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その3 偽りの婚約者
しょぼくれた雨が振っていた。
雨に濡れながら成道は天を睨んだ。
どうせ降るなら、もっと盛大に降ればいいのに…
しょぼくれた雨に濡れて、しょぼくれた犬みたいになっている自分に腹立ちが湧く。
それでも、彼女と話がしたくてこうやって、街角で待ち伏せしているのだ。
正直、こんなことをしている自分には嫌気がさす。だが…
「あらぁ、相沢さん?」
「どうしたんですか?こんなところで」
「傘、無いんですか?よかったら…」
「いや、いいんだ。ひとを待ってるところだから」
「えっ、恋人と待ち合わせですか?」
「は? ああ、まあそんなとこ」成道は苦笑した。
将来の恋人との待ち合わせではある。
声を掛けて来た三人が、それぞれに挨拶して歩き去ってゆくのを、成道は見るとも無く見つめていた。
その時、彼の待ち人が、彼の横をすっと通り過ぎた。
「保科君」
彼の呼びかけに、彼女の肩がびくんと揺れた。
成道の脳裏に、自分は彼女に嫌われているのだろうか?という考えがふいに湧き、彼はその考えを急いで払いのけた。
「話がしたい」
立ち止まった彼女はじっとしている。彼はもう一度言った。
「どうしても」
迷った末に、彼女がこちらに振り向いた。
傘に隠れて彼女の顔が見られないことに、さらに苛立ちが増す。
少し雨脚が速くなってきた。
ポタポタと頭頂部にあたり、伝った雨粒が、首や顔に流れてくる。
彼女がはっとしたように顔を上げ、慌てて彼の頭まで傘をさしあげてきた。
「いい。そんなことをしたら、君が濡れる。俺はもう濡れてるから」
「で、でも」
つま先だってまで傘に入れてくれようとする彼女が愛しかった。
成道はふいに胸が熱くなり、歯を食いしばった。
彼女から傘を取り上げ、雨が当らないように彼女を自分の方に引寄せた。
「送らせて」
成道は彼女の背にそっと手をあて、少しだけ促した。
彼女の意思に反したことはもうしたくなかった。
唯が促した方向に歩き始めたことで、成道はほっと安堵した。
車を車庫に入れて車から出た成道は、そのまましばらく佇んでいた。
身体の芯まで雨に濡れてしまったが、自虐的な思いに囚われて、雨の中から逃れて家の中に入る気になれなかった。
彼女の家の前に車を停め、「付き合って欲しいんだ。よく考えてから返事が欲しい」と彼女に言った。
懇願するような声になったことに、成道のプライドはギシギシと軋んでいた。
「婚約者が…いて。…それなのに、付き合えません」言いにくそうに彼女が言った。
成道は頭が沸騰する思いだった。
その後、どうやって戻ってきたのかも覚えていない。
彼女に婚約者。思っても無かった。
たしかに、彼女はいいところのお嬢さんだと噂で聞いていた。
婚約者なるものが存在していてもおかしくないだろうと思えた。
だが、彼女は成道の口づけに応えたのだ。
その事実だけがいまの彼を支えてくれた。
車の停まる音がした。
顔を上げると、響の車だ。助手席に尚がいる。
成道は、慌てて車庫に座り込んだ。
こんな惨めな姿など、誰にも見られたくない。
ふたりが家の中に入って行ってからたっぷり五分ほど待ってから、成道は玄関に向かった。
鍵をそっと開けて中に滑り込む。
そのまま上がろうとしたが、全身からしたたる雫に、さすがに躊躇した。
床を濡らしたら、あとでこっぴどく嫌味を言われるだろう。
成道はふっと吐息をついた。
構うものかという気分になった。
彼は迷いをふっきると、そのまま風呂場に直行した。
「ま、まあっ、成道ってば」
洗面所に入るところだった成道は、後ろに振り返った。
母親が、濡れた床を信じられないというように見つめている。
「ごめん、母さん。風呂から出たら俺が拭いとくから」
「そんなに降ってたの? 車庫から玄関までの距離で、こんなに濡れるなんて」
「時間たっぷり掛けたから…」
成道は皮肉な笑みを浮かべて言った。
「それにしても、いい男は濡れてもいい男ねぇ。うふっ」
成道の言葉など、頭の中を素通りしたようだ。
それどころか、全身をびしょぬれにしている自分の息子を見つめて、そんなことを言って喜んでいる母親に、成道は盛大にぶっと吹いた。
「床は拭いとくから。早くお風呂はいんなさい、成道。すぐにご飯よ」
「響、また今日も食べてくのか?」
「当たり前でしょ。響君は、私の息子よっ」
嬉しそうな母の言葉に軽い笑みを浮かべて、成道は洗面所のドアを閉めた。
服を脱ぎながら、成道はこれからのことを考えた。
風呂から出る頃には、彼の中で今回のことに結論付けがなされ、自分が出来る最良の行動を導き出していた。
「保科教授。面会の方がお見えですが」
光一郎の助手をしてくれている松山が、ドアから顔だけ覗かせてそう言った。
誰か来る予定だったかな?
