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その1 ちょっと歯痒い
目覚し時計の音が鳴り響いた瞬間、啓史は目を覚まし、即座に時計を黙らせた。
午前五時三十分。
学校に行くだけなら、まだ起きる必要はない。
昨夜、寝たのは一時だった。
……てことは、睡眠時間、四時間半か。
昨日学校から帰ったら、定期購読している科学雑誌が届いていて、つい夢中になってしまって……
ハッと気づいたら、もうそんな時間だったのだ。
そのせいで、少々寝が足りてない感じはあるのだが……
啓史はベッドから出て、窓に歩み寄った。
カーテンを開けてみると、曇り空ながら雨は降っていないようだ。
降るか降らないか微妙なところだな。
梅雨らしいといえば、梅雨らしい天気だ。
けど……父さんと徹兄は、小雨くらいなら気にもせず朝のジョギングに行くに違いない。
一緒に行くことを義務付けられているわけではない。啓史も徹も、朝のジョギングを習慣にしている父に、付き合わせてもらっているのだ。
そんなわけで、走る時間に行かないと、父はいつものようにジョギングに行ってしまう。
一度、二分ほど遅れて行ったことがあるのだが、すでに父と徹の姿はなかった。
それでも二分ばかり遅れただけだから、急いで追えば間に合うに違いないと、後を追って走った。
けれど、結局ふたりには追いつけず、折り返してきたふたりと合流することになった。
あのとき、体力の差を感じて、意味もないのに落ち込んだな。
着替えを終えて階下に降りたら、洗面所で徹が顔を洗っていた。
「徹兄、おはよう」
「おお」
返事をして身を起こした徹は、タオルで顔を拭きつつ啓史に顔を向ける。
高校生になって、徹はまたぐんと背が伸びた。
啓史だってそこそこ伸びているのだが、徹のほうはぐいぐい伸びて行く気がする。
そんな徹を見上げる自分が、ちょっと歯痒い。
背のことでは、誰にも言えない悩みを抱えていたりする。
あのちっこい順平が、自分より背が伸びたらどうしようと。
順平に見下ろされるなんて、兄の威信に関わる。
死んでも嫌だ。
「走るのか?」
「なんで?」
「お前、夕べ、寝るの遅かったろ?」
「まあね。でも、徹兄だって遅かったよな?」
徹は高校生で地元の進学校に通っている。勉強はかなりハードなようだ。
「いまの俺はそれが日常。だからこそ、ジョギングを欠かさずに体力作りしないとな」
「徹兄、身体壊すなよ。母さんに心配かけるぞ」
顔をしかめて言ったら、頭をがしっと掴まれた。顔をしかめるも、何も言わない。
「こんにゃろう。相変わらず生意気だな。けど、わかってる」
徹に微笑みかけられ、なんとなく決まりが悪い。
「あ、ああ」
少々顔を赤らめてほっぺたを指先で掻いていたら、階段を駆け下りてくる足音がした。
「順平か? あいつがこんな時間に起きるって珍しいな」
徹が首を捻るのを見て、啓史は苦笑して口を開いた。
「明日は絶対置いていかれないぞって、息巻いてたよ」
「げっ! あいつ、ついてくる気か?」
徹は冗談めかした反応をしたが、啓史はつい、本気でため息を吐いてしまった。
「足手まといになりそうだよね。ついてこられるのかな?」
「お前がそれを言うな」
徹に指摘され、啓史は「そうだよな、ごめん」と謝った。
順平は実際足手まといになるだろうが、啓史だって同じようなもの。
体力的に、父や徹には到底敵わない。
一緒に走るとなると、ふたりは啓史に合わせてペースを落としてくれている。
それが申し訳なくて、啓史はふたりより先に折り返すようにしている。
そうすると、距離を伸ばしたふたりは、啓史が家に到着する前に合流することになる。
俺もまだまだ子どもだなと自覚する瞬間だ。
それでも走るほどに合流する地点は家に近づいている。
いずれは、ふたりと同じ距離を同じペースで走れる日がやってくるに違いない。
順平も俺と同じなんだよな。
父と兄のふたりが毎朝ジョギングを日課にしているなら、自分も仲間に入りたいと思うだろう。
「やったーっ!」
洗面所にやってきた順平は、そこに兄がふたりともそろっているのを見つけて破顔する。
さらに、両腕を振り上げ、さらに足までバタバタさせて「間に合った、間に合った」と大喜びだ。
「今朝は一緒に走るんだってな? えらいぞ、順平」
徹は小さな順平の頭を撫でて褒めてやる。
「えっへへーっ」
順平は嬉しそうに胸を張る。
小さな弟のほのぼのさに、啓史は思わず笑った。
「あっ、いま啓史兄さん、僕を笑った!」
責めるように指をさして言う。
啓史はその指を掴み、ぽいっと捨てる真似をする。
「お前が面白いからだろ」
「も、もおっ。僕は面白いことなんてしてないよ」
「それはお前の主観」
「しゅ……かん?」
順平はぽかんとして聞き返してくる。
小学校の低学年には、主観がわからないか……
「お前の物の見方ってことだ」
「ものの味方? なにそれ?」
わかりやすく説明したつもりが、さらに聞き返され、困る。
「ひとはそれぞれ、違うイメージを持つものだろ?」
徹が代わりに説明してくれた。
「違うイメージ? ああ、そういうこと」
徹の説明でなんなく納得したらしい順平に、ムカッとくる。
「ほら、お前たち、顔を洗えよ。もう父さんは外に出るようだぞ」
徹の言う通り、玄関先で父と母のやりとりが聞こえる。
母さんは、朝食の準備と、弁当作りをしている時間。母さんは、誰より早起きだ。
啓史は順平に洗面所を譲った。啓史はさっと動けるが、順平はいつも手間取る。
顔を洗って玄関に行くと、順平が靴を履いていた。
「あっ、負けないぞ」
いつ勝負になったのか、順平は勝手なことを叫び、靴を半分つっかけて玄関を出て行こうとする。
啓史は小さな弟の首根っこを掴まえた。
「な、な、何するんだよぉ。啓兄、勝負で相手の邪魔するなんて男として最低だよぉ」
邪魔だと?
カチンときたが、しょせん相手はガキ、ここは大人の余裕を見せて、ぐっと我慢する。
「靴をちゃんと履いてから出ろ。階段で転ぶぞ」
「……わ、わかった」
順平は気まずそうに返事をし、小さくなる。
「ばーか、気にすんな」
「う、うん。ありがとう、啓兄」
困ったように頬を桃色に染め、下から見上げてくる弟を見て、妙に胸がくすぐったい。
ふたりして外に出ると、父と兄は軽いストレッチをやっていた。
啓史がふたりを真似ると、初参加の順平も、胸を膨らませた顔で真似をする。
嬉しそうだな。
弟の喜びが心に伝わってきて、なんともいえず、いい気分だった。
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