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癒しの兆し
「啓史君」
荻野の声に、啓史は顔を上げた。
「相変わらずうまそうじゃないか?」
荻野が言っているのは、啓史が蓋を開けたばかりの母親の手製の弁当だった。
大学四年の教育実習生の弁当とは思えないカラフルさ、そして口にしたことのない荻野は知るよしもないが、啓史には甘みの強すぎる弁当。
初日にいらないと言ったのだが、毎朝食卓に置いてあるのでは抱えて来ないわけにもゆかない。
啓史は、荻野が手にしている業者の配達してくる弁当を、ついつい羨ましさのこもった目で見つめた。
「一人住まいの独身者には、ずいぶんと羨ましいぞ」
だったら取り替えてくださいと口から転げ出そうになる言葉を、啓史はぐっと堪えた。
ひとに食べさせたと知ったら母親はがっかりするだろうし、この甘さでは荻野にも気の毒だし、母の味を他人にまずいと思われるのはなにより嫌だ。だが、この手作り弁当も……明日まで……
「しかし、早いなぁ」
最初のおかずに箸をつけながら荻野が言った。
「たった二週間なのに、いるのは当たり前みたいな感覚になるもんだな」
啓史は同意を感じて頷いた。
しみじみとした荻野の語りに、啓史の胸にもジンとしたものが込み上げる。
実習も明後日で終わりだ。来年、何事もなくことが進めば、啓史はここの化学教師になるが、そのときには、当然荻野はここにはいないのだ。
「来週から寂しくなるな」
「いい経験になりました」
「バケ子女史のことか?」
からかいだとわかる言葉に、啓史は鼻の頭に皺を寄せて、荻野の言葉を一蹴した。
荻野がくっくっと笑う。
「手を焼いたろうが……ああいう女性も世の中には普通に存在してるってことだよ。いい学びになったと思えば、あの迷惑なやからにも価値が出てくるってもんさ」
啓史は苦笑した。
これまでの人生、バケ子女史だけでなく、似たような女にはすでに幾人も出会っている。
だが、あのバケ子女史に好意を寄せている者もいるのだ。
物理の教諭……堅物な感じの……融通の効かなそうな人物だ。
自分に惚れていることを知っているバケ子女史に、物理教諭はいいように扱われていると荻野から聞いた。
実際、啓史もそれを事実として目撃してもいた。
歯がゆいものを感じるし、バケ子女史の好き勝手な行動ははたから見て気分のいいものではないが、他人が口を出すようなことでもない。
弁当を食べていた啓史は、徹の頼みを思い出して口元を固く結んだ。
ちびすけがどんな学園生活を送っているかなど、啓史の知ったこっちゃない。
そう思うものの、徹になんらかの報告をしてやっても悪くないだろうと思う自分がいる。
けれど、廊下ですれ違って以降、ちびすけとは遭遇していない。
手洗い場の付近を通るたび、チビの姿があるかと無意識に目線を飛ばしている自分に気づくたび、イラついてならない。
俺ときたら、まったく滅茶苦茶だな……
実習も明日までしかない。
もうちびすけに会うチャンスはないだろう……
ドアを軽く叩く音がした。
啓史はドキリとして、思わず荻野と目を合わせた。
荻野は眉を寄せている。
もしや、昨日に引き続きバケ子女史がやってきたのではと思ったのは、荻野も同じだったようだ。
「私だ」
伯父の声だ。
啓史は肩から力を抜くと、荻野に苦い笑いを向け、ドアに歩み寄ってカギを開けた。
「どうしたんですか?」
「用事があって来たに決まっとるだろ」
「用事? 電話で充分でしょう?」
「別に直接来たからって、悪くないだろうが?」
「まあまあ」
向かい合って言い合っているふたりの間に、荻野が笑いながら割って入ってきた。
「学校長、とにかく座ってはどうですか?」
「おお。ありがとう。荻野君」
広勝は勧められるまま、啓史が座っていた場所に座り込んだ。絶対にわざとだ。
啓史の食いかけの弁当を覗き込んだ広勝は、顔を上げてにやついた。
「うまそうじゃないか。こいつは久美子の作か?」
「ええ」
「まるで幼稚園児の弁当だな」
言うと思った。
「伯父さんの言葉、そのままお袋に伝えておきますよ」
「おいおい、冗談に決まっとるだろ」
「それで、用事ってのはなんです?」
