ナチュラルキス
natural kiss

啓史サイド
隔靴掻痒(かっかそうよう)



夕食のおかずを口に入れた啓史は、周囲の者に気取られない程度に眉を寄せた。

甘い……

啓史は彼の周りで、同じおかずを食べている家族の様子を窺った。

みな、ことさらリアクションもなく食べている。

彼は内心首を捻った。

甘みが以前より増したように思うのは、甘みへの嫌悪からくる彼の思い込みだろうか?

それとも、舌が甘みに敏感になりすぎているのだろうか?

甘みに辟易しながらも、彼は残すことなく口に放り込み、飲み込んだ。

身体が、甘味に拒絶反応を起こしているとか?

そう素人診断しつつ、彼は唯一甘さが含まれていないお茶を口に含んだ。

母には申し訳なかったが、最後のお茶が一番うまい。

もしや、彼の味覚は成長過程のどこかで狂ったのだろうか?

啓史はお茶を二杯お代わりし、忍耐力が必要な食事を終えると、ご馳走様の言葉とともに立ち上がった。

「早いね、忙しいの?」

隣で飯を食べている最中の順平に聞かれ、啓史は弟に顔を向けた。

「まあな」

料理の甘さに身体が反逆を起こしかけているから、煙草を吸いに行くつもりだなどとは言えず、彼は適当に言葉を返した。

「徹兄、今夜も遅いのかな?」

順平がつまらなそうに言う。この最近、徹の帰りが遅いのだ。

「三月だから、忙しいのよ。今年から担任持ってるし……三年生は卒業だから……」

久美子が順平に向けて言った。

卒業か……社会人となったいまの自分とは、無関係の単語……

三月なのだということの意味が、彼の中で急に色を増した。

彼自身は季節など関係なく、大学の研究と仕事にかかりきりで、周りに気を向ける気持ちなどなかったが……

母親の言うとおり、いまの時期、教師である徹は忙しいだろう。

そういえば、ここ最近、顔を見ていない気がする。

居間での喫煙を遠慮することもなかった。あれは徹がいなかったからだ。

「兄貴、何時くらいに帰ってくる?」

「徹ちゃんは……そうねぇ、その日によって違うわよ。早いときは八時くらいだし、遅いときは十二時くらい……今夜は早いと思うわよ。夕食いらないって言ってきてないから」

「そう」

「徹ちゃんに何か用事?」

「いや、別に……ただ、このところ顔見てないなと思ったから……」

啓史は部屋を出て母屋の居間に入った。

灰皿を用意して座り込むと、すぐに煙草を取り出して火をつけた。

この家で煙草を吸うことが許されている唯一の場所。

もちろん、外に出ればどこででも自由に吸えるが、いまはまだ夜風は冷たい。

右脚を左脚にかけてくつろぎながら、彼は肺いっぱい吸い込んだ煙を、満足しつつゆっくりと吐き出した。

どうにもならない甘味への拒否感……このままじゃ、やってられない……

家……出るかな?

頭の中に住み着いている考えが、浮上する。だが……

これだけ部屋が余っているというのに、家族は賛成しないだろうし、何故と問うだろう。

誰より、母親が引き止めにかかるだろうと思えた。

家族と一緒にいるのが嫌なわけではないのだし、これだけ自由に生活させてもらっていることに感謝もしている。

だからなおさら、母親の手料理が口に合わないなどとは言い出せない。

啓史は煙草の煙を吐き出し、考え込んだ。

あと、一年……我慢するか……

社会人になれば、一人暮らしも反対されないのでは……?

だが、大学を卒業後は、父親の会社に入社するつもりでいる。こんなに職場が近いのでは、なんで家を出ると言われるだろう。

啓史が家を出るのは当然と、家族が納得するような正当な口実など見つけられるだろうか?

煙草を口に咥え、啓史は顔を曇らせた。

なんとか理由をつけて一人暮らしを始められたとしても、仕事帰りに夕食を食べて行けと言われるのは、明らかではないか。

それではまったく、家を出る意味がない。

啓史は短くなった煙草をもみ消し、また一本取り出して、火をつけた。

なんの妙案も浮かばない。どれだけ考えたところで、これぞという策などありそうもない。

彼は気を落とし、ため息とともに煙を吐き出した。

「啓史さん、いる?」

母親の声が、ノックのあとに聞こえた。家を出る方法をマジになって考えていた啓史は、どうにも気まずさを感じてしまい、組んでいた脚を外して座りなおした。

「いるよ」

ドアが開き、母親が顔を見せた。

「何か用事?」

啓史は、火をつけたばかりの煙草をもみ消しながら尋ねた。

「あのね、……徹ちゃんに、声かけてみてくれないかしらと思って」

母親に向けて、啓史は眉を上げた。

「ん?」

「あの、なんかね……」

母は、啓史がもみ消した煙草の吸殻に、ちらちらと視線を向けつつ言葉を続ける。

「徹ちゃん、元気がないのよ。……ご飯食べてても落ち込んでるみたいに見えるし、あんまり笑わないし……なんかあったのかなって……」

徹の現状と同じほど、灰皿が気になるようで、本人自覚なしのようだが、母親の視線は灰皿と啓史を行ったりきたりしている。

佐原家で煙草を吸うのは啓史だけ。
煙草が好きじゃない母は、啓史に煙草をやめて欲しいのだ。

きっかけがあるたびに、煙草の害を説こうとしたがって参る。

啓史は母親の無言の訴えに対して、無言の抗いを込めて灰皿を指先で叩き、煙草の箱を掴むと、新しい煙草を取り出そうとした。

母の目が哀しげに曇り、啓史の胸がつくんと痛む。

理不尽さが心に巣食った。それでも彼は煙草を取り出すのをやめ、煙草の箱をテーブルに放った。

いまだけの安堵が、母の目に浮かぶ。

啓史は短い息を吐くと、おもむろに口を開いた。

「わかった。声かけてみるよ」

「お願いね」

ほっとしたように、感謝のこもった声で言うと、久美子は気がかりを含んだ目でテーブルの上に転がっている煙草を見つめたが、何も言わずに出て行った。

啓史は遠ざかってゆく足音を耳にしながら、煙草の箱を掴み、ポケットの中に押し込んだ。

「一人暮らしさせてくれるなら、いますぐやめてもいいよ」

すでに目の前にはいない母に向けて彼は小声で呟き、そんな自分を苦く笑った。





 
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