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「でかうさはライバル?」その1
も、もうすぐ家に着いちゃう……
車の後部座席に座った沙帆子は、佐原啓史と一緒に住んでいるマンションを目に入れて、少々焦った。
だが、この焦りは、この辺りに来ると決まって発生するものだったりする。
沙帆子は、自分がもたれかかっているでかうさを、ちらりと見た。
ピンクのうさぎのぬいぐるみなのだが、彼女がこうしてもたれかかれるくらい大きな図体をしている。
さらに、このやる気のない表情、そして遠慮を知らないおっさんのようなふてぶてしさ。
この外見のせいなのか、それともこの子を結婚祝いにくれた相手が、佐原の親友の飯沢敦だからなのか、でかうさは佐原に、真っ向から疎まれている。
結婚式から数日は車のトランクに押し込められていたが、その後、救い出され、いまはこうして後部座席がでかうさの居場所になっている。
佐原の車の後部座席に置いてもらえているというのも、ある意味、すごい贅沢と言えなくもないのだが……一人ぼっちの時間があまりにも長すぎて、可哀想になる。
マンションの家に入れてやってくれとしつこく懇願すれば、佐原も根負けして入れてくれるかもしれないが……その場合、物置のような狭く暗い場所に押し込まれる可能性が大きい。
そうなるくらいなら、いまのこの状況のほうが、でかうさにとってはしあわせだろう。
「おい、着いたぞ」
でかうさの顔に頬をくっつけるようにして思案していた沙帆子は、佐原の鋭い声にハッとして顔を上げた。
後部座席のドアが開けられ、佐原は不機嫌な顔で沙帆子とでかうさを覗き込んでいる。
彼と目を合わせ、沙帆子は「は、はい」と気まずく返事をした。
佐原は沙帆子が通う龍華高校の化学教師。つまり、彼女は彼の教え子だ。
おまけに、佐原は女子生徒たちの憧れの的になるほど、見目がいい。
さらに付け加えれば、クールで無愛想。
「よほど気に入ってるようだな」
皮肉な表情と声の響きに、沙帆子はちょいと頬がひきつる。
「い、いえ……そ、それほどでもなくて」
「家に着いたことにも気づかないくらいだ。こいつから離れがたいんだろう?」
刺々しく口にしつつ、佐原は手を伸ばしてきた。
驚いた沙帆子は、慌ててでかうさから身を離した。
佐原の手が、でかうさの耳を掴む。そしてそのまま引っ張り、車から引きずり出した。
「せ、先生、でかうさが地面についちゃいます」
沙帆子の言葉は現実となり、無造作に引きずり出されたでかうさは、お尻を地面につけている。
「ああっ、先生。もっと上に持ち上げてあげないと、汚れ…」
「それ以上ごたごた言うなら……このままゴミ捨て場に捨てに行くが……」
沙帆子に振り返った佐原は、脅すように言う。
ごたごた言えなくなった沙帆子は、パクンと口を閉じた。
ど、どうしよう!
彼女が家に着いたことにも気づかず、でかうさにかまけていたせいで、佐原の逆鱗に触れてしまったらしい。
余計なことを考えなきゃよかった。これはもう、でかうさの次の居場所は暗い物置とかになってしまう。間違いなく。
でかうさ、ご、ごめん……
沙帆子に背を向けた佐原は、玄関に向かってスタスタと早足に歩いてゆく。
左手には鞄を持ち、右手にでかうさの耳を握り、抱き上げることもせず、そのままずるずると引きずってゆく。
でかうさは、もうすっかり汚れてしまったに違いない。
それに、舗装された地面をあんな風に乱暴に引きずっていては、お尻の布が擦り切れてしまっているかもしれないし……
沙帆子は、後悔に顔を歪めた。
このでかうさの不運は、彼女のせいだ。
でかうさの顔は沙帆子に向いていて、恨めしそうな目をしているように見えてならない。
う、恨まれてる! わたし、でかうさに、完璧に恨まれてる!
玄関に着き、佐原はドアの鍵を開けるために、でかうさをぽいっと離した。
このチャンスにでかうさを救おうと急いで手を伸ばしたが、手にする直前、佐原が耳を掴んでかっさらう。
うっ……お、惜しいっ!
