ナチュラルキス
natural kiss

St. Valentine's Day編
その3 行き先を失くしたチョコ



バレンタインデーを迎えたその日、天気も上々で、学園の雰囲気は桃色の風が吹いているかのように、甘いチョコの香りが漂っていた。

だが、沙帆子の心は鉛のように重かった。

「沙帆、おはよう」

教室の中に入ると、千里が手を上げて沙帆子を呼んだ。

一緒に詩織もいて、沙帆子が二人の前に行くと、潜めた声ながら勢いよく話を切り出してきた。

「ちゃんと持って来た?昼休みに渡す?それとも、放課後?」

「え…あ…うん」

「もうっ、そんな風に臆病でどうするの?」

詩織が叱るように言った。

ここ数日、なぜ沙帆子が元気がないのか、本当のところを知らないのだから仕方がない。

沙帆子は、重い口を開いてふたりに引越しのことを話そうとした。
けれど、声が喉に引っかかったようで、どうしても出てこない。

「いまから緊張してどうするのよ。はいはい、リラックスリラックス」

「う、うん」

沙帆子は、しょうがなく笑みを浮かべた。





昼休み、チョコがあちらへこちらへと行き交っているのを尻目に、沙帆子はお弁当を食べたあと、ひとりで生徒会室に向かっていた。

そこに広澤はいるはずだと、千里が言ったのだ。

千里と詩織はチョコを持ち、それぞれの彼氏に会いに行った。
沙帆子も渡しにゆけと、強制されて教室を送り出された。

広澤にチョコを渡すと一度は決めたものの、沙帆子は迷っていた。

哀しみが胸を刺し、もうどうでもなれという破れかぶれの気持ちにもなる。

沙帆子は、廊下の分かれ道でぴたりと立ち止まった。

左に曲がると生徒会室へと続く階段。
右に曲がると化学室…

どうせ引っ越すのだし、思い切って佐原にこのチョコを…

沙帆子は自分の本能に操られるようにして、右へと曲がった。

佐原はいるだろうか?

チョコを持った女生徒や女性教諭に、囲まれているのではないだろうか?

