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第1話 重い心
四時間目が終わり、教室の中は、固形が一瞬にしてゼリー化したほどゆるんだ空気に変わった。
千里は沙帆子の方へ顔を向けてみた。
沙帆子はすでに立ち上がっていて、こちらに顔を向けていた。
目が合うと、いつもの可愛らしい笑顔を浮かべ、小さく手を振る。
千里が手を振り返すと、こくんと頷いて教室を出て行った。
千里はしばし、沙帆子の出て行ったドアを見つめていた。
胸の辺りが落ち着かない。
まったく、とんでもない話よね…
そう考えて、心に疲れを感じ、思わず左右に首を振ってしまう。
沙帆子と佐原先生がだなんて…いったいなんの冗談よ?
ふたりが付き合っていたことすら、いまだ心に受け入れられないってのに…
三日後の土曜日は結婚式…
「ははっ」
乾いた笑い声が、口から飛び出た。
沙帆子の両親が引っ越すから、急遽決まった結婚なわけだけど…
ありえないと思うのよね。
なんたって沙帆子はまだ高校二年生、かたや佐原は教師で、おまけに彼女たちの副担任…
常識で考えて、やっぱ、さすがに結婚はないんじゃないだろうか?
わたしが沙帆子の立場だったら、アパートでひとり暮らし…
いや、あの頑固でうるさい父だ、ひとり暮らしなど絶対にさせてはくれないか。
なにせ大樹のことがある。もちろん千里がひとり暮らしするなんてことになったら、彼は部屋にやって来るだろうから…
危ない想像をしそうになり、千里は焦ってかき消した。
芙美子ママが、沙帆子を結婚させる理由…わかったかも。
非常識と思えるけど、ふたりの気持ちが固まっているなら、結婚はありだよね。
千里は、常識がなどと考えていた自分に、ひどく気まずさを感じた。
常識、非常識じゃないんだ…
芙美子ママは、しっかりとふたりの将来を見据えてる。
もちろん、沙帆子のパパも。佐原先生を、愛娘を託してもよいと思うほどふたりは信頼したんだ。
そして、佐原の両親も…
だから沙帆子と佐原の結婚は現実に行われることになったのだ。
わたしってば、沙帆子が結婚するってこと、心から喜んであげるべきなのに、常識にばかり囚われて、心の底では間違ってるって、批判してたんだ。
馬鹿…ほんと、馬鹿だ。
「ちっ、さっ、とぉ」
弾むように彼女の名を口にし、目の前に詩織がストンと座った。
「どったの? なんか神妙に考え込んじゃってさ」
千里はいつもとぼけてばかりの詩織の顔をじっと見つめた。
沙帆子が結婚するって話を聞いたとき、この子、いつもは落ち着きのないくせに、やたら落ち着き払ってて…
『失恋してつらい思いをしてると思い込んでた友達が、失恋してなかったんだよ。友達として喜ぶ場面じゃないかなぁ?』
そう言ったのだ。
その言葉に、千里は拳で思い切り頭を叩かれたような衝撃を食らった。
自分の心の未熟さを強烈に感じて…
あのあと思わず詩織のほっぺたに張り手をかましてちゃって…なんとも情けなかった。
さらに、追い討ちをかけるように、詩織は「めんどくさいんだね。千里の意識」と言ったのだ。
あのときのこと、思い返すたびに落ち込んで…考え込まされた。
確かに、わたしの意識はめんどくさい。詩織が正しい。
「あーあ」
「千里、どうしたの? 森沢君と、なんかあった?」
「彼とは何も…」
思わず口にしたが、何もないことはなかった。
沙帆子と佐原の結婚式に参加することになって、大樹との約束をキャンセルするしかなくて…
けど、キャンセルの理由も、どこに行くのかも話せないわけで、いま大樹との間がちょっとぎくしゃくしてる。
大樹が心にしこりを感じてるのもわかってる。
ふたりの間で秘密なんて持ちたくないし…話したいのに、絶対話せないわけで…
「ねぇ、食べないの?」
「もちろん、食べるわよ」
そう言い返すように答えた千里は、弁当を開けながら詩織の様子を窺った。
詩織には付き合っている彼がいる。けど、詩織は生徒会副会長の広澤が好きなのだ。
こっちも複雑…いや、こっちのほうが複雑だよね。
昨日、彼女は、自分の彼氏である大樹に、詩織の事を相談した。そして、衝撃的な真実を聞いてしまった。
なんと大樹は、ずっと前から詩織が広澤のことを好きだということを知っていたのだ。
教えてくれればよかったのにと言ったら、君が悩むのがわかっているのに言えないだろと言われてしまった。
まったくもってその通りだ。
大樹の優しさに、そして詩織の気持ちを考え、涙が出てならなかった。
この子…広澤君が好きなのに、彼が沙帆子を好きだってわかって、諦めたんだよね。
それでいまの彼と付き合うことにして…
初めて秘密の場所に行ったとき、沙帆子が三年生の男子に告白された話になって、相手のことを知らないのに告白されて付き合えないというようなことを言ったのだ。
その沙帆子に、らしくなく、きつい言葉で突っかかった詩織…
いまとなると、詩織の心境が痛いほどわかる。
わかっちゃったばかりに、なんとも切ないってか…
お弁当を半分くらい食べたところで、詩織の携帯がバイブ音を発した。
詩織はためらうような様子でポケットから携帯を取り出す。
どうやらメールがきたらしく、詩織はすぐに返信した。
「あ、あのさ、千里」
詩織が遠慮がちに話しかけてきた。
「なあに?」
「これからちょっとさ…」
「藤野君?」
「う、うん。ちょっと会おうって」
詩織は携帯をぎゅっと握り締めている。
「行っといでよ。わたしも食べたら行くとこあるんだ」
「そ、そうなん。それじゃ、食べ終わったら…」
詩織はそう言い、残っている弁当を急いで食べ始めた。
「藤野君とは、うまくいってる?」
「もちだよ。藤野君、やさしいからね」
笑みを浮かべているけれど、その言葉には無理を感じた。普段から、思っていることがそのまま顔に出てしまう詩織だから、容易にわかる。
お弁当をしまい、教室を出たところで詩織と別れた千里は、いくぶん重い心を抱えて、沙帆子と約束した場所に向かった。
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