特効薬を持っているわけではないし、相手が拒否していては手を当ててあげることすらできない。

昼までに数回電話をしてみたが、莉緒の携帯には繋がらなかった。
携帯を閉じて莉緒のことを案じていると、篠崎が近づいてきた。
彼はそのまま窓枠に肘を当てて、外の景色を眺めている。

彼の横顔を見つめながら弥由は嬉しさを噛み締めていた。
篠崎の態度の劇的な変化に、弥由自身まだ戸惑いを感じることも事実だが、それでも嬉しいことに違いはない。

何か考え込んでじっと一点を見つめていた彼が、弥由に振り向こうとする瞬間、彼女は視線をずらした。これ以上、若葉マークつきの恋をさらけ出しては、彼が対処に困るだろう。

「森川、君、今週の土曜日空いてる?」
そう尋ねられて、弥由は間をおかずに頷いた。
デートの文字が遅れて頭に浮かんで、どんな顔をすればいいのか迷った。

「良かった。話したいことがあるんだ。仕事の帰りに時間もらえないかな?」

そう言って篠崎は困ったような笑みを浮かべた。
その笑みを瞳に捕らえて、弥由の意識はどこかに飛んで行きそうになった。

「駄目かな」

弥由の心を震わす彼の声に、内容がなんであっても応じたいくらいだった。
だが莉緒のことがある。

「一緒に住んでる姉が…具合悪くしてて」

「森川、お姉さんと住んでるのか?」

弥由は頷いた。本当は妹ですけど…と心で訂正した。

「具合悪いんじゃ、心配だな。…それじゃ、家まで送らせて。バスや電車使って帰るより速いだろうし」

弥由は少し迷ったものの、お願いすることにした。
篠崎の過ぎるほどの親切は、これまでの詫びに違いないが、彼と共にいられて、これまでと違うやさしい声が聞けて、楽しい会話を体験出来るのなら、いまの弥由にとってこれ以上の贅沢な時はない。


車を運転しながら語られた篠崎の話しは、弥由の意表を大きく突いた。

「鮫島係長と平林さんと、遊園地…ですか?」

「ああ、鮫島係長のために一肌脱ごうって、前々から栗田さんや今津さんと話してたんだ。でも、なかなかふたりそろっては誘いに応じてくれなくて」と篠崎は苦笑した。

「でも、あの鮫島係長が遊園地…。ホントに行くって言ったんですか?」

彼が遊園地を歩いているところすら想像出来ない。
笑いの虫が弥由を突つきまわしているのだが、あまりに意外過ぎて笑いが訪れなかった。

「鮫島さんが言い出したんだ」

その言葉はとても信じがたかった。眉を寄せている弥由に篠崎も同調してか苦笑している。

「とにかく、一緒に来て、手伝って欲しいんだ。頼める?」

「はい。喜んでお手伝いさせていただきます」

篠崎の嬉しそうな笑みが、弥由にも伝染した。

「鮫島さん、仕事は出来るけど、すごい不器用っていうか。あの口で恋を語れるとは思えないし…」

弥由は思い切り噴いた。
鮫島が恋を囁いているところなど、どうやっても頭に思い描けない。

「でも、遊園地なんて、高校生のころ以来です。楽しみ」

「祥吾とは行かなかった?」

篠崎にそう問われて、莉緒に成りすましている後ろめたさに、弥由は言葉を失った。
篠崎が弥由のその表情をどう受け取ったのか、「ごめん」と言った。
ためらった笑みを浮かべて彼女は首を振った。





玄関を開けた途端、居間にいた莉緒が「おかえりぃ」と声を上げた。
すでに夕食の準備も出来ていて、テーブルはカラフルな色彩の料理が並んでいた。

「手、洗っといでよ。しばらくの間、お世話かけちゃったからね。次の大波が来るまでは、お礼させてもらうよ」

長年の付き合いだ、弥由は胸が痛んだ。莉緒の無理がわかりすぎるほどわかる。
わかるからこそ、弥由は莉緒の努力に素直に付き合った。

「おいしそう。莉緒の料理って独創性あるよね。味はどんなかな」

弥由は大きなコロッケらしきものを口に入れた。衣がぱりぱりとして触感がいい。

「あれ、おいしい。この衣、何?」

「ふふふ、コーンフレークだよん」

弥由の反応に満足したように、胸を張って莉緒が言った。
言われてみればそんな食感だ。

料理を食べ終えシャワーを浴びて出てくると、床に直接座り込み、テレビの賑やかなコマーシャルに視線を当てているだけの莉緒がいた。
弥由は妹の虚しげな表情に足を止めた。

「莉緒、口にしたくないのかもしれないけど…話したら少しくらい気持ちの整理つかない?」

莉緒は、立てた膝を抱きしめて顔を伏せた。
弥由は莉緒の隣に座って、妹の肩を片腕でぎゅっと抱きしめた。

「割り切れないもの感じちゃうんだよね。終わるはずがなかった恋が、終わっちゃったことに納得ゆかないって言うか。彼が来なかったことと、連絡がぷっつり途絶えたことで、私は嫌われたんだって、辛かったけど諦めのけじめみたいなのが心の中でついてた。なのに、それは全部勘違いで…でも、もう半年経っちゃったし」

「これからやり直すことだって出来るじゃない。そういう話し長沢君とはしなかったの?」

莉緒が世の中で一番苦いものを飲み込んだような顔をした。弥由は自分の言葉の不適切さに気づいた。

「彼女いるんだって、祥吾」

弥由ははっとした。長沢に、すでに彼女がいる?

「わたしだって芳野さんがいるしね。…お互いに、これでよかったんだねってことになった」

弥由は莉緒の肩を抱いた手に少しずつ力を込めた。
莉緒が少し笑った。あまりに哀しい笑み。

莉緒が泣いている。莉緒の心が泣いている。弥由は涙が止められなかった。




   
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