ナチュラルキス
natural kiss

啓史サイド
恋と恐怖と叫び



「俺ら、もう学生じゃないんだなぁ」

酔った飯沢は、啓史の肩を抱き、やたら感情を込めて嘆くように言った。

「そうだな」

啓史はそっけなく答えた。

飯沢は、彼の倍近く飲んだに違いない。

瞼が重力に負け、ほとんど開いていない状態だ。

いまの飯沢の言葉は、自分の人生で、学生の時が終わったのを残念に思っているような感じだが、口を開くたびに一変するのだから、本気で聞いちゃいられない。

案の定、次に口を開いた飯沢は、こう言った。

「俺はなぁ、佐原、見てろよ、偉くなるぞぉ!」

飯沢は目を瞑ったまま、滑稽なほど胸を反って言う。

エイエイオーとでも表現したいのか、ジェスチャーで右腕を激しく上下させている。

たぶん、こいつは、自分が目を閉じていることに気づいていないに違いない。

「おお。頑張って偉くなれよ」

「おありがとうございます。飯沢敦、ガンッバリマッスル」

「ああ、期待してるぞ」

大学の卒業式も終えた。もう彼らは学生ではない。春には社会人となるのだ。

啓史は感慨深く過去を振り返った。

大学に入学した頃は、卒業後は父の会社に入ると決め込んでいたのに……

まさか、違う道に進むことになるとは……

まあ、自分で決定したうえの結果なのだが……

高校の教師か……

啓史がふっと笑ったとき、飯沢の身体がぐらりと傾ぎ、ゆっくりと床に転がった。

これで啓史以外全員がつぶれたことになる。

すでに深夜二時。今夜は時田と深野もいる。

飯沢は、数日後には新入社員教育のための研修に入るとかで、皆、飯沢のところに集まったのだ。

深野はミス白百合と、うまくいっているのかいないのか、酔いが回るとため息ばかりついていた。

時田と飯沢は、恋に足元をすくわれて右往左往しているとしか見えない深野をからかって、面白がっていた。

それでも友の恋を応援しているのだ。ふたりとも、心の底では……たぶん。

啓史は立ち上がり、部屋の隅に用意されていた掛け布団を飯沢にかけてやった。

春が来ることが、少し気が重かった。

教師となることに、それほど不安は感じていないし、それどころか楽しみでならない。

昨年、啓史を先生と呼んでくれた生徒たちとも、また再会できる。

けれど……胸の中に、啓史を苛立たせるしこりが……

啓史は口を歪めた。

ちびすけの野郎に逢いたくない……

あいつ、親の都合とかで、遠方にでも転校してしまえばいいのに……

高校一年のチビだぞ。まだたった十六のガキだ。

なのに、なぜ……

ムカつく……

啓史が無意識に拳を固めたそのとき、部屋の隅に転がっていた時田が、むっくり起き上がった。

「あー、寝た寝た」

まだ眠そうな目で、時田はぐるりと頭を回してきた。

「なんだ? 佐原、お前だけか?」

「ああ」

「今、何時だ?」

「二時過ぎだな」

「寝ないのか?」

時田はそう言いながら立ち上がる。

「もう寝るさ」

啓史の返事に頷き、時田は寝起きにしては確かな足取りで、そのまま部屋から出て行った。

たぶん、トイレに行ったのだろう。

啓史は手元にあるグラスを掴み、透明の液体を喉に流し込んだ。

不味かった。

ちびすけのやつ……

あれから五ヶ月も経っている。あいつはまた育っているだろう。

それがムカつく。

たかだか十六年しか生きていない小娘のくせに……なんで……

胸のむかむかが膨れ上がり、苛立ちに駆られた啓史はまた酒を喉に流し込んだ。

ドアが開く音がし、時田が戻ってきた。

「お前、ひとりで飲んでんのか? 俺もつきあうかな。今夜は徹夜か?」

「よく言うよ。飲んだらすぐに寝る奴が」

「佐原、それを言うな。そういう体質なんだよ」

「まあ、安上がりではあるよな」

時田はケラケラ笑いながら、テーブルを挟んで啓史の前に座り込んだ。

「飲むのか?」

「ウーロン茶あるか?」

啓史はクーラーボックスの蓋を開け、ウーロン茶のボトルを取り出した。

「まだ氷が解けてないから、冷たいんじゃないか。ほら」

「ありがとよ」

ウーロン茶を受け取った時田は、喉を鳴らしながらうまそうに飲み、はあーっと満足そうに息をつく。

「しあわせそうだな」

佐原は思わず言った。

自分がしあわせとは思っていないのか、時田は顔をしかめた。

「俺がか?」

「ああ」

「俺がお前だったら、しあわせかもしらん」

「はあ?」

「お前くらい見目が良ければってことさ。……そしたらなんの不安も感じないだろうからな」

「なんだそれ」

時田は啓史の顔を見つめたまま、唇を突き出してきた。啓史は眉を寄せた。

「なんだってんだ?」

「深野は、俺以上にそう思ってるさ」

深野?

