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ありがたい思い
「感傷に浸ってんのか?」
突然頭の上から降ってきた声に、啓史はぎょっとして顔を上げた。
驚くほど近くに徹が立ち、啓史を見下ろしていた。
いつの間に入ってきたんだ?
「煙草、灰が落ちそうだぞ」
徹の注意に、啓史は手にした煙草にさっと目を向けた。
煙草の灰はいまにも落ちそうなくらい伸びていた。
「あ、ああ。悪い」
啓史は煙草を急いでもみ消した。
「今の時期ってのは、教師にとって感慨深いもんがあるからなぁ」
徹の勝手な解釈の言葉を、啓史はそのまま受け取ることにした。
三年生が自由登校となり、彼らの顔を見ることも稀になった今、それに即した感慨を感じている部分も、確かに心にある。
「……そうだな」
「昼食仲間ってのがいなくなったのが寂しいんだろうが……、生徒が巣立ってゆくのは止めようがない……仕方がないさ」
慰めるように徹は言った。
虚しさの巣食っている自分の心から気を逸らし、啓史は徹に向いた。
「今年は一年の担任だったから、徹兄は感傷にかられずにすむな」
「まあな……」
徹は「よっこらしょ」と言いながら、ソファに座り込んだ。
「コーヒーでも淹れようか?」
「いや、いい。啓史、お前、何かあったのか?」
「なんで?」
「ただ昼食仲間を失くしたってだけじゃない、悲観ぶりに思えてな。なんかしらんが、ずいぶんと苛立ってるようにも見えるが?」
徹の視線は、啓史に当て付けるように、灰皿に山盛りになっている煙草の吸殻に向けられた。
「お前、ムカムカするようなことがあると、途端に吸う量が増えるよな」
「俺にだって……色々あるさ」
「どんな色々があったか、家族としては気になるんだが?」
啓史は心の中でため息をついた。
きっと、母親からでも、啓史の様子を探ってきてくれと指令が出たのだろう。
嘘ではない説明をする必要がありそうだ……
「化粧の派手な教師がいるんだ」
「はあ?」
「そいつに、やたら困らされてる。人の話が耳に入らないってのか、扱いに困るんだ」
「そりゃまた……。しかし、橘の伯父貴、なんでそんなのを?」
「産休している教諭の代理」
「そうなのか? 代理にしても、もっといいのがいただろうにな」
「産休に入ってる教諭が、早産だったらしいんだ。伯父貴の話じゃ、元々予定していた人物は、その火急の事態に応じられなかったらしい」
徹が声を上げて笑い出した。
「何がおかしい?」
「いや。お前、相当伯父貴に文句言っただろ?」
図星だった。啓史は苦い顔で笑いをこぼした。
「そりゃあな」
「産休で休んでる教師、まだ復帰しないのか?」
「生まれた子どもが、心臓に欠陥があったとかで、産休が伸びてるらしいんだ」
「そりゃ気の毒だな」
「ああ。けど、いまはよくなってるらしいし、復帰の意志もあるらしい」
「万が一復帰しないとなると、その代理教諭、そのまま残ることになるんじゃないのか?」
「あって欲しくないこと口に出さないでくれないか」
啓史は眉を寄せ、鋭い目で徹に文句を言った。
「わかったわかった。それで? お前、今日も泊まってくんだろ?」
「そのつもりだけど」
マンションでひとりきりでいると、気が滅入るばかりだ。
気を紛らわせるものが欲しくて、新機種のゲーム機を買ったが、それほど役に立ってはいなかった。
週末くらいは自分以外の者がいる家で……鬱々と考え込む時間を少なくしてくれる家族らと……過ごしたかった。
好きで一人暮らし始めたってのに……自分に呆れる……
「なあ、聞いてるのか?」
肩を叩かれて、啓史は顔を上げた。
「うん? 何?」
「酒飲まないかって聞いたんだ」
「ああ、いいね」
徹は頷きながら立ち上がった。
「それじゃ行こうぜ」
「どこに?」
「まったく人の話聞いてないな。こりゃあ、よほど代理教諭に悩まされてんだな?」
「その話はもういいよ。それで?」
「ああ、飲もうってのは親父の提案さ」
そう聞いて、いくぶん躊躇いが湧いた。
父の洞察力……
啓史は顔をしかめた。
あまり酔わないほうがよさそうだ……
それでも啓史は立ち上がり、兄に向けて「行こうか」と言った。
彼を思いやってくれる家族の気遣い……ありがたかった。
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