ナチュラルキス
natural kiss

啓史サイド
最悪な時の最悪な訪問者



「好意は有り難く受け取っておきます。ですが、甘いものは大嫌いなんです。処分に困るからいりません」

啓史の前に立った熊谷は、顔に苦笑を滲ませて、おどけたようにそう言った。

たったいま、啓史が口にした言葉だ。

表現を変えて、今日、何度繰り返したか分からない言葉……

啓史は熊谷にしぶい顔を向けた。

「熊谷先生」

熊谷は、目的地に向けてまた歩き出した。

熊谷は歩く速度が早い。

啓史も熊谷の横に並び、相手の歩調に合わせて歩き出した。

「何も、全部切り捨てるように断らなくても……同僚が好意でくれるチョコくらいなら、受け取ったらと思うがね、佐原先生」

熊谷は、いま貰ったばかりの義理だというチョコを、啓史に振って見せながら言った。

「嫌いなのは事実ですし、真実、処分に困るんですよ」

「もらっておいて、誰かにあげればいいだろ?」

啓史は肩を竦めて、そこで会話を切り上げた。

そんな面倒は抱え込みたくないし、一つ貰うとさらに面倒なことになるかもしれない。

これまでこれで通して来たのだし、これからも、誰からだろうと受け取るつもりはなかった。

「バケ子女史は、放課後を狙ってるらしいぞ」

え?

他に聞こえないようにという配慮だろう、かなり抑えた声だった。

「放課後? 狙ってるって、どういうことですか?」

「口が軽いからなぁ。彼女の作戦は筒抜けだ。おかげで君は、物理教諭に……」

「熊谷先生」

聞きたい言葉が遠ざかり、話が本線を離脱してゆくのを、啓史はきっぱりした呼びかけで止めた。

「いったい何を?」

「ああ、つまりな」

込み上げる笑いのために熊谷はいったん言葉をとめ、笑いを押し殺してやっと話しだした。

「どこぞのレストランを、君と彼女の素敵なディナーのために、予約してるんだそうだ」

歩きながらだが、啓史は口をぽかんと開けた。

あまりに馬鹿馬鹿しい話に、その言葉の内容を正しく胸に収めるのに、彼は少々手間取った。

「はあ?」

「いいねぇ、その反応。それが楽しみだったんだよ」

言葉以上に楽しげな熊谷に、啓史は肩を落とし、疲れた息を吐いた。

「……熊谷先生……」

相変わらずの早足で歩いている熊谷は、歩調を緩めぬまま、啓史に少し身を寄せてきた。

「放課後、たぶん車の辺りで待ち伏せるつもりらしい。今日は車を置いて帰ったほうがいいんじゃないか」

「家はかなり遠いんです。車でないと不便なところなんですよ」

「そうか。それじゃ、まあ、君のために一肌脱いでやるか」

「ですが、どうするつもりなんですか?」

「なに、簡単なことさ。君は帰ったぞって伝えてやるよ。彼女が学校から消えたら、君は悠々と帰ればいいさ」

啓史はほっとした。

熊谷の助けで、簡単にこの難は逃れられそうだ。

「助かります。すみませんが、よろしくお願いします」

啓史は心からの感謝を込めて頭を下げた。

「君も苦労だねぇ」

気の毒がっているような感じではまったくない、愉快そうに熊谷は言った。

苦笑いで応えた啓史は、通路の角で別方向に行く熊谷に、感謝を込めて手を上げた。

授業終了のベルがなり、啓史は教卓の教科書をパタンと閉じた。

「それじゃ、ここまで。レポート提出の間に合わなかった者は、明日までにいつもの場所において置くように」

生徒達が頭を下げ、ばらばらと立ち上がり、帰り支度を始めた。

広澤にさっと目を向けた啓史は、眉を寄せた。

この後、何か用事があるのか、ずいぶんと急いでいるようだ。

啓史が広澤を呼び止めようとした時、目の前に女生徒が数人やってきて、啓史を囲んだ。

「佐原先生」

「あの、これ貰ってください」

「あーん、わたしが先よぉ」

啓史が眉をひそめて、女の子特有の甲高い華やいだ声を上げる女生徒たちに気を取られた一瞬に、広澤はさっさと教室のドアから出て行った。

彼は強烈な歯がゆさが湧いた。

「好意だけ受け取っておく」

教材を手にした啓史は、さっと踵を返しそのまま自分の部屋に向かった。

「ええーっ」

女生徒たちのがっかりした声があがるのと同時に、男子生徒たちの笑い声が聞こえ、ドアを開けて部屋に入る時には、ちゃかすような拍手まで聞こえた。

バレンタインデーがそんなに楽しいのか?

ソファに座り込んだ啓史は、呆れる思いでそう考えた。

今日の学園は、浮かれた空気が蔓延しているようだ。

沙帆子は、チョコを用意してきたのだろうか?

飯沢と江藤に煽られるまま、すでに、広澤に渡したのかもしれない。

今日の広澤の授業中の様子を思い出し、啓史は、それはないだろうと思い直した。

貰っていたら、いつもの落ち着きをなくして、あんな風に、そわそわしてはいないに違いない……

もしや、昼に貰う約束になっているのでは?

だからあんなに落ち着かなかったのかも……

啓史は顔を強張らせ、唇を引き結んだ。

かもしれない……

そして、……カップル……成立か?

強烈に胸が焼け、頬がヒクついた。

にやついた悪魔が、彼の耳元で、残酷な宣告をするために、カウントダウンしているような気がした。

絶望感に駆られた啓史は、片手を振り上げ、テーブルの上に置いてある教材を、力任せに叩き落とそうとした。

その瞬間、ドアをノックする音がして、彼の愚かな動作を、思いとどまらせた。

「佐原先生ぃ」

この声……

気分が悪くなった。

間違いなくバケ子女史だ。





 
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