恋は難敵
その2 拒めないキス



「唯さん、どうかなさったの?」

祖母の心配そうな声に、保科唯(ほしな・ゆい)は驚いて瞬きした。

そう言えば食卓の席に着いていたのだった。
家族三人が、それぞれに彼女を気に掛けて見つめている。

「なんでもありません。ただ、その、仕事のことを、少し考えてしまって…」

「会社勤めが大変なら、辞めても良いのよ。無理して働く必要はないのだし、お茶にお花などをもっとたしなんで、結婚にそなえるとか…」

「母さん、唯に結婚はまだ早いでしょう?」

抗議を含めた瞳で、唯の父親の光一郎が言った。

「早くなんてありませんよ。わたくしは唯さんの歳にはすでに結婚しておりました」

「時代が違いますよ。いまは早婚より晩婚がはやりなんですよ」

「あら、はやりもののお嫌いなあなたが…そんなことを言うなんて」

祖母が、どこまでも上品に、けれど明るく愉快そうに笑い、笑われた光一郎が渋い顔をした。父親に良く似た海斗も、控えめに笑いを堪えている。

温かな家族に、唯は心が和んだ。

三年前、やさしかった母が病気で他界してしまうという不幸を味わったけれど、やっと母のいない生活に慣れてきたところだった。
それでもまだ、唯は母のいない空間をもてあますことがある。

食欲の無さは、ひとりの男性のせいだった。

唯は箸を置いた。
家族が心配するから無理してでも食べようと努力したが、どうしても食べられそうにない。

「ごめんなさい。おばあ様。どうしても食欲が無くて…」

「いいのよ。そういう時もあるわ。今夜は早めにおやすみなさい」

やさしい祖母の眼差しに、唯は素直に頷いて食器を片付けた。
自分の分だけ洗い、後の片付けは祖母に任せることにして、みなに断りを言って部屋に戻った。

この春、専門学校を卒業した唯は、家からそんなに遠くない会社に就職した。
入社して二ヶ月が経ったところだ。

仕事にもそろそろ慣れ、小さなミスくらいなら、注意されてもそれほど落ち込まなくなった。

昨日、仕事を終えて帰ろうとしていた時、相沢成道に呼び止められた。

ちょっと話したいことがあるんだと言われて、すぐ近くにある、会議室に使われる小さな部屋に、促されるまま先に入った。

成道は、彼女の一年先輩だ。
まだ入社して一年なのに、そう感じさせないほどの仕事ぶり。
先輩達も彼には一目置いている。

上背の高さ。すらりと伸びた足。

そして極め付けが、信じられないほど出来すぎた容姿。
その出来すぎた容姿のせいで、彼は社内でかなり浮いて見える。

その彼と二人きりの空間にいるのだと認識した時には、彼の言う、話の内容に思いつくことがないことと、制御できないまで速まった心拍数、そして身近過ぎる彼の体の存在に、収拾がつかないほど唯は混乱していた。