その想像は半分当たっていた。

化学室の隣にある佐原専用の部屋の前には、たくさんの女生徒が集まっていた。

だが、佐原自身の姿は見えなかった。
どうやら、佐原が戻ってくるのを、みんなして待っているようだ。

彼女自身は、とてもその中に交じる勇気はない。

沙帆子は回れ右をし、もと来た場所へと戻り、階段を見上げてため息をついてから、足を踏み出した。

3階まで意気消沈しながら階段を上り、彼女は生徒会室へと向かって歩いた。

生徒会室のドアは開けっばなしになっていた。
ドアに近づくと、中から小さな笑い声を含んだ楽しげな話し声が聞こえた。

「好み似てるね」

広澤の声だ。

「ほんと、びっくり。よければ今度、CD持って来ましょうか?」

「嬉しいな。頼むよ。それにしても、用事で顔出したばっかりに、僕の仕事の手伝いさせてしまって、申し訳なかったな」

沙帆子はそっと中を窺おうと、開いたドアへと首を伸ばした
女生徒が一緒にいるのでは、目的が目的だけに、中に入りづらい。

「いいんです。あ…あの広澤先輩」

「何?」

「これ。もらってくださいませんか?」

必死な声…

窓際でチョコを差し出している女生徒が見えた。
彼女は、驚きに息を止めた。

手渡したのは…震える声からして、間違いなく本気のチョコ…

「あ…」

広澤の驚いた声…

だが、それでも彼は手を差し出し、そのチョコを受け取った。

「どうもありがとう。受け取らせて…」

「せ、先輩っ。嬉しい」

「えっ」

その声と同時に発したぼすっという音…女の子が広澤に抱きついたのだ。

沙帆子は、すぐさま首を引っ込め、回れ右をして、その場から離れた。

どうやら、沙帆子のチョコの行く先は、なくなってしまったようだった。

なんとなく虚しさは感じたが、これで良かったのだと思えた。

広澤がチョコを受け取ったことに、沙帆子の胸は痛まなかったのだから…

チョコを手渡したことで、詩織の言うように、恋へと発展したかもしれない…
だが、その可能性は消えてしまった。

もし、チョコを受け取るところを目撃したのが佐原だったら…
彼女の胸は、つぶれそうに痛んだだろう。

沙帆子はチョコをポケットに入れたまま教室に戻った。

5時間目は化学だった。

沙帆子は、なかなか戻ってこない詩織を、千里と待っていたため、時間を過ぎてから化学室に入った。

「遅れてすみません」

「飯沢、江藤…それと榎原、遅刻だ。早く席に着け」

冷ややかな佐原の声に、沙帆子は心を冷やしつつ自分の席に着いた。

すぐに授業が始まった。

白衣を着た佐原…彼の低い声が、教室内に響く。

少し伸びすぎた前髪…前髪に隠れた瞳…きゅっと引き締めた口元…
そして、白衣の左のポケットに突っ込まれた手…

白衣の前がはだけて、すらりと伸びた長い脚が見え隠れする。

胸が苦しくなった。

もうすぐこの声も聞けなくなるし…顔も姿も見られなくなるのだ。

彼はいったい、いくつチョコを貰ったのだろう?
恋人からは、どんなチョコとプレゼントを貰うのだろう?

見も知らぬ佐原の恋人の影が、沙帆子を苦しめる。

「榎原さん?」

右側に座っている男子生徒から声を掛けられ、沙帆子は顔をあげた。

「君、顔色悪いぞ。気分悪いんじゃね?」

「あ。うん」

確かに気分が悪かった。

たぶん、この最近ろくに眠っていないせいだ。
それに、精神的打撃が加味されたせいだろう…

「大丈夫か?榎原」

佐原の声に、沙帆子はぎょっとして顔を上げた。
大きな手のひらが伸びてきて、沙帆子の額を覆った。

沙帆子は声を失くした。

「冷たいな。貧血かもしれない。保健室に行った方が…」

「先生、保健室に行っても、たぶんベッド空いてませんよ」

ちゃかすように男子生徒が言った。

「どうして分かる?」

「先生、保健室の実態知らないんですか?」

「実態?」

「気分が悪くなるやつって、この時間、すっげえ多いんですよ」

「仮病ってことか?そんなやつら、追い出せばいいことだろ?」

「だって先生、そんなの見分けられないっしょ?」

「わ、わたし、大丈夫です」

沙帆子はしゃんと背筋を伸ばし、自分に注目している視線を見返した。

離れた場所に座っている千里と詩織が、心配そうに見つめてくる。
沙帆子はふたりに向けて、大丈夫という意味を込めて、小さく頷いて見せた。

額が確かに冷たい。
手で触れると、なんだか嫌な汗が出ているようだ。

「大丈夫そうには見えないぞ。それなら、こっちで休め」

佐原が腕を伸ばして来て、沙帆子は彼に抱えられるようにして立っていた。

ヒューヒューという、こういう場につき物の冷やかしの声があがった。

沙帆子は、化学室の隣にある佐原専用の部屋に連れてゆかれた。

「先生、あの、すみません」

「具合が悪いんだから、仕方がないだろう。ほら、気分が良くなるまで、このソファで寝てろ。保健室のベッドより、居心地は良くないだろうけどな」

そっけない言葉だった。
迷惑を掛けられて、うっとおしいと感じているのだろうか?

沙帆子は唇を噛み締めた。

佐原の部屋は、少し煙草の匂いがした。
けれど、意外なほど匂わない。

身体に何かが掛けられたのに気づいて、沙帆子は目を開けた。

佐原の白衣だった。

「先生、ごめんなさい」

「授業に行く」

きびきびした声に、沙帆子は頷き、佐原の白衣の中に顔を埋めた。

佐原が出てゆき、彼女は目を閉じた。
煙草だけではない、佐原特有の爽やかな香りがする。

部屋は適度な温度でエアコンが入っているらしく、ほかほかと温かかった。

睡眠不足と具合の悪さが混ざり合い、沙帆子は次第に眠りへと吸い込まれた。

佐原の白衣に包まれている、幸せな自分を噛み締めながら…


   
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