ナチュラルキス 新婚編
natural kiss

刊行記念特別編

第3話 いつもと違う?



呼び出し音が途切れ、沙帆子は思わず息を止めていた。

「はーい」

母の声が聞こえた。いつもと同じ調子だ。

けれど、息を止めていた沙帆子は、すぐには声を出せなかった。

「……ま、ママ」

「ええ。どうしたの?」

沙帆子の返事で、娘がいつもと様子が違うと母にはわかったはずだ。

なのに芙美子は、それには触れずに普通に問い返してきた。そのことに、表現しにくいソワソワした気持ちになる。

「う、うん。あ、あの……」

そこまで口にし、なんのために電話をかけたのか、一瞬、頭から飛んだ。

沙帆子は口ごもり、自分のすぐ側で、携帯を耳に当てて話をしている啓史を見つめた。

「ああ、夕飯はいい。そのあと榎原の家にも回るから」

啓史の言葉を耳にし、沙帆子は少し気分が落ち着いた。

「……夕方、家に寄らせてもらおうと、思ってるんだけど……」

「そうなの? 夕食を食べて行く?」

母の言葉に、沙帆子は思わず「う、ううん」と口にし首を横に振っていた。

「ちょっと寄るだけにしとく……」

とてもじゃないが、アパートのあの家で、両親と一緒にご飯を食べるなんて……いまはできそうもない。

「こ、これから千里や詩織のところに寄って、それから先生の実家と学校長さんの家にも寄るの。うちには……最後に寄ろうって、佐原先生が」

ようやく言い終え、大きく息をつく。そんな自分に沙帆子は顔をしかめた。

な、なんか、わたし、テンパってる?

それに佐原先生って口にしちゃって……自分も佐原なのに……なんか、おかしいよね。

「あ、あの……昨日は、その……凄いところに泊まっちゃったの。もうびっくりしちゃって」

何か話題をと、沙帆子は思いつくまましゃべる。

「ああ。素敵なところだったでしょう? あなたたちには内緒にってことだったのよ」

「そ、そうだったんだ。荷物も用意してあって……あの、ママ、いっぱいありがとう」

そうだ、いまわたしが着ている服も、ママが用意してくれたんだ。

「いま着てるこの服も……」

「ええ。似合うだろうと思ったのよ。気に入ってくれた?」

「……うん」

「よかったわ。ねぇ、それで? いまどこにいるの?」

「あ、うん。道の駅。陶器売り場もあって、凄く広いところ」

「あら、そこって、わたしたちも以前に寄ったところだわ」

「う、うん」

「きゅうりと山芋のお漬物が美味しかったわよ。そうそう、自家製のヨーグルトがあってね……」

「そうなの?」

山芋のお漬物に、自家製のヨーグルトか……

「それ食べてみたいかも。捜してみる」

「沙帆子」

そこで啓史が呼びかけてきて、沙帆子は彼に振り向いた。

啓史はいつの間にか電話を終えたらしい。

「はい」

「俺も話がしたいんだが」

「ああ、はい。……あの、ママ、先生が話したいって、代わるね」

「ええ」

沙帆子は啓史に携帯を差し出した。

「啓史ですが。……ええ。まだこれから、ここで昼飯を食っていくんで、そちらにいけるのは夕方くらいになると思うんですが……はい。橘を出るときに連絡します。……はい、それでは」

