ナチュラルキス
natural kiss

St. Valentine's Day編
その4 冷たい手のひら



眠りの中に、コンコンという音が響いた。
沙帆子はうっすら目を開けた。

目の前に佐原の顔があり、一瞬にして沙帆子の目が覚めた。

「あ…」

小さな声を上げた途端、佐原の手で口を塞がれた。

沙帆子はびっくりして目を見開いた。

またコンコンという音がした。

佐原が口に指を当てた。

口をきくなということらしい。

ノックの音はもうしなくなった。
佐原は足音をしのばせながらドアに近づき、耳を寄せた。

佐原が静かに戻ってきた。

「どうやら行ったらしい」

囁くような声で佐原が言った。

「どうしたんですか?」

沙帆子も囁きで問いを返した。

「いや。…訪問者が多くてね」

訪問者?

遅れて佐原の言葉の意味を理解した。

訪問者とは、チョコを携えてくる女生徒のことなのではないだろうか?

「気分は良くなったか?」

「はい。なんとか。すみませんでした。あの授業は?」

「もう終わってる。すでに放課後だ」

「え。そ、そうなんですか?」

「今日は、親に迎えに来てもらえ」

それは無理だ…

「両親は今日、…あの、デートで…」

沙帆子は、仕方なく白状した。

父と母は今日、バレンタインデーで、ふたりきりのディナーを楽しむことになっている。

この時間だと、母はとびきりのおしゃれをして、父の会社近くの待ち合わせの場所に向かっているはずだ。

「デート?」

ひどく意外そうな声に、沙帆子はなんとなく立場がなくて顔を歪めた。

「はい。すみません」

クックッという笑い声を耳にして、沙帆子は佐原に顔を向けた。

顔を歪めて、おかしそうに笑っている。

「すまない。君の両親は、仲がいいんだな」

「はい。良すぎて困ってます」

沙帆子は萎れて言った。

「いいじゃないか。仲が悪いよりは」

「そうですね」

「コーヒーでも飲むか?」

「え?あ…はい。それじゃ、あの、い、いただきます」

「うん」

佐原は真っ白なマグカップを二つだし、インスタントのコーヒーの粉を入れて、電気ポットからお湯を注いだ。

「ブラックでいいか?」

「お砂糖、ないんですか?」

「案外贅沢言うな。そんなものはここにはない」

「そ、それじゃ、…ブラックでもいいです」

「不承不承って感じだな。飲まなくてもいいぞ」

「いえ。いただきます。せっかく入れていただいたし…。ここはひとつ、挑戦してみます」

挑戦の言葉がウケたらしい。
佐原がまたクックッと笑った。

沙帆子に笑ってくれている。
胸がジーンとした。

彼女は、差し出されたコーヒーカップを受け取り、沙帆子の隣に座ってコーヒーカップを口に運ぶ佐原を、そっと見つめた。

す、素敵過ぎる…

胸がキューンと縮んだ。
このままでは、心臓が止まるかも…

これはもう、恋しい人から無理やり引き離され、親の犠牲となって引っ越さねばならない、哀れな彼女に対する、神様の最後の思いやりというやつなのかもしれない。

ジーンジーンと胸に響く感覚に気を取られ、沙帆子は手にしたコーヒーカップを無意識に口に運んだ。

「にがっ」

味覚は正直だった。恋心になど感化されない。

「苦いか」

またクックッと佐原が笑った。

胸キュンな笑みに、沙帆子は苦みを実感しつつ、甘く頬を染めた。

恋しいひとと、ふたりきりでコーヒーを啜りながら、ソファに並んでいる、夢のようなシチュエーション。

嬉しさに涙がこぼれそうだった。

彼女は間を持たせるために、苦味を無視して、コーヒーを啜っていたが、ポケットの中に入っているチョコの箱の存在を思い出した。

このチョコを食べながらなら、コーヒーの苦さが緩和されて、美味しいかもしれない。

沙帆子は、ポケットからチョコの箱を取り出した。

「くれるのか?」

「はい?」

彼女は何を言われたのか分からなかった。

「もらっとく」

沙帆子のチョコの箱は、佐原の手にあった。

彼女が言葉もなく見つめている間に、チョコは佐原の白衣のポケットにしまわれた。

コーヒーの苦味避けに、そのチョコを食べようと思ったんですけどぉ…

沙帆子は心の中で佐原に言った。

なんでか行き場を失くしていたチョコは、受け取って欲しかった佐原に渡ってしまった。

呆然としている沙帆子を尻目に、佐原はもくもくとコーヒーを飲んでいる。

いま、チョコ…先生受け取ったよね?

わたしが、先生にチョコを渡そうとしたんだと思ったのかな?

彼女のことを可哀想に思ったのだろうか?
それですんなり受け取ってくれたのだろうか?

つ、つまり…私の恋心は…先生に知られてしまったということ?

沙帆子はぎょっとし、口の中のコーヒーをごくりと飲み込んだ。
苦味はすっかり飛んでいた。

「無理しなくて良いぞ」

「え?」

「今度は顔が赤いな。熱でも出てきたんじゃないのか?」

佐原の手のひらが、沙帆子の額をやさしく覆った。

手のひらは冷たく気持ち良かったが、彼女の心臓は、破裂しそうなほど胸の中で暴れまわっていた。

「おい。榎原、お前、大丈夫か?」

「違うんです。いや、違わないけど…違うんです」

「はあ?」

佐原に怪訝な眼差しを向けられ、沙帆子はしゅるしゅると萎んだ。




   
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