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正面衝突 (P184スペース部分)
「早かったな。何かあったのかい?」
部屋に戻った啓史に、荻野が声をかけてきた。
「ええ、あったようなんですが、もう騒ぎは収まってました」
努めて平静に、啓史はロッカーに歩み寄った。
この中に、ジャージが置いてある。
「うん? 着替えるのか?」
唐突に上着を脱ぎ始めたのだから不審に思ったのだろう、荻野が聞いてきた。
「シャツを汚してしまったんで……。すぐに着替えますから」
「ふーん」
どうやって汚したのかと、わけを聞かれなかったことにほっとし、啓史は急いでネクタイを外し、シャツのボタンを手早く外す。
さっさと脱がないと、荻野が汚れを確認しようとするかもしれない。
キスマークなど見られたら、おかしな誤解を与えてしまいかねない。
ボタンを外し終え、シャツを脱ぎ捨てたが、先ほど見たちびすけの姿が頭から離れず、顔が歪んでならない。
ちびすけのやつ、あんな姿で校内を回るなんて……
もちろん、ちびすけひとりじゃないわけだが……
今頃、プラカードを手に、校内をうろうろしているだろうちびすけ……
その彼女を、男たちが好色の目で見ているんじゃないかと思うと、怒りにも似た苛立ちが湧いてならない。
考えたところでどうにもならないのだから、いっそ頭から追い払ってしまいたいのに、どうにも消し去れない。
くそっ!
荻野は、啓史が副担をしているクラスにも行こうと言うだろうか?
ちびすけの様子を見に行きたがっている自分と、近づきたくない自分が、内面でぶつかり合う。
荻野が受け持っていた、いまは三年の生徒たちのいるクラスだけ回ることにしよう。
もうちびすけのことで、イライラしたくない。
荻野は三年の彼らの顔を見に来たようなものなのだから、他のクラスなど回らなくても満足してくれるはず。
そう結論を出した啓史は、思わずほっとため息をつき、丸めたワイシャツをロッカーの中に放り込み、ジャージを羽織った。
ロッカーを閉め、啓史は荻野に振り返った。
「お待たせしました。荻野先生」
「あ、ああ……まあ、それじゃ……行くとしようか」
立ち上がった荻野に頷き、啓史は荻野に続いて部屋を出た。
「ところで、啓史君」
廊下を歩みながら、啓史の横に並んできた荻野が話しかけてきた。
「はい」
「さっきの、君のシャツの汚れについてなんだが……」
荻野の言葉に、啓史はどきりとし、ぎこちなく顔を向けた。
「なんでしょう?」
努めてさりげなく問い返す。
荻野は足を止め、意味深な眼差しを向けてくる。
啓史は仕方なく足を止めた。
荻野は、彼が何か言うのを待っているようだが、啓史は黙ったまま荻野の言葉を待った。
「やっぱり……どうしてもなおざりにできなくてね」
はやり、あのキスマークに、荻野は気づいていたらしい。
部屋に入った瞬間、キスマークが荻野の目に入らないように、身体を逸らしはしたが、注意を引きたくなくて、あえて手で隠すようなことはしなかった。
「教師か、事務職員か……」
何も言おうとしない啓史を見て、荻野は顎に手を当てて、考え考え口にする。
あまりに見当違いな推理に、啓史は思わず吹き出しそうになったが、考え込んでいる荻野は、啓史が笑いを堪えていることに気づかない。
「校外の者じゃないよな。まだ開始前だったからな」
「荻野先生が思っていらっしゃるようなことではありませんよ」
「啓史君、心配するな。学校長にも誰にも、他言したりしないさ」
「生徒とぶつかったんですよ。校舎の角を曲がったら、プラカードを持ったのがいて……そいつが化粧をしてたんですよ」
「ほお、真実味のある話だな」
「真実ですから」
「そうか。ふむ」
荻野は、啓史の目をじっと見据え、ふっと笑う。
どうやら啓史が真実を誤魔化すために、嘘をついてるわけではないと、わかってくれたらしい。
「だが、そいつは……もちろん野郎じゃなくて、女子生徒なんだろ?」
「それは……ええ」
「その子、君とぶつかって転んだのか?」
「いえ。咄嗟に抱き抱えたんで……」
「ほおっ。はっはぁ~、それであのキスマークがついたわけか。こりゃあ、その女子生徒、さぞかし嬉しかっただろうな」
「……嬉しい?」
荻野の言葉があまりに意外で、啓史は戸惑い顔で聞き返した。
そんな啓史の反応がおかしかったらしい、荻野がくすくす笑う。
「そりゃあもう……啓史君、君に抱きしめられたんだぞ。嬉しいなんて表現じゃ足りないくらいの喜びようだったんじゃないか」
馬鹿馬鹿しい……
苦々しさを感じながら、啓史は胸の内で呟いた。
「ありえませんよ」
「知ってる生徒だったのか?」
「まあ……」
「ほおっ」
荻野はなぜか腕を組み、眉間を寄せて考え込んだ。
「荻野先生?」
「啓史君、君、その子には、これから充分気をつけたほうがいいな」
言われている意味が理解出来ず、啓史は眉をひそめて荻野を見返した。
ちびすけに気をつけろと言われても……いったい何を気をつけろと言うのか?
「わからないのか?」
啓史の反応に、荻野は呆れたように言う。
「え、ええ」
「あのな、啓史君。そういう接触はだ、君と近くなったような妄想を抱かせるもんなんだ」
俺と近くなったような妄想……? ちびすけが?
つまり、あの接触で、ちびすけが、俺を異性として意識したかも知れないと、言いたいのか?
胸がトクンと跳ね、啓史は思わず胸に手を当てた。
もし、そうだったら……
喜びがじわりと湧きそうになった瞬間、荻野が言葉を続けた。
「まあ、君は好みじゃないって女生徒だったら、話は別だが……」
喜びはぺコンとへこみ、啓史は胸に当てていた手をむしゃくしゃした気分で下した。
「そんな生徒は少ないだろうからな」
重ねて言われた言葉は、啓史のへこみを復活させはしなかった。
「問題ありません。彼女は俺なんかなんとも思っていませんよ。さあ、荻野先生、行きましょう」
荻野を促し、率先して歩き出したが、啓史はいまの自分の言葉に、打ちのめされたように、胸がひりついた。
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