ナチュラルキス
natural kiss

St. Valentine's Day編
その2 爆弾発言



「男子生徒が隠れて吸ってたのかな?」

教室のある棟に入り、廊下を歩きながら詩織が言った。

「そうかもしんないけど…先生じゃないのかな?」

千里が考え考え口にした。

その言葉に、沙帆子はどきりとした。先ほどの場所は…?

「もしかすると、佐原先生だったりして。化学室、あのあたりじゃなかったっけ?そうだったんならわたし、全部煙吸い込んで良かったかもぉ」

「この彼氏持ちがっ、何言ってんだか」

詩織は千里にパシンと背中を叩かれた。

「い、いたいって。だってぇ、佐原先生、超カッコいいじゃん。あの先生に告られたらぁ…。ってあるわけないね」

突然、夢から醒めたように、詩織は現実的に言った。
沙帆子の胸が、小さくしぼんだ。

「佐原先生ねぇ」

くすくす笑いながら千里が言った。そして続けた。

「あの先生じゃ、大人すぎるよね。あの冷静…というより、冷淡な雰囲気?」

千里は詩織に、同意を得るように振り向いた。

「でもさ、佐原先生、たまに微かに笑む時あるじゃん。ありゃ、乙女心には犯罪だと思うよ」

沙帆子は、詩織が表現したままの佐原の笑みを思い出した。

胸の中で沙帆子の恋心が、きゅーんと切なく鳴き声をあげた。

「学校の先生なんかやらずに、モデルにでもなればいいのに。よっぽど稼げるよね」

沙帆子は胸のうちでため息をついた。

佐原啓史(さはら けいし)は、化学の教諭だ。
そして沙帆子たちのクラスの副担任でもある。

物凄く背の高い先生で、それほど背が高くない沙帆子の背は、佐原の肩ほどもない。

沙帆子は、その高嶺の花に、実るわけもない恋をしている。

おまけに佐原は、彼女にとって天敵とも言える、煙草を吸う。

「それじゃあさあ、放課後、バレンタインチョコ買いに行こうね」

詩織の念を押すような言葉に、沙帆子は慌てた。

「えっ。あのわたし」

「シャレよシャレ。淡々と生活してたって、何の波もなくてつまんないじゃん。人生は、自分で色をつけて楽しくするべきなのよ」

沙帆子は、本人を抜きにして楽しげに語らっている友に疲れた目を向けた。

これまでも、このふたりのパワーに押されて、散々な目にあっている。

まあ、そのドタバタも、楽しかったりするのだが…

沙帆子は諦めを感じつつ、盛り上がっているふたりを見つめ、笑みを浮かべた。





家に帰った沙帆子は、自分の部屋に入ると、鞄を所定の位置に置き、小さくて派手な紙袋を机の上に置いた。

着替えを先にすべきだが、なんだか疲れを感じてそのままベッドに腰掛けた。

紙袋の中には、千里と詩織に勧められて買ったチョコの箱がある。

ふたりに乗せられるまま、チョコを買ったけれど…
本当に、広澤に渡すことになるのだろうか?

沙帆子は肩を落とし、後ろにパタンと倒れて、天井を見上げた。

佐原先生…

この実るはずのない恋は…手放した方がいいのだ…
沙帆子はただの生徒で、佐原は教師…相手にされるはずがない。

なにより、あの大人な佐原に、恋人がいないはずはないし…

沙帆子の胸が痛んだ。
信じられないことに、涙まで湧きあがってくる…

彼女はぎゅっと目を閉じた。

広澤にチョコを渡して、付き合ったりすれば…佐原を忘れられるだろうか?

詩織の場合のように、彼と付き合い始めたら、広澤に対する恋心が生まれるかもしれない…

遠くの親戚より近くの他人というではないか…

それに広澤のことは嫌いじゃない。
見た目の良さだけじゃなく、彼は性格も良い。

むしろ好感が持てる。

ならば、期待出来るのではないだろうか?

