恋は導きの先に
番外編 恋愛音痴返上?


弥由は気難しい顔で、目の前に展開されている情景を研究者の目で見つめていた。

「あのさ、お姉、そんな風に見てられると、…いちゃつきづらいんですけど…」

「え?」

唇を尖らせた莉緒と、莉緒と同じ意見らしい長沢が、弥由を非難するように見ている。

「ごめんなさい」
弥由は膝に抱いていた大きなクッションで、気まずげに顔を隠した。

「他人がいちゃつているの羨ましげに見てるくらいなら、今夜、篠崎さんとこに泊まって来れば良かったのに。そしたらわたしたちもなんの気兼ねもなく…」

一緒にいれば四六時中じゃれあっているこのふたりが、気兼ねなどしているとは思えないが…

「べ、別に、羨ましくて見てたわけじゃ…」

「ふーん、そういえば、今日、お姉の部屋もついでに掃除機かけといたんだけど…」

「あら、ありがと」

臆面もなく礼を言う姉に、莉緒がふっと含みのある顔で笑った。

「掃除機がどえらいもの吸い込んでさ」

「どえらいもの…って、何?」

訳が分からずぽかんとしている弥由に、莉緒が呆れたように首を振った。

「さすがのわたしも、ここでそれを口には出来ないよ」

「あ、僕、なんか分かった気がする」そう言うと、にやけた顔で長沢が莉緒に耳打ちした。

「ハズレぇ」
莉緒は愉快がって言いながら、長沢のほっぺたを突っついた。

「えーっ、絶対そうだと思ったのになぁ」

ハズレても長沢はとろけそうな顔で笑った。
どうやら、ぽっぺたを突付かれるという莉緒の行為が、ひどく嬉しかったらしい。

弥由は、ふんふんと頷くと、今度自分も篠崎にやってみるべく、先ほどから頭の中で作り上げているリストの最後尾にそれを付け加えた。

リストの内容を思い返しながら指を追って数えていると、莉緒が何か言ったような気がして弥由は顔を上げた。

「莉緒、何か言った?」

「だから、ベッドの下だよ、ベッドの」

「ベッドの下が、どうしたの?」

「忘れてるんだね。完全に…」

呆れたを通り越して、まるで尊敬するような目で莉緒は弥由を見ている。

「あんなもの隠して、忘れられるものかな?」と、あんなものの正体を知るはずのない長沢に、なぜか莉緒が問いかけた。

「うーん、ベッドの下というと…男なら、よくあるのが…だけどなぁ。そんなわけないだろうし…」

莉緒が長沢の目の前で、パンと両手を打ち合わせ、長沢は驚いてそっくり返った。
さらに、人差し指をにゅっと彼の鼻先に突きつけて、「それだよ。その手のもの…」と莉緒は言い、「わきゃきゃ」とおかしな擬音の笑い声を上げて、ソファに腰掛けたまま飛び跳ねている。

「まさかぁ、莉緒、嘘だろ。このお姉さんが…」

その瞬間、弥由の頭の中から、研究成果のリストのすべてが消し飛んだ。

「あ…あ・あ・あああぁぁ!!」

弥由はバッと立ち上がると、持っていたクッションを投げ捨て、すさまじい勢いで自分の部屋に飛び込んだ。

長沢がうわっと叫んだところを見ると、クッションは彼にヒットしたらしかったが、そんなことに構う余裕などなかった。

部屋に入ってベッドの下を探り、弥由は縦30cm横20cmほどの段ボール箱を引っ張り出した。
呆然として箱を持ち上げた弥由だったが、その箱の中身をまざまざと思い出して、「きゃーー」と悲鳴を上げて壁に投げつけた。

「お姉、何やってんの?」

莉緒と長沢が弥由の部屋の戸口に立って、理解しがたいという様子で彼女を見ている。
すると、長沢が動いて箱に手を掛けようとした。
弥由は慌てて長沢の行動を阻止した。

「ダメダメっ。そんなもの触っちゃダメ。ゴミ袋、早く莉緒、ゴミ袋持ってきて」

「まるで病原菌持ったゴキブリ扱いだな」

弥由の制止も聞かず、長沢は長い腕を伸ばして箱に手を掛けた。
弥由は渾身の力を込めて足で箱を蹴り飛ばした。
箱は気持ちの良いほど吹っ飛び、弥由のベッドの上を飛んで壁に激突して落ちた。

