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その7 夢の中の現実
遅くなったことに対して、多少なりと小言を食らうと思っていたのだが、さすがに副担任の佐原が一緒だからか、顔を見てすぐ叱られることはなかった。
「佐原啓史です。初めまして」
佐原は沙帆子の父と母を前にして、教師らしく礼儀正しく頭を下げた。
幾分父が、ふくれっ面気味に、頭を小さく下げて応えた。
沙帆子はため息をついた。
佐原よりもかなり年上なのに…
父には、歳相応の貫禄というものが、欠如しているように思えてならない。
「すみません。私がついていながら…お嬢さんをお返しするのが遅くなってしまって」
「いえいえ。紅茶でよろしいかしら。すぐに入れてきますからね。幸弘さん、ちゃんと、佐原さんのお相手していてね」
「わかってるよ。芙美子ちゃん」
母の名前をチャン付けで父が口にした途端、佐原が少し身動きした。
沙帆子は、佐原に顔を向けた。
なぜか苦いものを飲み込んだかのように、佐原は顔をしかめている。
どうしたんですか?
沙帆子は無言で問い掛けた。
佐原が微かに首を横に振ったように見えた。
「それで…その…いつからの付き合いなんだね」
付き合い?
沙帆子が質問の意味が分からずにいる間、沈黙が続いた。
「付き合いって?」
彼女は父に聞き返した。
「だから、佐原君はいつから」
「ああ。去年の4月からよ。先生は、いま23歳なの」
「そ、そうか。4月から…もうすぐ一年になるんだな」
「はい。それなりに体験して、経験を積みましたが…まだこれからです」
「うおっ」
変な叫びをあげた父は、なぜかのけぞる様に身を引いた。
「そ、そうか」
取り繕うように言う言葉も、しどろもどろだ。
「はい、お待たせぇ。紅茶、どうぞぉ」
明るい抑揚をつけて、母はみなの前にティーカップを置いてゆく。
「実は、お願いがあるのですが」
佐原が姿勢を改めてそう言った途端、なぜか父は、片腕で防御の姿勢をとり、「ひっ」と叫んだ。
「幸弘さんってば。だめねぇ。こういうときは、父親として、もっとしっかりしてくれなくちゃ」
幸弘は芙美子の小言を食らって、小さく肩をすぼめて赤くなった。
「芙美子ちゃん、ごめん」
「さあさあ、佐原さん、お話、続けてちょうだい」
「あ。はい」
佐原は父と母に視線を向け、話を切り出した。
「彼女の引越しのことを聞きました。ですが、高校もあと一年のことです。なんとか彼女を、このまままこちらにいさせていただけないものかと思いまして」
佐原は、沙帆子に視線を向け、互いの意志を疎通させるように頷いた。
沙帆子もそれに応えるように、佐原に頷きを返した。
「彼女も、それを望んでいますし。ぜひとも、お願いしたいのですが」
母は沙帆子に視線を向けてきた。
「沙帆子、真剣な気持ちなのね?」
「は、はい」
「生半可な気持ちじゃないわね?」
「はい」
「後で泣き言言っても、聞きませんからね。それくらい覚悟を持ってちょうだい。いい?」
「もちろん。わたし、絶対泣き言なんか言わない。ちゃんとやってゆける自信あるもの」
「そ。分かったわ。幸弘さん、聞いたわね、沙帆子の覚悟」
「あ、ああ。聞いたよ」
しょぼくれた幸弘が、仕方なさそうに言った。
「それじゃあ、佐原さん」
「はい」
「条件がひとつあるの。その条件を飲んでいただけない限り、この話はなかったことにさせていただくわ」
「条件?いったいなんですか?」
「娘はまだ高校二年生なんです。きっちりと届けを出していただかないことには、やはり、親として許すわけにはいかないわ。それはわかっていただけるでしょう?」
「届け?ですか」
珍しく戸惑ったように佐原が言った。
沙帆子も、届けとは、なんのことやらわからない。
「ええ。許婚でも、まあいいんだけど。若気のいたりで、子どもができちゃったりするとねぇ。出来ちゃったから、仕方なく結婚してもらったなんて状況、女親のわたしとしては、すっごい嫌なわけ」
沙帆子は首をちょっぴり捻りかげんで、母の言葉を理解しようと努めた。
若気のいたり?いやその前に…許婚?できちゃった?
