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その6 ありがたい申し出
「おい。榎原、お前の携帯じゃないのか?鳴ってるの」
「えっ」
沙帆子は手に握っていたコントローラーを手放して、鞄のところにすっ飛んでいった。
『ハウス』の文字!
い、家からだ。
沙帆子は心の中で悲鳴をあげた。
いくぶん腰が抜け気味に、床にぺたんと座り込んだ彼女は、急き込むように携帯に出た。
「は、はいっ」
『沙帆ちゃん。あなた、こんな時間まで、いったいどこにいるの?』
叱るような声で言われ、沙帆子は驚いた。
「え。えっと?」
彼女は時計を探して部屋を見回したが、時計が見当たらない。
「佐原先生、いま何時なんですか?」
「9時…過ぎてるな」
「ええーっ」
沙帆子は驚いて叫んだ。
時間を口にした佐原自身、驚いているようだった。
どうやら、ふたりしてゲームに熱中しすぎたらしい。
『沙帆子、いったい?…あなた、佐原先生って、どういうことなのよっ!』
母親の声が頭のてっぺんで、キーンと響いた。
沙帆子は、頭のてっぺんに穴が開いたような気がして、空いている手のひらで押さえた。
「そ、それが先生のところでご飯食べて…パパとママ、遅くなるって思って、テレビゲームしてたら、知らないうちに時間が過ぎててぇ…」
沙帆子は半泣きで答えた。
自分が何を言ってるのかも分からないくらい、頭の中はごちゃごちゃになっていた。
「榎原、貸せ」
しどろもどろになっている沙帆子から、佐原は携帯をもぎ取り耳に当てた。
彼は沙帆子の隣に、膝立ちになって背筋を伸ばした。
「はじめまして。佐原啓史と申します。お嬢さんの副担任ですが」
沙帆子は、佐原の手を両手で掴み、携帯にぎゅっと耳を当てた。
『まああぁっ、おっどろいちゃったわぁ。そーうだったのぉ?知らなかったわぁ』
なんとか聞こえた。
母親の後ろで、父親が派手に喚いている声が聞こえる。が、何を言っているのか分からない。
しかし…知らなかったって?…どういう意味なのだ?
沙帆子は、もっと聞こえるように、さらにぎゅっと耳を押し当てた。
「これからお宅にお連れしますので、ご心配なさらずに…」
『びっくりしちゃいましたけど、そうだったのね…』
佐原が携帯から沙帆子を引き離そうとする。
「お、おい」
彼女は必死に抗い、携帯に取り縋った。
「そんな風にぶら下がってくるな、重いぞ。後で話すから」
叱るように言われて、沙帆子は唇を突き出した。
「だ、だってぇ…」
『何、揉めてるのよ?』
母の明るい笑い声が聞こえ、沙帆子と佐原はピタリと諍いを止めた。
『だーから、沙帆子ってば、ここんところまったくぜんぜん元気なかったのねぇ。ならそうと、言ってくれればいいのにぃ…。幸弘さん、う・る・さ・いっ』
沙帆子は眉を寄せて、佐原と目を合わせた。
引越しのことで、娘の元気がないのは、すでに知っていたはずなのだが?
「あの…ママ?」
沙帆子は母親に問い掛けた。
だが母は、沙帆子には答えなかった。
『それじゃ、佐原さん』
「はあ」
『娘を早く送ってきてくださいね。お待ちしてますぅ』
母の後ろで相変わらず父の喚きが聞こえるなか、携帯は切れた。
眉をしかめて携帯に耳を当てていた沙帆子は、佐原とまた目を合わせ、いまさらそのあまりの近さにぎょっとして目を剥いた。
頬と頬が、ほとんどくっついているような状態だ。
彼の腕をぎゅっと掴んでいる自分の手に驚き、彼女はパッと離した。
「す、すみません。母が何言ってるのか、知りたくて…つ、つい」
「送ってく」
佐原がすっと立ち上がった。
ふたりの距離が離れ、佐原の冷たいような表情に、沙帆子は自分の立場を思いしり、ひどく恐縮した気持ちに囚われた。
「はい。ご迷惑掛けて、本当にすみません」
沙帆子は、すごすごと佐原の後に続いて、マンションの部屋を後にした。
「榎原」
車で走りながら佐原が話掛けてきた。
「はい」
「お前、残りたいんだろう?」
「あ…はい。それはもう」
「一人暮らしになっていいのか?お前、ひとりきりで生活することになるんだぞ」
「転校するよりいいです」
「そうか」
佐原は何を考えているのか、しばらく黙り込んだ。
「俺が、君の両親を説得してみよう。なんとか残してくださるように…」
沙帆子は目を丸くして、佐原の横顔をまじまじと見つめた。
そんなありがたすぎる申し出を、佐原がしてくれるだなんて…
「ほ、本当ですか?佐原先生が説得してくださったら、許してもらえるかも」
「その代わり、これが成功したら、榎原お前、俺に借りが出来るぞ」
「借り、ですか?」
「ああ」
沙帆子は、佐原の横顔に向けて大きく頷いた。
「わたし、なんでもやります」
「その言葉、忘れるなよ」
佐原が、くっと笑った。
なんだか背筋に寒気が走るような、悪魔的な笑みだった。
「あ、あのぉ…」
「家の方向、早め早めに教えろよ、榎原」
「あ。はい。もう少し行くと大きな交差点があるので、そこを左です」
「了解」
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