そろそろ帰ろうと思っていたところだったのにと、光一郎は口をへの字に曲げた。
このところ唯の様子がおかしいのが気がかりでならなかった。
食欲も一向に出ないようで、あまり食事も取っていないようだ。
彼が男だからか、相談してくれないことが淋しかった。
子供達の母、瑠璃が生きていてくれたら…ついつい、そう考えてしまう。
光一郎の鼻先に懐かしい香りが微かに漂う。
彼は、香りのした宙に向かって、微笑んだ。
彼女はいま、ここにいる。
ひとに言ったら笑われるだろうが、彼はそれを確信していた。
「教授?」
松山にもう一度呼ばれて光一郎は現実を思い出した。
「ああ、面会だったね。お通ししてくれ。早く済ませて帰りたいから。…ところで誰なんだね?」
机の上を片付けながら話していた光一郎は、すでに松山の姿が消えているのに気づいて眉を上げた。
あの男はいつでも、最後まで人の話を聞かない。
ノックの音がして、光一郎は必要なだけの短い返事をした。
「失礼します」
背広姿の、えらく背の高い男が入ってきた。それもかなりの男前だ。
「君は?」
知り合いではないし、こんな学生がいたかなと光一郎は記憶を探った。
「初めまして、保科さん。相沢成道と言います」
「どういう用件かな? そろそろ帰りたいんだ、手早く頼むよ」
机に両手を置いて立ち上がり、光一郎は失礼に当たらない程度に、そっけなく告げた。
相沢と名乗った男は、光一郎と目を合わせて頷いた。
濁りを感じさせないまっすぐな眼差しと、口元をきりっと引き締めたその顔に、光一郎は好感を持った。
「では、用件だけ言わせて頂きます。お嬢さんの婚約を解消していただきたいんです」
光一郎は、呆気に取られた。唯の婚約者?
「唯に…君は誰なんだい?」
「お嬢さんと同じ会社に勤めてます。彼女に付き合いを申し込んだら、婚約者がいるから付き合えないと言われました。ですから、彼女の婚約を解消していただくため、こうしてお願いにあがりました」
「唯に婚約者などいないぞ。君の勘違いだろう」
「いない?本当に?」
「ああ」
光一郎は目の前の男を観察しながら、男の言った言葉を反芻していた。
婚約者がいるから付き合えないと唯に言われたと、たしかこの男は言った。だが、唯は嘘をつくような娘ではない。
「彼女が嘘をつくはずが無い」
じっと考え込んでいた男がそう呟いたとき、また、馴染みのやさしい香りが漂った。
男がふいに顔を上げた。
「何か、…とてもいい香りが…なんだろう?」
周囲を不思議そうに見回しながら男が言い、最後に「あっ」と何かに気づいたように大きな叫びを洩らした。
「駄目だ。唯はやらんぞ」
光一郎は思わずそう口走っていた。
「突然に失礼しました。保科さん、いずれ正式にご挨拶に伺います」
男はきっちりと頭を下げ、くるりと後ろを振り向くと、待て、というように片手を差し出した光一郎になど目もくれず、急ぎ足で出て行ってしまった。
「あの男、ひとの言葉を完全に無視して行ったぞ。瑠璃、どうしてあの男の肩を持つようなことをするんだ」
光一郎はむっとして宙を睨んだ。
空気が笑いで振動しているのがわかった。
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