仕方なく…
「け、結婚?」
沙帆子は引きつった叫びをあげた。
「もちろんよ。一緒に暮らすんなら、世間様にちゃんと通用するようにしておかないと」
「ママ、ちょっと待って。なんか大きな、大きな勘…」
母親にこの誤解を解くべく必死で言葉を並べていた沙帆子は、ぐいっと襟首を掴まれて、佐原の方へ引き戻された。
襟首を絞められて、喉が詰まった沙帆子はゴホゴホと咳き込んだ。
「な、なにを」
「わかりました。おっしゃるとおりだと思います」
佐原が頷いて言った。
芙美子が笑みを見せて頷き返した。
「分かっていただけると思ったわ。娘との関係をこれでチャラにするなんておっしゃってたら…。ここから無事では帰れなかったわよ、貴方」
「ママ、何言ってるの?」
「脅してるわけじゃないわよ。佐原さんには、大人として、すべてをきちんとしていただきたいだけ。やることやっといて、いまさら逃げようだなんてねぇ、佐原さん」
やることをやっといて?ってのは…いったいなんのことなのだ?
なのに佐原は、芙美子の言葉のすべてを、理解しているらしかった。
「おっしゃるとおりです。それで、私は今後どうすれば?」
「そうね。私たちの引越しは3月の半ばになると思うの。それまでに婚姻届を出して…披露宴はまあ、先でも良いけど…それらしい式は挙げましょう。ウエディングドレスは私のでいい?沙帆子」
話しをふられても、呆然としていた沙帆子は、何も返せなかった。
「いいんじゃないでしょうか。それで」
代わりに、佐原が答えた。
「貴方のは、貸衣装を頼む必要があるわね。それなりにちゃんとして欲しいし。ね、幸弘さん、この近辺の教会が空いてないか、ネットで探してみて頂戴」
「ああ。分かった」
ふてくされたように幸弘が返事をした。
「あ、あのっ」
話に割り込もうとした沙帆子は、誰にも相手にしてもらえなかった。
「この子の荷物は、いつ運べば良いかしら、佐原さん?」
「私の方は学校が休みであれば、いつでも構いません」
「そう。じゃあ、日柄のいい日にってことで」
「あ、あのっ」
必死の呼びかけは、また空振りに終わった。
「よろしくお願いします。それでは、明日も仕事ですし、彼女も学校がありますから。詳しい話はまた今度ということで、そろそろお暇しようと思いますが」
「ええ。そうね」
「では」
佐原が立ち上がった。
帰るために立ち上がった佐原に気づかないくらい、呆然としていた沙帆子は、彼に肩を叩かれて我に返った。
「え?」
「沙帆子、玄関まで、俺を見送ってくれないのか?」
「え?」
なぜ、呼び捨て…?
佐原をポカンとして見上げた沙帆子は、彼の腕で力任せに立ち上がらせられていた。
彼女はギコギコと音がしそうなほどぎくしゃくした動作で、佐原について玄関に向かった。
「しっかりしろ。お前、大丈夫か?榎原」
「あ…あの。いったいぜんたい…いま、どういうことに?」
「結婚することになったみたいだな」
「結婚…」
沙帆子は、ぼうっとしつつ口にした。
「まあ。これで、転校せずに済んだな」
「せ、先生。そういう問題じゃ」
「しっ。騒ぐな。変に思われるだろう」
へ、変って、変って…?
「で、でも。先生。母は本気ですよ。あれ、冗談とかじゃ、きっとないんですよ」
「だろうな」
「だろうなって…いいんですか?いいんですか?本気の結婚なんですよ、この私なんかと…」
「お前、料理出来るか?」
「へっ?…で、出来ますけど…それが…」
「榎原、お前。俺との結婚に、なんか文句があるってのか?」
脅すように佐原が迫ってきた。沙帆子は恐れて身を引いた。
「チョコくれたよな。俺のこと好きなんだろ?」
「それは…それは…」
「まさかと思うが…お前、この俺を、からかったってのか?」
佐原が、じろりとねめつけてきた。
脅しの含まれた凄みのある顔に、沙帆子は泡を吹いてパクパクと口を開け閉めした。
「あ、あれは…もちろん佐原先生に、あ、あ、あげるつもりで…」
沙帆子は顔を歪めて答えた。
頭の中が、3度くらい爆発したような気分だった。
本当の現実が、その爆発で破裂したとしか思えない。
とすれば、沙帆子はいま、どこにいるのだ?
夢の中?
なんとなくそれがしっくりくるような気がしてきた。
彼女は眠っているのだ。これは夢の中の出来事。そうに違いない。
「ならなんの問題もないな。それじゃ、俺は帰るから。授業中に気分が悪くなることのないように、ゆっくり休めよ、榎原、いいな」
「は。はい。おやすみなさい」
沙帆子は機械的に頭を下げた。
「ああ。おやすみ」
冷たいほどそっけなく言って、佐原は姿を消した。
バタンと沙帆子の鼻先でドアが閉じた
夢の中であっても、佐原のクールさは変わらないようだ。
沙帆子は、母親が呼びに来てくれるまで、玄関のドアを呆然と眺めていた。
Valentine Day編
End
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