恋は難敵
その5 唇に愛の囁き



夕方になって響がやって来てから、成道のテンションはさらにずんと落ちた。

尚には世話になったが、このふたりがペアで揃うと、彼の精神に暗雲をもたらす。

「お前ら、もう帰っていいよ。いや、頼むから、帰ってくれ」

「なによっ」

尚が当然の火を噴いた。

「そうだな。そろそろ君らのご両親も来る筈だし。行こうか、尚?」

響が苦笑して言った。

部屋を出がけに、尚がべーっと舌を出した。
尚の頭をぽんぽんと響がやさしく叩き、ふたりは出て行った。

ひとりになった成道は、苦く笑った。
姉には、嫌な役目をさせて申し訳なかったと思っているのだ。

外はそろそろ暗くなって来ていた。
窓から部屋に視線を戻した彼は、ベッドの足元に置いてある紙袋を見て眉を上げた。

尚の荷物だ。
バッグだけ持ち、紙袋の方は忘れて行ったのだろう。

まだ出て行ったばかりだから、間に合うかもしれない。
そう考えて成道はベッドからゆっくりと降りた。少し出歩けば、気晴らしになる。

紙袋を片手にエレベーターに乗り込み、一階まで降りた。
ロビーを見回したがふたりの姿はすでに無い。

少しためらったが、外の空気を吸って戻ることにして、成道はそのまま外に出た。

蒸した空気の夕暮れは、気持ち良いとは言えなかったが、それでも外気に触れるというのは気分が変わっていい。

駐車場に足を向けようとした成道は、響らしき姿を見つけて歩き寄った。
なぜか響がひとりでいる。

「響、尚は?用足しか?」

「お前、出て来ていいのか?」

「ほら、これ。尚の忘れ物だろ?」

「成道、あんた、わたしに嘘ついたわね」

暗闇からぬっと尚が現れて、成道に詰め寄ってきた。

「は?嘘、俺は嘘は…」

「保科さんのこと、わたしにわざと男だと思わせたでしょ?」

「え…な、なん…」

動揺した成道は口ごもったものの、周囲にすばやく目を走らせた。

『保科って奴が来たら、用事があるから部屋に入れて』と成道は尚に言った。
唯は来てはくれないだろうと思ったが、万が一のためにそう頼んだのだ。

保科が女性だと分かれば、尚が色々勘ぐるに決まっていると思っての、成道の苦肉の策だった。

「それでっ、彼女来てるのか!どこに?」

「彼女2時ごろ来たのよ。でも名前聞かないまま帰しちゃって」

「彼女を帰したぁ〜?」

萎びれたりんごのような腑抜けた成道の声だった。

「保科さん、それからずっとそこのベンチに座って…」

成道は血相を変え、話を最後まで聞かずに猛然とダッシュして行った。



「あいつ、大丈夫なのかしら? あばら骨」

尖らせた唇に指先を当てて尚が呟いた。
成道の走り去った暗闇を見つめていた響が、尚に視線だけ向けて言った。

「保科さんって、まだいるの? 尚」

「わかんない。わたしが声掛けたらものすごく恥ずかしそうにしてて…名前聞いたら名乗ってはくれたけど、もう帰るって…」





「保科唯! いるんだったら出て来てくれないかっ」

場所も憚らず、懇願するような成道の大声が辺りに響き渡った。

成道は、叫んでしまってから背後にいる響と尚の存在を思い出して唇を噛んだ。

全身から力が抜け、成道はしゃがみこんだ。
胸のあたりに現実的な痛みも感じた。

「だ、大丈夫ですか?」

その声と、彼の肩に置かれた柔らかな手のひらの感触に、成道は言い知れぬ安堵を感じた。
彼は肩に置かれた手を、きつく握り締めた。

「婚約者なんかいないんだ」

唯の手を固く握り締めたまま、成道は言った。
自分の愚かさが歯がゆかった。

しつこく言い寄ってくる女性に、尚のことを婚約者と思わせたのだった。
だが、そんなこと、もうずっと前のことで、彼自身はすっかり忘れていた。