佐原のことを忘れられれば…この辛い恋心も薄れるかもしれない。

沙帆子はぱちりと目を開けると、ベッドから起き上がって着替えを始めた。

広澤にチョコをあげよう。そう決めた。





「実は、引っ越すことになった」

両親とともに夕食を食べているところに、その爆弾発言は落ちた。

「えっ?う、嘘っ」

目玉が飛び出しそうなほど驚いた沙帆子は、椅子に座ったまま固まった。

「それが本当なんだ。観光地で賑やかなところだぞ。いい源泉の温泉もあるらしいし。休日は、気軽にあちこち遊びに行けるぞ」

父は気楽そうに、それも楽しげに語った。
隣に座っている母も目もキラキラと輝かせている。

「ちょっと待って、パパ。源泉の温泉で観光地って、それって遠いの?」

「そうだな。ここからだと、高速で2時間以上かかるかな?」

「わ、わたしは?わたしは此処にいていいんでしょう?」

母親が、沙帆子の言い分に、呆れたように首を振った。

「いいわけないじゃない。このアパートは引き払うわよ。もち、沙帆子も、私たちと一緒に行くのよ」

「だって、私、高校…」

「心配するな。あっちにも高校くらいあるさ」

「だって、高校って、そう簡単に転校出来ないよ」

「出来るさ。なあ、芙美子ちゃん」

「世の中、不可能なことなんてないわよ」

母のいつもの決まり文句に、沙帆子は苛立ちを感じた。
可能とか不可能の問題ではない。

「彼氏がいるとかいうなら、引き離すのも可哀想だけど…沙帆子、そういうひと、いた?」

母は娘を見つめ、小バカにしようにふっと笑った。

沙帆子はぐっと詰まった。またその話か…

「わたしなんて、沙帆子の歳には、もう幸弘さんと付き合ってたのに。ねっ、幸弘さん?」

沙帆子の母は、自分の隣に腰掛けている父の腕に手を触れて、にっこり笑って見上げた。

父が嬉しげに母の顔を見つめ返した。

ゲロッ

沙帆子は両親の、日常的な目も当てられないいちゃつきように、胸のうちで呻いた。

「あの頃の、芙美子ちゃんは、初々しくて可愛かったなぁ」

父のにやけた顔…見上げる母の潤んだ瞳…

このふたり、いつものように、ふたりの世界に入ってしまったようだった。
いまや、両親の意識に娘はいまい。

「やーだぁ。もう、幸弘さんってばぁ」

「いいだろ。僕ら、夫婦なんだから」

「ねぇ、幸弘さん。温泉って夫婦一緒に入れるところもあるのかしらぁ?」

横目で盗み見ると、母は父の手の甲に、くるくるとのの字を描いている。

ゲハッ

沙帆子は世間様への恥ずかしさに囚われ、顔を赤くして目を逸らした。

「そりゃああると思うよ。そうだ、芙美子ちゃん、ネットで検索してみようか?」

「賛成ー」

両親は立ち上がり、手を繋いで食卓を離れてゆく。

「ママ、ここの片付けは?」

「沙帆子、やっといて。その代わり、貴方の高校も、ちゃーんと探しといて、あ・げ・る・か・らぁ」

まるで恩を着せるように言われて、沙帆子はむっとした。

「引越し先の家も、探さないといけないな」

「幸弘さん、それはやっぱり、実際に行って探さないとダメよ」

「そうだな。それじゃ、今度の土日にふたりで行って来ようか?」

ふたりで…?

「賛成ー」

母が明るく叫び、ふたりは笑い声を合わせながらいなくなった。

「わ、わたしは?」

沙帆子は、両親に向けて伸ばした手を、ゆっくりと下ろした。
そして何かに縋るように、天井を見つめた。

「わたしって、可哀想すぎないかぁ?」

答える声はなく、沙帆子の言葉は、虚しく部屋に響いた。

引越し…沙帆子の胸がつぶれた。

佐原先生の姿…もう二度と見られなくなる…会えなくなるのだ…

「うくーっ」

沙帆子は絶望に唇をゆがめ、湧き上がる涙を拭った。




   
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