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2 仲立ちの自覚
家に帰り着いた徹は、工場の駐車場に啓史の車があるのを確かめ、その隣に駐車した。そして、両親の家の玄関に走る。
インターフォンを押すと、すぐに母親が出てきた。
「徹ちゃん、早かったのねぇ」
のんびり話す母に、徹は少々拍子抜けした。
大騒動になっているのではないかと思っていたのだが……
母の様子は普段と同じ……いや、普段に比べて機嫌がいいくらいだ。
啓史が、突然彼女を連れてきたにしては、お袋、落ち着いているな?
「啓史のやつが、彼女連れて来たって、ほんと?」
何気なく問うと、母は驚いた顔になる。
「まあ、なんで知ってるの? びっくりさせようと思ったのに……あ、わかった。さては順ちゃんね?」
「そんなことより、啓史と、あいつが連れて来たっていう相手はどこにいる?」
「いま、母屋のほうに行ってるわよ」
母屋か……
「ふーん」
つまり、いまはあいつらふたりきりでいるということだ。
徹は迷ったものの、そのまま上がり込んだ。
「徹ちゃん、お昼は食べたの?」
「いや。とにかく行ってくるから」
上の空で母に返事をし、徹は母屋に続く通路へと急いだ。
お袋が平然としているということは、啓史の相手が、教え子である事実は伝えられていないと思っていいだろう。さらに、自分の元教え子であることも……
「徹兄ぃ」
背後から順平の声が飛んできて、徹は足を止めてさっと振り返った。
「大きな声出すな!」
声を押さえて怒鳴る。
「なんでさ?」
不思議そうに言われ、苛立つ。
弟は、何も知らないのだから、仕方がないのだろうが……
「なんでもだ。それより、なんだ?」
順平のことは無視して、啓史のところに行ってしまいたいが、後をついてこられたらやっかいだ。
「やっぱ、戻ってきたんだなって。啓史兄さんの彼女のこと、やっぱり徹兄も気になったんだ? へへ」
得々とした顔の弟に、徹は眉をしかめた。
何も知らないものだから……こいつはほんと平和そうだな。
「順平、お前はここにいろ。ついて来るなよ」
「えーっ、どうしてさぁ?」
「どうしてもだ。……小遣い、欲しいんだろ?」
「えっ、く、くれるの? ほんと?」
普段、小遣いをやらないせいで、順平は目を丸くしている。
正直、金で釣るような真似はしたくないのだが……
今日の場合は……まあ致し方ないだろう。
「ああ、お前がちゃんと言う事を聞けばな」
「わかったよ。大人しくここにいる」
そう言いながら、順平は手を出してくる。
どうやらこの場で取り引きということのようだ。
こいつ、ちゃっかりしてんな。
いまは持ち合わせがないから後でと言おうかと思ったが、ここはしっかり取り引きを終えておいたほうが良さそうだ。
徹は、ジャージのポケットに手を突っ込み、考え込みつつ財布を取り出すと、千円札を二枚抜いて順平の手に握らせた。
金額を確かめた順平は、文句が言いたそうにも見えたが、そのままポケットに押し込んだ。
「ありがと」
見送るように手を振る弟に噴き出しそうになりながら、徹は母屋へと向かった。
まずは、母屋の居間を覗き、誰もいないのを確認する。
ここにいないということは、あとは啓史の部屋しかない。
階段を上るにつれて、徹は足を重く感じた。
本当に、エノチビなのだろうか?
あいつが、啓史の彼女?
いや、どうしても信じられない。
階段の途中で、徹は足を止めていた。
これはやはり、何かの間違いじゃないのか?
順平の聞き間違いとか……
聞き間違い自体は、あり得る話だが……
榎原沙帆子の名を順平が知るはずはなく、間違えて口にするにしては、ポピュラーな名前ではない。
徹は割り切れず、頭を掻き毟った。
マジかよ!
ふざけんなよっ!
啓史の野郎、教え子に手を出すなんて、何考えてやがる。
あんの、馬鹿野郎!
考えるほどに憤りが増してゆく。
啓史を罵るだけ罵った徹は、息を吐き出し、気を落ち着けた。
弟の部屋のドアの前にやってきた徹は、中に人がいる気配を感じ取ると、右手を軽く握りドアを軽くノックした。
音は小さいが、辺りは静かだし、中にいる者の耳には届くはずの音。
だが返事はなかった。
返事をしないのは、叩いているのが徹だと、啓史が気づいているからだろう。
留守だった兄が突然帰ってきた。
兄の元教え子だという事実も、兄にはバレていると、わかっているはず。
こういうことも前もって想定していたにしろ、啓史も動揺しているに違いない。
顔を出しづらいのも当然だよな。相手がエノチビなんじゃ……
エノチビもきっと同じだろう。
そう考えたことで、啓史がなかなか出て来ない理由がわかった気がした。
エノチビが、そうとう動揺していて、落ち着かせようとしているのかもしれない。
徹はドアに凭れかかるようにしながら、一定のテンポでノックし続けた。
啓史は兄の性格を良く知ってるし、いずれは応じるだろう。
「何か用事?」
弟の声を耳にした徹は、ドアを叩くのを止めた。
「ドアを開けろ」
「いま、立て込んでるんだ」
その声には、徹をからかうような響きがあり、さすがにむっときた。
まったくこの弟は、俺の元教え子を彼女として連れてきて……
扉の向こうで、いったいどんな顔をしてやがるんだろうな?
