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ドア外の会話
「お昼ご一緒しましょうよぉ」
鳥肌がたつほど下卑て聞こえる甘えた声……
するわけがない!
啓史は気配を消し、むかつきが頂点をついたような顔で、息をひそめた。
鍵のかかったドアを開けようとした時に生じる「カタ」という小さな音を耳にした瞬間、「えーっ」という声があがり、啓史は眉を寄せた。
「先生、佐原先生とお昼の約束してるんですか?」
棘のある声がした。
なんだぁ?
どうやら、外にいるのはバケ子女史だけではなかったらしい。
「え?ええ、もちろんよ。そうじゃなきゃ、わざわざこんなところまで私は来なくてよ。貴方たちは? 何しにここに来たのよ?」
バケ子女史特有の、お高く気取った言葉と、相手をさげすんだような下品な言い回しのミックス。
なんでこんなのが、この学園にいるかな?
啓史は何度も繰り返した思いを胸に抱き、もやもやする思いを息とともに吐き出した。
「チョコを貰ってもらおうと思って……」
「無駄無駄。どうせ彼、絶対に貰わないから」
「ど、どうしてですかぁ」
不服そうな声に対して、ふふっという毒のある優越のこもった笑いが聞こえた。
「啓史さん、私からしか貰わないって」
啓史は顔を歪めた。口元が怒りにヒクつく。
黙って聞いているのがだんだん苦痛になってきたが、バケ子女史の前にわざわざ出て行って、これまでも体験したような、出口のない口論を繰り広げるなんてまっぴらだ。それも生徒たちの前で……
バケ子女史には、どんなに憤りが湧いても、近寄らないに限る。
「ええーっ、付き合ってるっていうんですか?」
「そんな話、聞いてませんよぉ」
バケ子女史という人間性をよく理解しているのか、バケ子女史の言葉を、まったく信用していないようで、啓史はいくぶんほっとした。
それにしても、彼がこの中にいる可能性があるのに……
「彼はシャイな人だから、人前では認めないわね」
きっぱりと言う。
啓史はあきれ返った。
さっさと全員いなくなってくれればいいのだが……
啓史は携帯を取り出して、数秒思案し、電話をかけた。
相手は熊谷だ。
彼に頼ってばかりになるが、他に頼める人物はいない。
啓史は部屋の窓側に行き、携帯を口元に当てて、声が洩れないように手で覆った。
「はい」
「先生、申し訳ないんですが……」
「おお、どうした? 佐原君」
「それが、困った事態に……」
「ははーん、部屋から出られなくなったのかな?」
愉快そうでのん気そうな熊谷の声に、啓史は苛立つ思いをなんとか静めた。
「いちいち相手にするのが面倒なら、外に出て、煩い、散れ!と怒鳴ってやればいいですよ。クモの子を散らすみたいにいなくなりますよ」
「生徒だけならそうしますよ」
「はあ? それじゃ、誰がいるんです?」
「バケ子教諭ですよ、もちろん」
「え……、あ、あれ、おかしいな」
おかしい?
「先生?」
「行くはずないんだが……」
「どういうことですか?」
「君は校長室に呼び出されてるって、教えておいたんだが……。ちょっと待ってください……」
熊谷は電話の向こうの誰かに何か言ったようだった。
ドアの外ではまだバケ子女史と女生徒達との険悪そうな会話が続いている。
しばらくして、熊谷が電話の向こうに戻ってきた。
「わかりましたよ。女史は、そこにいる女生徒達を追い払いに行ったらしい」
啓史は眉を寄せた。
それでは啓史はここにいないと分かった上で、言いたい放題言っているというわけか……
「佐原先生」
苦々しい思いで考え込んでいた啓史は、熊谷の声に意識を戻した。
「はい」
「君を救う声が、すぐに聞こえるはずだから」
いったい何のことかと、眉をよせているところに、校内放送が入った。
バケ子女史を呼び出している。
大至急、職員室に戻るようにという内容だった。
「まあ、何かしら」
不満そうなバケ子女史の声が聞こえた。
「あなたたちぃ、もう諦めて散りなさい! ほらっ、ほらっ」
「えーっ」
複数の反抗的な叫びが上がった。
「佐原先生と約束してるんだったら、佐原先生、どうして先生の呼びかけで出てこないんですかぁ?」
「そうですよ。それって佐原先生は、この部屋にいないってことでしょう?」
「だよね。ってことは、先生は、約束なんかしてないってことですよね?」
食って掛かるような言葉を、バケ子女史は高笑いで弾き飛ばした。
地声もやたらでかい女だが、笑い声もやたらでかい。
ドアが閉じているというのに、はっきり聞きとれるほど……
それとも、生徒達を挑発するつもりで、わざとか?
「おバカさんたちねぇ、あなたたちが、ここにいるからよ。人の恋路の邪魔して、ほんといまどきの若い子はしつけがなってないったら……」
バケ子女史を呼び出す至急の放送が、また始まった。
「はいはい。行くわよ、もおっ」
口汚く罵るように言う。
物理教諭は、こんな女のどこがいいのだろう?
啓史には理解できない謎だ。
カツカツという甲高い足音が聞こえ、徐々に遠ざかっていった。
災いが足音と一緒に遠ざかってゆくような気がして、啓史はムカツキが残った心ながら、盛大に安堵した。
熊谷には、何かそうとうのお礼をしなければならないようだった。
啓史はソファに音を立てないように座り、ぐったりと身体を沈み込ませた。
外では、女生徒たちの、いまの出来事について論じ合うような会話が続いている。
ほっとしたところで、啓史は煙草が吸いたくて堪らなくなった。
五時間目は、沙帆子たちのクラスの授業だ。
やってきた彼女の様子で、広澤とのことがどういうことになったのか、彼に分かるだろうか?
頬を染め、照れの混じった恥ずかしげな顔で座っていたりしたら……
頭にカッと血が上って、彼女の首を絞めそうになるかもしれないと、本気の不安が湧く。
落ち着くために、コーヒーでも飲もうかと考えたが、こんな最悪の精神状態ですきっ腹に刺激のある飲み物など胃に流し込んだら、気を落ち着かせるどころか、気分が悪くなりそうだ。
ドアの向こう側では、益々女生徒たちの話し声が大きくなってゆく。
時が過ぎるごとに、外にいる人数は増しているようだった。
その中に沙帆子がいるなんてことは?
希望まじりにそんなありえないことを考えたせいで、自分に対する軽蔑が湧き、巨大な虚しさに取りつかれた。
天地がひっくり返っても、そんなことはない……
昼休み時間が終了するまで、彼は何も行動することが出来ないまま、彼に悪意を持っているとしか思えない時だけを相手にしていた。
一秒一秒が、彼の胸をチクチクと刺す。
時間がこんなにも長く感じられたのは初めてだった。
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