彼を前にすると、いつだって頬が赤くなる。
それを気づかれたくなくて、彼の前に立つと、唯はいつでも顔を伏せてしまう。

だが、いまは真っ赤というよりどす黒くなっているのではないかと思えて、唯は恐ろしかった。

「顔、あげてくれないかな?」

成道のやさしい声に、唯の肩が小さく跳ねた。
それがおかしかったのか、彼が押さえた笑い声を上げた。
おかげで、唯の混乱はますます強まっていった。

「頼むから、顔、あげて」

乞うような成道の言葉に、唯は思わず顔を上げていた。

唯は、成道の表情に、これ以上ないくらい目を見開いた。
溢れるような愛が、彼の瞳から彼女の心に流れ込んでくるのを感じた。

唯は、何も考えられなかった。
ゆっくりと近づいてきた成道の唇が、自分の唇に重なったのが分かった。
唯は本能的に目を閉じた。

はじめてふれた男のひとの唇の感触。

頭の中が空っぽになり、成道の唇が導くままに、唯は言い知れない甘さに溺れていた。

ゆっくりと唇が離れ、唯は思わず成道の唇の行方を追った。
その時、ふっと吹くような笑い声が耳に届き、唯の理性が徐々に戻ってきた。

唯の口紅で少し赤みのついた成道の唇。唯を見据えている瞳。そして…

彼の肩に必死でしがみついている自分の両手の存在に気づいて、唯の顔から血の気が引いていった。

自分がいましたことの行為が、フラッシュバックし、唯の空っぽの頭に、はっきりとした現実として記憶を積み上げてゆく。

「もう一度キスしたいけど、やめておこう。とめられなくなりそうだ」

成道のその言葉が、唯の記憶として、また新たに積み上げられた。

「食事に行こう。何が食べたい?」

まるで当然というように、記憶の一番上に積まれようとするその言葉を、唯は必死に払い落とした。

「行きません! 失礼します」

もつれそうになる足を、一生懸命修正しながら唯はその場から去った。
転ばなかったことが嬉しかった。





成道は歯噛みした。
あの日以来、彼女が彼をあからさまに避けていることに腹が立ってならなかった。

キスを受け入れたくせに…
そう思うと、苛立ちがさらにました。

理解できない物事が頭の中にあるということを、楽しめる性分ではない。

昼飯を食いに行く気も起こらず、成道は時間つぶしにエレベーターを使わず屋上を目指して階段を上って行った。

気を晴らしに、高いところから景色でも眺めるつもりだった。

3階の踊り場に近づいたとき、女性社員が窓から外を眺めているのに出くわした。

唯だった。
成道は彼女と鉢合わせした幸運に、身体が震えた。

突然のことに竦んでいる彼女の目の前に立ち、成道は、さっと周囲を確かめた。
誰もいない…

彼は思わずにやりと笑った。
その彼の笑みを目撃した唯が怯えたのがわかった。

彼女の唇は成道をとりこにする。
唇を触れ合わせているだけなのに、こんなに彼の身体の芯を痺れさせるのはなぜなのだろう。

勢いでキスをしてしまった成道の脳裏に、彼女の怯えた表情がいまさら浮かび、成道は唇を離した。

彼女の紅潮した頬がすこしずつ薄れ、今度は不安になるほど白くなってゆく。

唯の顔が歪み、その瞳から涙が零れたのを目にして、成道の胸が鋭く痛んだ。

「もうしないって…言えればいいけど、言えない。ごめん」

君が応えるから…

そう言おうとしたけれど、それはけして言ってはいけないことだと思えた。

成道は階段を飛ぶように降りた。





「姉さん?」

台所で包丁を握ったまま、まな板の上のにんじんを見つめていた唯は、弟の呼びかけにはっと我に返った。

「どうしたのさ?」

唯はにんじんを忙しく切り始めた。

ジャガイモを湯がくための煮立ったお湯がすでに半分になっているのに気づいて、慌てて包丁を置いた唯は、きゃっと叫んで飛びのいた。

「危険すぎ」

呆れたように海斗が呟き、転がった包丁を拾い上げた。

「怪我するよ。店屋物頼もうよ。どうせ今夜は、僕と姉さんだけなんでしょ?」

祖母は、久しぶりにお友達と観劇に出かけた。
父親は食事会だとかで今夜の夕食はいらないらしい。

「でも、もう作り始めちゃったから」

「それなら、僕が作るから。座わってなよ」

唯は頷いて食卓の椅子に腰掛けた。

唯の着けていたエプロンを受け取って、なんの躊躇もなく、海斗はすばやく身に着けた。

少しフリルのついた水色のエプロンが、やたら良く似合う弟に、唯は顔をほころばせた。

今夜のメニューがシーフードのグラタンとサラダと聞いた海斗は、手際よく料理を作っていく。
なんでもそつなくこなす弟を、唯は頬杖ついて見つめていた。

「それで? 何があったの?」

唯は言葉に出来なくて、黙り込んだ。

「もしかして…?」

「えっ?」

「うん。そろそろ好きな人でも出来たのかなって」

笑いながら振り返った海斗と目が合った。

「あれ、…当りか?」

少し驚いたような海斗の言葉は、まるで自分に問いかけているようだった。
唯は真っ赤になった頬をいまさら両手で隠した。

海斗に聞いてみたかった。
男性は、あんなに簡単にキスが出来るものなのか?と。
だが、とてもそんなことは聞けない。

「まあ、…姉さんが好きになる男なら、きっと良い人に違いないからね。僕も、影ながら応援させてもらうよ」

良いひと?なのだろうか?

唯は、忙しく立ち働いている海斗の後姿を見つめながら、そっとため息をついた。




   
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