「傷に障ります。病室に戻らないと」

「君が一緒に来てくれるなら、戻るよ」

成道は胸を押さえて立ち上がった。

「あの、少し痛いです」

唯に遠慮がちにそう言われて、成道は唯の手首を掴んでいる手を少しだけ弛めた。

「どうしてこんなところにいたの?どうせならロビーにいたら涼しかったのに」

唯が2時からずっとここにいたという事実から導かれる結論は、ひとつしかない。
彼女も、成道がそれと気づいているとわかっているはずだ。

俯いて黙り込んでいた唯が、「別に、理由は…なくて」と小さな声で言いにくそうに言った。

成道は、このほの暗さが歯痒かった。
唯のいまの表情を、はっきりとこの眼で捉えたいのに…

「成道?彼女いたのぉ?」

少し遠くの方で尚の声がした。

「お前、いい加減、病室に戻ったほうが良くないか?」と響が続けて言った。

「これから戻るとこだ。お前ら、そろそろ帰れ」

響と尚に傍に来て欲しくなくて、成道は後方に向かって叫んだ。

成道は自分でもあんまりな言い方だと思った。だが、どうしようもない照れがそう言わせる。

「あんたねぇ。あっ、彼女まだいたのね」

近づいて来た尚が、唯に気づいてそう叫ぶと傍に駆け寄って来た。
成道は顔をしかめた。

「あ、はい」

そう返事をした唯が、成道に掴まれた手を引き抜こうとした。だが、成道はそれを許さなかった。

「ねぇ、成道なんかやめといたら。悪いこと言わないから」

成道は尚をぎろりと睨んだ。

「はいはい。邪魔者は消えろって言いたいんでしょ?彼女、大切にしなさいよ」と尚は言い、「あんたにはもったいなすぎるけど」と締めくくった。

「余計なお世話だ」

成道はぶつぶつと呟いた。

「それにしても、成道の病室の窓が見えるからってだけで、こんな蒸し暑いところにずーっと座ってるなんて、あんまり健気でわたし涙が出ちゃったわ」

成道の心臓がどくんと跳ね、ついで胸に痛みが走った。

「い、言ってません。そんなこと」

唯が目を丸くして驚き、ぶるぶると首を振った。

「言わなくても分かるわよ」

唯の眼が成道を捉え、恥ずかしさに耐え切れなくなったかのように、唯は両手で顔を隠した。

暴走を始めた鼓動。

胸の傷の痛みなど超越した、これまで感じたことのないくらいの喜びが成道の胸を満たした。

成道は唯の手首を解放すると、改めて、依然顔を覆っている彼女をそっと両腕に包み込んだ。

「響君、帰ろうか?」

「尚、またぁ」

「あ、ごめんなさい」

響と尚の甘すぎる会話が、空気と同じ薄い存在として成道の脳裏を素通りして行く。

信じられないほど飛躍した至福を感じた。
天にも昇る心地というのはこういうのをさすのだろうと成道は悟った。

彼女を抱きしめている現実を、もっと深く感じたくて、成道は唯を抱いている腕にさらに力を込めた。

唯の狂ったような激しい動悸が彼の胸に伝わってくる。

突然、彼女が成道の腕から逃れようとしてもがいた。

「どうして?」

いくぶん責めるように成道は言った。

「わ、わたし、汗いっぱいかいてしまってて…だから、その…汗臭いから」

羞恥を含んだ泣きそうな唯の声だった。
成道は笑いが込み上げそうになって、ぐっと押さえ込んだ。

「愛してるんだ。そばにいて欲しい」

成道は、唯の耳にそっと囁いた。
また懇願するような言い方になってしまった。けれど、少しも気にならなかった。

「わ、わたしも…」

しゃくりあげるような唯の言葉を、成道は唇で受け止めた。

音にならなかった「愛してる」という言葉は、成道の心に直接届いた。




End




  
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