弥由のベッドの上に、空になった箱と数冊の本がバラバラになってその全貌を現した。

「ひゃー、すっげぇ」

長沢が捲れたページを見て、ぶっ飛んだ叫び声を上げた。





「お姉、いい加減立ち直りなよ」

本は莉緒の手でゴミ袋行きになり、弥由は部屋に閉じこもったまま朝を迎えた。
昨夜も泊まっていったらしい長沢は今日もバイトらしく、すでに出掛けて行ったようだった。

「今日は篠崎さんとデートじゃないの?」

その通りだった。
そろそろ支度しないと間に合わない。
弥由は嫌々部屋を出て、妹と対面した。

「長沢君、言ったりしないよね。篠崎さんに…」

「たぶん…」

「どっち? たぶん、どっち?」

「言わないように、釘刺しとくから」

必死になって聞く姉が可哀相になったのか、莉緒が力強く請け負ってくれた。

「ちょっとでも洩らしたら、二度と家に入れないって言っといてね」
弥由は薄く笑みながら言った。

「お姉…目が笑ってない」





「どうしたの? 何かあった?」

「何もっ」

弥由は否定を強めるように、強く叫んでぶんぶんと首を振った。
車を運転している篠崎は、前を向いたまま、「そう」と軽く頷いた。

あのとんでもない本は、ネット販売で購入した。
恋のテクニックと入れて検索したら、いっぱいヒットして、説明文を読んで助けになりそうなものを注文した…つもりだったのだ。

説明文には、『恋の技法に未熟な方に、ぴったりの…』とか、『これさえ学べば、彼を満足させられる…』などと書いてあった。

表紙も、とても可愛い漫画の絵だったのに、届いたのは…あれで…

弥由は本をパタンと閉じると、なかったことにしたのだ。
ベッドの下の一番奥に押し込んで、なかったことにした。

それから一ヶ月、弥由の中であの本の存在は頭の枠外に押しやられていたのに…
消滅させておくべきだったのだ、なのに、処置を誤ってしまった。

「弥由」

呼びかけに弥由は顔を上げた。
目的地にもう着いたのかと思ったら、そうではなかった。

「あれ、ここは?」

映画に行くはずだったのに、車はどこかの駐車場に停まっている。

「俺のマンション。中で話をしよう」

「え、映画は?」

「考え込んでため息ばかりついてるのに、そんなんで映画観ても…だろ」

付き合い始めて二ヶ月経ったが、いつも外で食事をしたりデートをしたりで、お互いに相手の部屋に入ったことはなかった。

篠崎も部屋に誘わなかったし、弥由もそうしなかった。

デート中に手をつないだり、篠崎が少しだけ髪に触れてきたり、別れ際に軽いキスもするけれど、それくらいだ。

莉緒と長沢の甘ったるいいちゃつきぶりを見ていると、弥由には、篠崎と自分との間には何かが足りない気がしてならなかった。

その足りない何かを学ぶために、ネットで本を購入したのに…テクニックはテクニックでも、弥由の求めていたものとは、まったく違うものが届くとは…。

「弥由」

深いため息をついた弥由は、篠崎の声に軽い苛立ちが混じっているのを感じ取り、慌てて車を降りた。

篠崎の部屋は、一人暮らしの男性にしては綺麗に片付いていた。
というより、あまり物がなく、散らかりようがないのかもしれない。

「片付いてますね」

「うん。いらないものは即刻捨てる主義だから。座って」

弥由は篠崎に勧められたソファに行儀良く座り、部屋をゆっくりと見回した。
篠崎の部屋は、独特の空気が漂っているように感じられた。
まるで違う空間に迷い込んだような気がする。

ソファの置かれた居間は、弥由のところより広い。
カウンターに仕切られたキッチンで篠崎がお湯を沸かしているのが見える。
玄関の脇にいくつか扉があったから、寝室はそっちなのだろう。

先ほどの篠崎の言葉が、なぜか弥由の胸でざわついていた。
篠崎がいらないと思ったら、弥由も、即刻捨てられてしまうのだろうか?
弥由はその恐ろしい考えを頭からふるい落とした。

駿輔がいけないのだ。
弥由のことを恋愛音痴だとか言うし、この間も帰り際、相手をしらけさせないように気をつけろよなんて笑いながら言うし…

弥由と篠崎の会話はけっこう弾んでいると思うし、駿輔の言う、『しらけさせる』がどういうことを指しているのかがわからない。

あと、弥由の出来ることは、うまくいっている莉緒と長沢を手本にするくらいしかないのだが。

「また、ため息」
篠崎に指摘されて、弥由は焦って口を押さえた。

目の前にコーヒーが置かれ、篠崎が弥由の横に座ってきた。
弥由は篠崎が座りやすいようにと、横にずれた。そのせいで、ふたりのあいだに30cmほどの隙間が出来た。
篠崎がそこに視線を当ててから、弥由をじっと見つめてきた。

