ナチュラルキス
natural kiss

番外編

 千里視点

第4話 手に負えない友



濡れた傘を閉じて水滴を払った千里は、傘立てに傘を突っ込み、眉を上げた。

傘立てに二本、濡れた傘がさしてある。

その二本とも、千里は持ち主を知っていた。

詩織に、沙帆子のだ。

生徒会役員で、色々雑事が多いものだから、いつも千里は、ふたりより早く登校しているのだが…

あのふたり、揃ってもう来てるなんて…いったい何事?

今日って、クラスで何かあるなんてこと、なかったわよね?

鞄からハンドタオルを取り出し、濡れてしまっている足元を拭きながら千里は首を捻った。

彼女は校舎の通路を進み、一番近道の階段を上って生徒会室に入った。

がらんとした空間…誰もいない。だが、広澤はすでに来ているはずだ。

先週作った生徒会広報誌が、机の上からなくなっている。

生徒会のメンバーで、ちょっとしたゲームをやり、負けた広澤が、今朝、広報誌を校内全部の掲示板に貼る仕事をすることになったのだ。

手伝いに行こうと考えているのだが、大樹が来るまで待つつもりだった。

あと五分ほどで来るだろうか?

時計に目を当てていると廊下の方から足音が聞こえ、彼女は椅子に座ったままドアに顔を向けた。

足音は複数だし、なにやらおかしな雰囲気の話し声だ。

めそめそと泣いているような女性の声と、それを励ましているらしき男性の声。

…この声?

千里はさっと立ち上がり、ドアを開けた。

「や、やあ」

目の前に広澤がいた。

そして彼の隣には、思ったとおり詩織。

「あんた、どうしたのよ?」

「どうしたもこうしたも。…も、もう、わたしはおしまいだよぉ」

詩織は、そう喚きながら、千里にガバッと抱きついて来た。

「はあ?」

おしまいって…?

いったい何事なのだ?

「広澤君?」

説明を求めて呼びかけたが、広澤は広澤で困ったように千里に抱きついている詩織を見つめている。

「いったいどうしたの? ねぇ、ちょっと詩織、おしまいってどういうことよ?」

「だーかーらぁ、もう取り返しがつかないことしちゃったの。どうしよう。わたしどうしたらいいの? も、もう生きてらんないよぉ」

この世の終わりのようにむせび泣き始めた詩織を見て、千里は顔をしかめた。

詩織のように泣いてはいないが、まずいことがあったといわんばかりの広澤の顔を見てしまっては、詩織の態度が大袈裟なのだろうなんて、軽く考えてはいられないようだ。

ただごとじゃない。なら、何が起こったというのだ?

「ともかく、中に入ろ」

千里は広澤にそう声をかけ、抱きついたまま離れない詩織をなんとか引きずって生徒会室に入った。

「ほら、詩織、ともかく座りなって」

「う、うん」

椅子に座った詩織は、肩を落として鼻を啜る。

どうやら詩織は、そうとう悲観的になっているらしい。

詩織の左隣の椅子に腰掛けた千里は、広澤に顔を向けた。

「広澤君、ねぇ、何があったの?」

「あ、ああ。それが…江藤さんに広報誌を貼るの手伝ってもらってたんだけど…」

詩織がどうして広澤の手伝いをすることになったのかは知らないが、いまはそんなことどうでもいい。

「ええ。それで?」

「貼ってたら…その…榎原さんと会って」

沙帆子? 

沙帆子と聞いて、千里は慌てた。

「さ、沙帆子と何かあったの? 沙帆子はどこにいるの?」

「いや。彼女は佐原先生のとこで別れて…」

さ、佐原ですって?

「いったいどういうことなの? 広澤君、まったく話が見えないんだけど」

佐原の名が出たことで、千里は苛立ちを感じ、思わず噛みつくように言っていた。

「わかるように説明するよ。つまり、榎原さんも手伝ってくれることになって」

佐原がどういう風に絡んでくるのかわからず、広澤のちっともはっきりしない説明を聞きながら、千里はじりじりしてならなかった。

いったい佐原がどうしたのというのだ?

「それで?」

千里は急くように尋ねた。

「うん。化学室の前の掲示板に…」

「言わないでぇ!」

突然詩織が顔を上げ、目を瞑って両耳を塞いだ。

「もう、詩織。あんたは、おとなしく泣いてなさい」

「やだやだやだっ。聞きたくなーい」

「江藤さん。大丈夫だよ。佐原先生も、気にするなって…」

「駄目よ。先生がそう言ったからって、もう駄目だよぉ」

耳を押さえたまま喚く詩織から顔を上げ、千里は立っている広澤に視線を向けた。

「広澤君、いいから話して」

「や、やだー」

「うるさい!」

パチン!