手を宙に泳がせながら、沙帆子は心の中で叫んだ。
佐原は無言のまま玄関に入り、でかうさをその場に転がして家に上がった。
「そいつはそのままにしておけ。いいか、沙帆子、耳一本触るなよ」
じろりと睨みながら言われ、沙帆子は委縮して「は、はい」と答えたもの、佐原の口にした耳一本という言葉が、頭の中を行ったり来たりする。
耳一本触るな?
そんな表現を、マジ顔でされては、ちょっと笑えてしまう。
実際、ひくっと笑いが込み上げそうになり、沙帆子は顔に力を入れて吹き出すのを堪えた。
「早く来い」
「は、はい」
沙帆子は慌てて靴を脱ぎ、佐原の後に続いた。
ともかく、即物置にぶち込まれなかっただけ、良かったと思うべきかもしれない。
それからいつも通り、ふたりは着替えをし、沙帆子はエプロンをつけてキッチンに入って夕食の準備、佐原は風呂の準備と掃除機をかけた。
ご飯を食べ終えた後は、佐原の仕事部屋で、それぞれやるべきことをやる。
「どうだ。今日の分はもう終わったか?」
明日提出しなければならない課題を早々に済ませ、佐原の仕事が終わるまで、パソコンでお宝写真の観賞をしてにやついていた沙帆子は、佐原から声をかけられ、ぎょっとした。
慌てふためいて画像を閉じようとしたが、焦るあまりカーソルを定められない。
ひっきりなしにマウスをパチパチいわせていると、ぐっと身を乗り出してきた佐原に、画面を覗き込まれた。
「なんだ、またこんなもん見てたのか?」
ものすごく嫌そうに佐原は顔をしかめる。
画面に映し出されている写真は、沙帆子のお宝画像の中でもスーパーお宝……佐原の寝顔の写真だ。
「け、消しても無駄ですよ」
沙帆子は強気で言いつつも、パソコンを庇うように両手で抑え込む。
佐原は本当に容赦がないのだ。隙あらば、沙帆子の大切なお宝画像を抹殺しようとする。
いまはデータを別に保存してあるから、この画像を消されたところでなくなったりしないから、強気で出られる。
「沙帆子のくせに」
忌々しげに言いながら、佐原は沙帆子の鼻を摘み、乱暴に左右に振る。
「い、いたた、いたた……も、もうちょっと加減してください。痛いです」
「生意気になりやがって」
さらに力を込めて摘み、ブンブン振る。
うっおおおお……
き、今日はさすがにやりすぎだ。て、手加減がなさすぎるぅ〜。
「痛いですってばぁ。鼻がもげちゃいますぅ」
「そんな簡単にもげるわけねぇだろ」
そう言いつつも、気が済んだのか、佐原は鼻を解放してくれた。
鼻がじんじんする。きっと真っ赤になっているに違いない。
沙帆子は、涙目で佐原を恨めしげに見上げた。
結婚したばかりの妻を、こんなにもいたぶるなんて、あんまりだと思う。
「ふっ」と佐原が小さく笑った声が聞こえ、次の瞬間、沙帆子は唇を塞がれていた。
甘いキスが数秒続き、佐原の唇が離れる。
「俺はまだもう少し仕事する。お前、風呂に入ってこい」
「……は、はい。それじゃ、お先に……入ってきます」
沙帆子はキスの余韻にふらふらしつつ立ち上がり、すぐにドアに向かった。
「まだ寝るには少し早いし、ゲームしたいなら相手になるぞ」
その言葉に思わず立ち止まり、佐原を振り返る。
ゲームか……あまり気が進まない。
佐原には、どうあがいても勝てないのだ。
「お前が得意だって言ってたパズルゲームを手に入れたんだ。やりたいだろ?」
「えっ? ほ、ほんとですか?」
佐原はにやりと笑い、鞄からゲームのソフトを取り出して見せる。
沙帆子は瞳を輝かせた。
た、確かにこいつは、彼女の超得意なパズルゲーム。これだけは、いまだかつて誰にも負けたことない。
「俺、こいつは一度もやったことないんだが……」
な、なんと、美味しい情報だ。
「お前がもし勝てたら……そうだな。あの玄関に放置してるでぶうさ……もうちょっと待遇をよくしてやろう」
佐原は、傲慢に言い放ったが、思わぬおいしい提案に目が丸くなる。
「ほ、ほんとにですか?」
「ああ。二言はない」
「そ、それじゃ、急いでお風呂に入ってきます」
佐原の気が変わらぬうちにと、沙帆子は風呂場にすっ飛んで行った。
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