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満足な思考の結果
「俺、一人暮らしするから」
食事を終えたところで、啓史は何気なく口にした。
家族全員が揃っている夕食時が、話をするタイミングとしては一番だろうと考えてのことだった。
「ほお」
「ほんとに?」
父の相槌は、順平の叫びでほとんどかき消された。
母親は聞いたことをまともに受け止め切れなかったのか、ぽかんとした顔をしている。
啓史は眉を上げるだけの反応をした兄の徹を視界に入れてから、両親に向き、すでに用意していた言葉を口にした。
「明日から、荷物運び込むから」
「は、はい?」
息を苦しげに吐きながら久美子が言った。
「どこに住むのか聞いていないぞ。啓史」
「ああ、うん」
啓史は、記憶している住所を、父に向けて口にした。
「ずいぶん遠いな」
さらに説明を促すように、宗徳が言う。
「そのくらいの距離が……学校からある程度離れてるのがいいと考えたんだ。生徒が近所に住んでるなんてのは避けたい」
「それで、家とは正反対の位置にか?」
「そういうこと」
「だって、で、でも……」
呆然とした表情のまま呟いた久美子は、ごくりと唾を飲み込み、早口で話しはじめた。
「啓史さん、無理よ。だって、お料理とかできないのに。毎日食べに帰って来られる? お、お弁当だって必要なのよ。これからは……」
「大型スーパーが近くにあるんだ。それに、一人暮らしするくらいの能力は身についてるさ」
「家があるのに……部屋いっぱい余ってるのに……わざわざアパート借りる必要なんてないでしょ? 啓史さん、家族みんなで住むのが嫌になったの?」
「母さん、俺は……」
「久美子」
母に説明しようとした啓史だったが、父が母に呼びかけ、自分は口を閉じた。
「宗徳さん……な、何?」
「いいじゃないか」
「えっ?」
久美子は聞いたことが信じられないというように、夫を見つめる。
「一人暮らししたければすればいい。学ぶことが多いだろう」
「宗徳さん、そんなの……」
「久美子。子どもは巣立つもんだぞ」
「でも、だって、啓史さんは、これから先生になるのよ。生活がすごく変わるのよ。ただでさえ大変なのに」
「母さん、啓史の気持ち、尊重してやれば。この家には、俺も順平もいるんだしさ」
パニックを起こしているように見える母親に、徹はやさしい口調で言う。
「そ、それはそうだけど……」
母にすれば、あまりに突然な、降って湧いたような話だったのだろう。
どうしても受け入れ難いらしく、泣き出した。
母に泣かれて、胸が疼く。だが、やめる気はない。
「週末には、なるべく帰ってくるよ。開発研究部の仕事もあるし……」
久美子が顔を上げて少しほっとしたような表情になった。その様子を見て、啓史は顔をしかめた。
なるべくの意味が、母と啓史とでは、だいぶ違うと思えた。
「啓史?」
「はい」
「私は、引っ越すことに賛成だ。元から気にかかっていたんだ」
「気に……? 何が?」
「開発研究部だ。教師の仕事を優先すると今は言ってるが、お前は夢中になると、寝食を忘れるし、自分の限界の境を、気にもしない。だが、そんな生活をしていたら、いくら若くて元気だといっても倒れかねない」
「それなら、工場に行かなきゃいいのよ」
「そんな息子か?」
宗徳の言葉に、久美子は口を引き結んだ。
自分の息子の性格は、誰よりこの母が知っている。
「そうだな。俺も引越しに賛成だ」
徹の言葉に宗徳が頷く。
順平は、家族がひとり家を出てゆくことが寂しいのだろう、半泣きの複雑な表情をしている。
「でも……どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 啓史さんはいつでも突然なんだから」
「ごめん。これでも言い出すタイミング考えて、話したつもりだった」
「ほんっとに、もおっ」
「啓史、引越しの手伝いは、必要じゃないのか?」
もどかしげな母親の言葉をスルーし、父が尋ねてきた。
「必要な家具は、近くの大型スーパーで揃えるつもりだし、ここから持ち出すのは服ぐらいだから」
「あら、それじゃ、ベッドとか机とか、持ってゆかないの?」
「ここはここで必要だから」
久美子の顔がパッと明るくなった。
「そ、そうよね。週末はここで過ごすんだし、ベッドはちゃんとなくちゃね」
啓史はうんとは言わなかったし、頷きもしなかった。言えばきっと嘘になる。
週末に帰って来るのは、月に一度か二度くらいにするつもりだった。
父の言うように、工場の研究部に顔を出すのは、ほどほどにすべきだろう。
それでも、開発研究部と完全に縁を切るつもりはないし、独自の研究はひとりでも続けてゆくつもりだ。
「いいとこじゃないか? 俺も一人暮らしってやつを、リアルに体験したくなったな」
引越しの手伝いのため、啓史のマンションに来た徹は、全部の部屋を検分し終え、楽しげに言う。
パソコンの設置をしていた啓史は、顔をしかめた。
母親は数日経ったいまもまだ、啓史が離れて暮らすことを寂しがっている。
「兄さん」
「心配するな。少し本気が含まれてるだけの冗談だ」
「兄さん!」
徹がくすくす笑い出した。
「まあ、本気はあってもだ。俺はあの家での暮らしが気に入ってる」
「ん」
ほっとしつつ、啓史はパソコンの画面に目を戻した。
「あとは、テレビとビデオの配線すればいいんだな?」
「うん。悪いね。休みなのに」
「お前には色々世話にもなったからな。それにこれからは……」
徹は意味ありげに言葉を止めた。
なんだか嫌な予感がして、啓史は知らぬふりをした。そんな啓史の反応に、徹が吹き出した。
「お袋のことも心配いらないさ。気にするな。数ヶ月経てば、お前がここで暮らすのもお袋の中で当たり前のことになる」
「そうだよな」
頷いた徹は、何も言わず啓史の書斎になる部屋から出て行った。
テレビとビデオのある居間に行ったのだろう。
ひとりきりになった啓史は、自分の住処となった部屋を見回した。
俺の城だ……
満足感が胸に満ちた。
ついに、一人暮らしという長年抱いていた念願を果たしたのだ。
「望めば叶うものなんだな……」
思わず口にしてしまった自分の言葉に、啓史は笑みを浮かべた。
これからは、なんでも好きなものを食って生きられるのだ。
大型スーパーの惣菜のコーナーには、様々な惣菜が並んでいたし、まずはあれを全部制覇してやるとしよう。
たまに家に帰って、母の手料理を食うのも、きっといまより感謝の気持ちで食べられるに違いない。
就職先に、ひとつだけ気にかかるものが存在しているが、そんなもの当たらず触らず気にしなけりゃいいのだ。
実際、いまの啓史は、ちびすけのことを、それほど思い煩わなくなっていた。
そうさ。ちびすけなど無視していればいいのだ。
これからは同じ学校に籍を置くことになるが、顔を合わせるなんて事はそんなにないはず……
せいぜい、週に何度かの授業だけ……
ちびすけは、啓史の記憶にある姿から、また変化しているに違いない。
次に逢ったとき、どいつがちびすけかすら、俺はわからないかもしれないしな……
そうさ、気にすることはない……
自分の思考の結果に満足し、啓史はパソコンの設定に戻った。
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