「いいから、開けろ」
「芸がないな。それ以外に言葉を知らないの?」
その言葉で、徹は冷静に戻れた。
「煽っても無駄だとわかってるだろう?」
「まあな」
出て来いと言おうとしたところで、「外すなよ」という啓史のきつめの声が聞こえ、徹は口を閉じた。
「外すな? なんの…」
思わずそう口にしてしまったが、その言葉は自分に向けられたものではなかったのだと、徹は遅れて気づいた。
エノチビに向けられた言葉だ。
もちろん意味はわからない。
眉をひそめていると、ドアが少し開けられ、さっと啓史が出てきた。
開けられたドアは啓史の背後で、パタンと閉じられる。
代わり映えのしない弟の顔を見て、徹は眩暈のようなものを感じた。
「よう」
わざと軽く挨拶する。
無表情で自分を見つめ返す弟に、苛立ちが増す。
「お前、彼女を連れてきたんだって?」
「順平に聞いて飛んで帰ってきたんだ。わざわざ聞くまでもないだろ」
啓史の返事に、徹はひどく疲れを感じた。
どうやら、自分の中には弟の連れてきた相手がエノチビであるということを、いまだに疑う気持ちが残っていたらしい。
だが、いまの啓史の態度と返事で、ことは決定的になった。
ため息をつきそうになる。さらに、頭にも嫌な痛みを感じてきた。
この閉じられたドアの向こうに、本当にエノチビがいるってのか…
すでに現実として理性は認めているのに、いまもまだ冗談としか思えない。
「そうでもない。お前の口から聞きたいんだよ」
啓史は徹の顔をじっと見つめてきた。
「何も変わらないさ」
そのそっけない返事に、どうにも心の疲れが増す。
「で……彼女に会いたいんだが」
さっさとエノチビと顔を合わせて、気持ちを整理したい。
「会わせるさ。でも、いまじゃない」
「どうして?」
「向こうで会わせる。あっちで待っててくれ。連れてくから」
「同じことだろう?」
「話したいことがあるんだ。でも、家族全員揃ったところで話したい」
話したいこと?
それはつまり、沙帆子が高校二年生だということと、徹の教え子だったことか?
徹がいない間に連れて来たということは、エノチビの真実を、今日のところは語るつもりはなかったということなのだろうか?
だが、すでに知ってしまった。
いまさら、隠しおおせないことは、わかっているはずだ。
「いいから彼女と会わせろ。事実を確かめたい」
「必要ないよ。確かめなくても……」
啓史の言葉の響きに、徹は眉を上げた。
どこか捨て鉢に感じるのはどうしてだ?
「お前……」
「兄貴は、余計なことは言わないってわかってる。兄貴が俺に言いたいこともわかってるし、聞きたいこともわかってる。そして、俺がその質問に答えないということも、兄貴は知ってる」
徹は顎に手をかけ、啓史を見つめた。
エノチビは、ドアの向こうにいる。これは現実だ。
そして、啓史は高校二年生の、いまは自分の教え子であるエノチビと付き合っている。
そして親に紹介するために連れてきた。
もちろん、この弟は遊びで女と付き合うような男ではないし、真剣だからこそ、親に会わせるために、エノチビを連れて来たのだ。
啓史とエノチビか……
まったく似合わないな。
アンバランスすぎて、笑えてならない。
それにしても、この弟ときたら……
「扱いづらいやつ」
徹は思わず笑みを浮かべていた。
彼の笑みを目にして、食えない弟ははっきりと安堵を見せた。
「ああ」
「本気なんだな?」
すでに啓史の本気は伝わってきていたが、徹は確認するように尋ねた。
本気でなければもちろん困る。
啓史がふっと笑った。
「それには答えるよ……聞くまでもないってね」
その言葉に、徹は息を止めた。
啓史の目を見て、こっちが怯みそうになる。
本気どころじゃない。……こいつ……
徹は思わず一歩後ろに下がった。
弟のまっすぐな目を見て、口を開く。
「これで終わらないぞ。いいな」
そう口にし、徹は弟に背を向けた。
「礼を言うよ」
階段に足をかけたところで、その声は聞こえた。
感謝よりも安堵が伝わってきて、徹は笑い出しそうになった。
階段を下りた徹は、階段の一番下の段に腰かけた。
これまで人生とは、予想の範囲で過ぎてゆくものだったのに……
こんな出来事が現実に起こるなんて、ありか?
もちろんまだエノチビを目にしていないせいで、いまだにしっかりと認識できずにいるが…
考えてみれば、啓史とエノチビの接点を作ったのは、俺なんだろうな?
膝に肘を当てて頬杖をついた徹は、我慢できずに噴き出した。
「なんてこった!」
呆れたように小声で叫ぶ。
深いため息をついた徹は、過去の出来事を、ひとつひとつ思い返していった。
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