「ああ。明日の夜、君らふたりを夕食に誘いたいんだが、どうだ?」
「嬉しいですね」
荻野は嬉しそうに即座に言った。
「そうかね。バーベキューをやろうと思っとるんだ。明日の朝は、ふたりとも果樹園の家に車を置いとくといい。もちろん泊まってってくれ」
啓史は伯父の言葉に、思わず眉を上げていた。
「あの果樹園の家で、バーベキューを?」
荻野が問い、伯父が頷いた。
なかなか言葉を口にできないでいる啓史を置き去りにして、荻野と伯父の会話が続く。
「ああ、私らは今日から泊まり込むことにしとるんだ」
「楽しみですよ」
「それじゃ、明日」
「もう行くんですか?」
「ああ。私も甥っ子に思われているほど暇をもてあましておらんのでね」
啓史に当てこすりを言うと、広勝はさっさと部屋から出て行った。
「やっぱり電話で用が足せたじゃないか」
箸で弁当をつつきながら、すでにいない伯父に向けて、啓史はあてこすりの返しのように呟いた。
「君の顔がみたいのさ」
荻野が笑った。
「君もわかってるんだろうが……啓史君がここにいるのを、自分の目で実際に見て確かめたいんだ」
荻野の言葉に対して、啓史は素直に頷く代わりに肩を竦めた。
「しかし、良かったじゃないか。なあ、啓史君」
啓史は荻野に顔を向けずに頷き、食事に戻った。
癒しのときが近づいている……ということなら、どんなにか良いだろう……
細い道を車で走りながら、啓史は窓を開けて朝の空気を胸に吸い込んだ。
緑色の世界を作り出している果樹園は、果実独特の青くて甘い匂いが満ちているような気がした。
ここからは少し離れている場所だが、桃畑もある。
いまの時期は、たわわに実っているに違いない。
啓史は慣れた道を曲がり、果樹園の家の前に来て車を止めた。
伯父の車が一台だけ停車していて、啓史の車の音を聞きつけたのか、玄関のドアが開いた。
「よお」
「伯父さん、おはよう」
車を降りた啓史は、玄関に歩み寄りながら伯父に声をかけた。
伯父の後ろから、伯母も顔をのぞかせた。
「啓史さん、出勤なさる前に、コーヒーでもいかが?」
出勤の言葉に、ちょっとしたからかいの含みを感じ取りながら、啓史は笑い返した。
「ええ。いただいてくかな」
「気持ちがいいし、外の方がいいわね」
そう言うと、伯母は家の中に姿を消した。
「座って待とう」
伯父が椅子に座りながら促してきた。頷いた啓史は、伯父に歩み寄っていった。
横長の大きなテーブルに手をつき、その木目の懐かしい感触を味わいながら、啓史は椅子に座り込んだ。
「いい季節ですね」
「ああ。ここの空気は安らぐ」
目を細めて口元に笑みを浮かべている伯父の瞳の中に、見慣れた憂いがあるのを認め、啓史の胸がちくりと痛んだ。
「ええ、ほんとうに」
啓史はそう答え、目にしている情景を、無意識に過去の記憶と重ね合わせていた。
伯父と伯母が、溺愛というほど愛を注いでいた飼い犬が、啓史の記憶の中で、尻尾を振りながら元気に跳ね回る。
伯父がいまの家を建て、この住み心地の良い家を出たのは、子どもを授かれなかった夫妻が、息子同然に可愛がっていた犬が死んでしまったからだった。
たかが犬という者もいるかもしれない、だが、伯父も、そして伯父以上に伯母の悲しみは、容易には癒されぬほどに深かった。
もちろん、数え切れないほどじゃれあって遊んでやった思い出を持つ啓史の胸にも、小さくない空洞ができた。
ふたりの慰めになるような言葉などなにひとつかけてやれず……それは啓史の中で、取り残してしまった後悔となっていた。
あれ以後、まだ伯父の口からも伯母の口からも、愛犬の名は懐かしむような笑みとともには出てきていない。
だが、こうしてここで、過去と同じにバーベキューをやろうという気持ちになれたということは、癒しのときも近づいていると思っていいのではないだろうか?
コーヒーを勧めてくれた、いつもと変わりない伯母の笑顔……
安堵と喜びが啓史の胸の中で膨らんだ。
特別といえるコーヒーを味わった啓史は、最後の教育実習の日を迎えるために、学園との境の生垣に設置されている両開きの扉を開けて校舎へと入った。
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