時田が何を言っているのかわからず、啓史は眉をひそめた。

深野は、ミス白百合と、そこそこうまくいっているはずだ。

ミス白百合は、どう考えても深野を好きなようだったし……深野については口にする必要もない。

「深野は何を悩む必要があるんだ。ミス白百合とうまくいってるんじゃないのか?」

「相手がミス白百合じゃ、心休まる暇ないだろうよ」

「どうして?」

「佐原、お前、それは本気の問いか?」

啓史は口を閉じた。

本気の問いだと、何かまずいってのか?

「深野と、ミス白百合が釣り合うと思うか?」

「そういうことじゃないだろ。ミス白百合は深野を好きなんだし……」

「ミス白百合が、ずっと深野を好きでいると信じ込むのは、楽観的過ぎないか?」

「なんで?」

「あんだけ綺麗なんだ。もっと男前で、もっと凄い男にみそめられたら……」

「そんな心配してんのか?」

呆れたように言った啓史に、時田は笑みを消した。

「俺だってな、同じ不安がいつだって胸に取り付いてる。彼女の気持ちが……いずれ俺から離れるんじゃないかってな。お前だって経験……」

時田は急に口を閉ざし、啓史に敵意のような目を向け、鼻の頭に皺を寄せた。

「お前は、我を無くすほど、女に入れ込むようなことなんてないんだろうな。いくらでも女が寄ってくるんだし、とっかえひっかえ……飯沢も同じようなもんだしな……。お前と飯沢には、俺と深野の気持ちはわかんないだろうよ」

時田の勝手すぎる言い草に、啓史は反論したいのをぐっと堪えた。

ここで反論などしたら、興奮している時田の感情を煽り、また同じだけ反論を食らうだろう。

真夜中に、無駄な口論などしてこの場を不味くしたくない。

「好き合ってるのに、信じあえないなんて……」

「なんとも高尚なお言葉だねぇ」

おちゃらけているが、時田の声にはかなりの憤りがこもっているとわかる。

「あのな、時田」

「本気で好きになってみろよ。俺の口にしたこと、ストレートにわかるから」

その声は、意外にもずいぶんと静かだった。

時田はウーロン茶をごくごくと飲み干した。

「あーうめぇ」

そう声を張り上げた時田は、空になったペットボトルをじっと見つめていたが、しばらくしてぼそぼそと語りはじめた。

「好きになると、不安でたまらなくなんだよ。なんでかってな……相手の心から俺のこと、好きの感情が消えちまって……離れて行っちまうかも知れない……」

「そんなこと……」

「いくらでもありえることさ。だけど……本気で好きな相手が離れて行って、バイバイなんて笑顔で手を振れるか?」

ふたりは笑みなく見つめ合った。

「振れないだろうな」

時田がふっと笑った。

「俺の経験上、男より女のほうが気が変わりやすいように思う。深野のために、ミス白百合の気持ちが変わらないことを、俺は祈りたい」

時田は眠りこけている深野に顔を向けた。啓史も深野を見つめた。

「辛い恋なんか、しなきゃいいんだ」

啓史の言葉に、時田が派手に吹いた。

「馬鹿やろ、自分の意志でなんとかなるもんなら、苦労はねえぜ」

その言葉は、啓史の胸の中を掻き回した。

「冗談じゃねぇ!」

啓史は考えるより先に吠えていた。

時田は無論ぎょっとしたが、啓史の叫びにもうひとり目を覚ましたやつがいた。

「な、なんだよ? 脅かすなよ」

深野は寝たまま文句を言った。

「深野」

「うん? 佐原、なんだぁ?」

「恋はお前にとって苦痛なだけか、少しは楽しいか?」

「へっ?」

深野はぽかんとした顔で啓史を見つめ、きょぼきょぼと部屋を見回した。

啓史はそんな深野の反応など見ていなかった。

自分が口にした恋という言葉のせいで、胸に意味不明な震えが走った。

冗談じゃねぇ!

恋という単語とちびすけが、心の中で融合しそうな感覚に恐怖を感じ、啓史は悲鳴に近い叫びを胸の中で繰り返した。





 
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