「いたたっ」

駄々をこねる詩織のおでこを思いきり叩いた千里は、広澤に話の続きを身振りで催促した。

「場所が悪かったんだ。化学室の前で…いや、化学室の前だったから、江藤さんも、つい佐原先生の話題を持ち出しちゃったんだろうけど…」

「佐原先生の話題?」

「ああ。ちょっと噂話をしてしまったというか…」

「広澤君、言わないでっ!」

大声で叫んだ詩織は、情けない顔で、広澤に懇願するような目を向ける。

「あ、ああ…」

「あのさ、広澤くん。ちょっと場所外してくれるかな」

千里は、遠慮がちに広澤に頼んだ。

佐原が絡んでいて、その場に沙帆子もいたとなれば、広澤がいては詩織から話を聞きづらい。

広澤はほっとしたように頷き、手にしている広報誌を少し持ち上げて見せた。

「これ、まだ残ってるやつ、貼ってくるとするよ」

「うん。お願い」


部屋から出ていった広澤の足音が聞こえなくなるまで待ち、千里は詩織の肩を叩いた。

「ほら詩織、話して。何があったの?」

顔を上げた詩織の顔は、泣きすぎたためにくしゃくしゃで、ずいぶんと情けない風情だった。

「そ、それが…ビラ貼ってたら、沙帆子と会っちゃってね。い、一緒にビラ貼り手伝ってもらうことになって、たまたまそれが化学室の前で…。だからさ、沙帆子に諦めてもらおうと思ってさ。佐原先生の悪口…、わ、わ、悪口を…」

「悪口を言ってたら、佐原先生が現れたわけだ?」

「まさか、もう来てるなんて思わなかったんだよぉ」

「部屋から出てきたの?」

「う、うん。鬼か悪魔みたいに怖い顔してて…」

ブルルルッと身を震わせて、詩織は顔を引きつらせた。

「もう…もう…お、おしまいだよぉ」

「はいはい。詩織、そんなことくらいじゃ、おしまいにはなんないわよ」

いくぶんうんざりしつつ言った千里を、詩織はキッと睨んできた。

「千里は見てないから…あの佐原先生の顔。い、いんや、そういうことじゃなくて、わたしが口にした悪口がどんなだったか知ったら、千里だって、わたしが終わったと思うよ」

千里は頭が痛くなってきた。

いったいこの友は、佐原に関する、どんな悪態をついたと言うのだろう?

「あんた…何を言ったのよ?」

「そ、それをわたしに聞くの?」

当人の詩織に聞かずに、誰に聞けばいいというのだ。

「あんたねぇ」

千里は腕を振り上げて、詩織の頭を小突く真似をした。

「だ、だってぇ〜」

詩織は両手で頭を庇い、小さくなって情けない声を出す。

「話したくないなら、もういいわよ。勝手にひとりで世を儚んでなさいよ」

「ええーーーっ、千里ぉ、そんなの冷たいじゃん」

「あー言えばこういう。…わたしにどうしろってのよ」

「どうしろこうしろの話じゃないもん」

「そう」

千里は見捨てたようにゆるく首を振りながら、詩織の腕を振り払って立ち上がろうとした。が、詩織はガバッとしがみついてきた。

やれやれ…

「話すよぉ。つまりさ…」


始業時間ギリギリまでかけて、ようやく詩織が口にした言葉を聞いて、千里は呆れ返った。

女をとっかえひっかえしてそうだってのは、まだいい…

「むっつりスケベ? さすがにそれは、佐原先生だって怒るわよ」

「だから言ったじゃ〜ん」

「何も佐原先生の部屋の前で言うことなかったのに…なんで、先生がもう来てるかもしれないと思わなかったのよ?」

「だから…沙帆子に先生のこと、諦めさせようと思ってさ、そればっかりが頭にあって…。だって可能性ないじゃん。千里もそう言ったじゃん」

確かに言った。実際そうだし。

昨日、彼女連れの佐原と偶然に遭遇したショックが大きくて、気持ちの整理がつけられないうちに、詩織に電話して話してしまったのだ。

あの話を聞いてしまったせいで…詩織は…

詩織に、話さなきゃ良かったのだろうか?

「それで? その場には沙帆子もいたんでしょ? あんたはひとりで逃げてきちゃったわけよね?」

「う、うん。それも気がかりでさ。沙帆子、あのあとすぐに教室に戻ったと思うけど…。先生の悪口を言ったのは、わたしだし…沙帆子は何も言ってないし…」

佐原に片思いしている沙帆子なのだ。ふたりきりで話せて、嬉しがっているんだろうか?

でも、すでに佐原がデートしている写メを見て、佐原には恋人がいることを知っているわけだし…

千里は考える事を止めた。

「もう時間だし、詩織、教室に行こう」

「う、うん」

嫌々返事をした詩織を千里は促して、生徒会室から出た。

詩織の肩に手を掛けて廊下を歩きながら、千里は眉を寄せた。

そう言えば、大樹が来なかった。

病気で休みとかだろうかと不安になった千里だったが、たぶん広澤が、千里と詩織の邪魔をしないようにと考えて、どこかで大樹を引き止めたのかもしれない。

千里は歩きながら即行でメールを打ち、返ってきた返事で、自分の推測が間違っていなかったことを知った。

「千里、わ、わたし…早退することにするよ」

「はあっ、何言ってるの!」

逃げ出そうとする詩織の腕を、千里はぐっと掴んで怒鳴りつけた。

「だって、もう学校にいるのがいやなんだよぉ」

「自業自得!」

「ひーーーん」

沙帆子のことを気にかけつつ、千里は暴れ続ける詩織を引きずりながら、ひたすら教室を目指したのだった。





    
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