「どうか…しました?」

「いや…」

篠崎はコーヒーカップを手にして一口飲み、「なんでもない」と続けた。

得体の知れない不穏な空気がふたりきりの空間に漂い出した。
弥由はひどく気まずかったが、なぜこんなに気まずいのかわからなかった。

「コーヒー美味しいです」

弥由は気まずさを払うように明るく言って、すでに空になってしまったカップをテーブルに置いた。

「そう、良かった」少しも良くなさそうに篠崎が言った。

「あの、どうかしたんですか?」弥由は遠慮がちに聞いた。

「それを、俺に聞くのはおかしいだろ?」

ならば、どうかしているのは弥由の方と言うことか?
それはつまり、弥由のため息のせいで…
ため息は、あの本に対する弥由の落ち込みのせいで…

弥由は進退窮まって身を固くした。

聞かれては困る。非常に困る。
絶対に話せないが、話さなければ篠崎は気分を害するかもしれない。
こんな馬鹿馬鹿しい隠しごとのせいで、ふたりの間に亀裂が…なんてことになったらどうしよう。

弥由はリストを検索した。
なんとかして、この危機的状況から抜け出さなければ。

いったん捨て去ったリストは、なかなか戻ってこなかったが…

弥由は篠崎の膝にコロンと寝転がった。

莉緒と長沢の間では、寝転がったのは長沢の方だったが、咄嗟に頭にアップして来たのがこれしかなかったのだから仕方がない。

莉緒は、「何甘えてんのよぉ」と甘く言って、長沢の頭をぽんとやさしく叩いた。のだが…篠崎の反応はまったくなかった。

弥由は篠崎の顔を見る勇気がなかった。だから確認するのを止めた。
彼は唖然として固まってでもいるのか、弥由は振り落とされもしなかった。

篠崎の膝は硬く引き締まっていて、頭に伝わってくる体温がとても心地よかった。
こうして彼に触れていると、恋への不慣れさとか、心もとなさもすべて霧散してゆくようだ。

弥由は目を閉じると、篠崎のぬくもりを味わうように、手で彼の腿を撫でた。
篠崎が「うっ」と叫んでびくりと膝を震わせた。
弥由は驚いて篠崎から離れた。

篠崎の顔を見た弥由は驚いた。
真っ赤になった篠崎が、片手で顔を覆っている。

「篠崎さん、ど、どうしたんですか?」

黙り込んだまま篠崎が片手を伸ばしてきた。その手が弥由の腿に置かれた。
弥由がその手を凝視していると、篠崎がゆっくりと手のひらを腿に這わせ始めた。

篠崎の触れた部分に耐えられない疼きを感じ、弥由の全身がわなないた。

「わ、わかりました。す、すみませんでした」

篠崎が手を離した。弥由をじっと見つめてくる。

「この感覚、嫌い?それとも好き?」

弥由の混乱した頭に、唐突にリストのふたつめの情景がポンと浮かび上がった。
ソファに座った長沢に莉緒が後ろから飛びついて、頭をめちゃくちゃに掻き乱した。長沢は嬉しそうだったが、この状況下では試せないだろうなんて馬鹿な回想をしたおかげで、弥由の頭の中は真っ白になった。

「返事は?」

弥由は目を見開いて篠崎の瞳を見つめた。
篠崎の声には、これまで耳にしたことがない甘さが含まれていた。その甘さに反応して、弥由の胸が限界を超えそうなほど鼓動を強めてゆく。

「返事?」

見つめ合ったまま弥由は問い返した。声がひどく震えた。

篠崎の請求している返事とは、いったいどんな問いに対するものだっただろう?
だが、笑みがあるのに怖いくらいの真剣さを発している篠崎に、問いがなんだったかなんてとても聞けなかった。

「そう、好き?」

弥由は目をしばたたいた。
篠崎を好きかと聞かれたのだっただろうか?なんとなくそうではないような気がした。
だが…

「好き…です」

気後れしながら弥由は答えた。
その答えに、篠崎が信じられないほどあまやかに微笑んだ。弥由の心臓が止まった。

弥由は硬直したまま、篠崎にそっとソファに押し倒された。
重ねられた唇の動きは、いつものキスとは根本的に違うものだった。


ソファの上で篠崎とぴったり寄り添っていることに、弥由は至福の喜びを感じていた。
互いに遠慮して、触れ合いを深めるのを躊躇っていたのだといまは分かる。
弥由が感じていた物足りなさは、これだったのだ。

篠崎に髪をいとおしむように撫でられ、それがあまりに心地良くて、弥由はこのまま眠ってしまいそうだった。

篠崎が弥由の耳元に囁いてきた。弥由は頷いて、恥ずかしさをおして同じ囁きを返した。
囁きを味わうようにふたりは唇を重ね、満ち足りて唇を離した。

篠崎の手を取り、弥由はしばらく頬で触れ、それから彼の手のひらに唇を当てた。
かなりくすぐったいのか、篠崎の胸が小刻みに小さく震えている。

その時、弥由の脳裏にひとつの記憶が蘇った。
好奇心が膨れ上がった。

彼女は唇を開くと、篠崎の手のひらにそっと…

篠崎が「わっ」と叫んだのは言うまでもない。
もちろん篠崎が、彼の気が済むまで仕返しをしたことも…




End




  
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