通話を終え、啓史が携帯を返してくる。

「まだ話したかったか?」

「だ、大丈夫です。夕方に行くんだし……」

「ああ、そうだな」

互いに口に出せない思いがある。それを感じて、落ち着かなくなる。

困った挙句、はにかんだ笑みを浮かべたら、啓史の表情も変化した。

啓史が何も言わずに手を差し出してきて、沙帆子はその手を握りしめた。

「それじゃ、昼飯を食うか? お前、何が食べたい?」

「先生は?」

そう言ったら、啓史が立ち止まり、身体ごと沙帆子に向く。

「なあ」

「はい?」

「先生はやめてくれ」

「あ……そ、そうですよね」

考えたら、こういう場で先生と呼ぶのはまずいだろう。

けど……啓史さんなんて、簡単に切り替えられないんだよね。

「啓史って呼べよ」

沙帆子にとってはとんでもない難題だというのに、啓史はこともなげに命じる。

「なんだ、その顔は?」

じろりと睨まれ、沙帆子は手のひらで自分の顔を覆って隠す。

「だって……難しいんです」

「お前な。……いいか、どう呼んでもいいから、先生とだけは呼ぶなよ」

どう呼んでもいいと言われても……

顔を歪めたら、啓史は仕方なさそうに沙帆子を引っ張りながら歩き出した。

先生呼びを禁止されたせいで、ランチを食べている間中、そのことばかり気にし続けることになったが、ランチはとても美味しかった。

「お前、絶対に残すと思ったのに、よく腹に入ったな」

空になった沙帆子の皿を見つめ、啓史が苦笑する。

「だって、美味しかったんです」

沙帆子は頬を染めて言い返した。

すると啓史は、楽しそうにくすくす笑う。

「まあ、確かにうまかったよな」

「はい。このあたりで採れた野菜を使ってあるんですよね。見たことのない野菜も入ってたりしたし……もし、ここで売ってたら買って帰りたいです」

「ああ。いいな。それじゃ、行ってみるか?」

「はい。ああ、あと、ママが山芋のお漬物と、自家製のヨーグルトが美味しかったって言ってました」

「そうか。それじゃ、そいつも探そう」

啓史は立ち上がりながら言う。

沙帆子は微笑みながら頷き、自分も立ち上がった。


山芋のお漬物はなかなか見つからず、最終的に野菜売り場のスタッフに尋ねてようやく探し当てた。

自家製のヨーグルトをふたつかい、どうにも口の締まりがなくなる。

佐原先生と、わたしのなんだよね。

「こいつは今夜のデザートにするか?」

ヨーグルトの入った袋を持ち上げて啓史が言う。

「明日の朝でもいいかも」

「ああ、それでもいいな」

なんでもない会話に胸が弾んでならない。

先生とわたし、夫婦、なんだよね?

あー、とても信じられない。





道の駅を満喫し、ふたりは車のところに戻ってきた。

「全部入ります?」

沙帆子は、すでに荷物で満杯の車の中を見て、啓史に尋ねた。

欲しければ買えばいいと啓史が気安く言ってくれるものだから、つい調子に乗ってしまったようだ。

いつもなら、遠慮しちゃうところなのに……

やっぱり、今日のわたし、いつも通りじゃないってことなのかな?

普通だと自分では思うんだけど……実のところはテンパっちゃってるのかな?

佐原先生はどうなんだろう?

やっぱり、いつとも違う?

そういえば、いつもみたいに不機嫌になることもなくてとってもやさしい。

ずっとご機嫌で……不自然なくらいに……

だって、先生と呼ぶなと釘をさしたのに、何回か口にしてしまっても、怒ったりしなかったし注意すらしなかった。

やっぱり、先生も今日は普通じゃないってこと?

まあ、いいか。

いたぶられないことを喜んで……今日だけは遠慮せずに甘えてしまおう。

なにせ、わたしと佐原先生、新婚さん一日目なんだもんね。

急ににやけてきた。

「沙帆子、何ひとりでにやついてる。乗らないと置いてくぞ」

へっ?

我に返って顔を向けたら、すでに啓史は運転席に乗り込み、エンジンまでかけている。

「新妻を置いてくなんて、ひどいですよっ!」

沙帆子はぷりぷりしながら、助手席に回り込んで乗り込んだ。

頬を膨らませて啓史を睨んだら、少し驚いた表情で沙帆子を見つめてくる。

「……な、なんですか?」

「いや……なんでもない」

「でも……なんか驚いてた……」

「置いてくわけないだろ。俺の新妻だからな」

真面目に口にした啓史は、最後ににやっと笑う。

その瞬間、沙帆子は、自分で自分のことを新妻と口にしたことに気づいた。

ボンと顔が燃え、沙帆子は両手で顔を覆った。

は、はずかしいーーーっ!

すると啓史がくっくっと笑い出した。

文句を言いたいが、楽しそうに笑っている啓史を見て、顔をしかめながらも沙帆子はしあわせを感じてならなかった。





   
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