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乱れた鼓動と苦い笑み
「どうした?」
居間のソファーにうつ伏せになって転がっていた啓史は、部屋に入ってきた徹の登場に「ああ」と、どうでもいい返事をした。
「そんなに実習は荷が重かったか?」
「……そんなでもない……」
実際、まるきり覇気のない様子で寝転んでいるくせに、そんな言葉を口にしても嘘っぽいだろうが、実のところ、それは本心だった。
実習生としての二週間は、思う以上に満足感を得られ、楽しいことの多い経験の場だった。
教師としての仕事も授業も、人並みの緊張はしたが、有意義で楽しかった。
ただ、二週間の実習を昨日終えたばかりで、張り詰めた糸が切れたのか、けだるい気分に取り付かれている。それに……
「夕べ、伯父貴のとこで飲みすぎたからな……」
「そうだってな。果樹園の家……だったんだろ?」
啓史は起き上がり、ソファに座って深くもたれた。二日酔いの症状で、微弱ながら頭痛がする。
「ああ。驚いたよ。あの家でのバーベキューってのは、久しぶりだった」
啓史は昨夜の出来事を思い返して、目を細めた。
荻野を交えて、ずいぶん楽しい夜だった。
酒を飲み、美味いものを食って……
「良かったよな」
徹が同意を含めて言葉をかけてきて、啓史は真面目な顔で頷いた。
「いい傾向だと思う。あの家は、俺にとっても特別だし……」
「やっぱ、俺も行けば良かったな」
「くればよかったのに。伯父貴、兄さんを呼んだけど断られたって、がっかりしてたぞ」
「行きたいのは山々だが……伯父貴の期待に触れるのがな……」
そう言って苦笑する。
橘の伯父は、徹が中学の教諭になったことで、もしや徹は、いずれ自分の跡取りにという思いを持っている。啓史が駄目なら徹にと考えるのは当然だろうが……
徹は、いまのところ中学の先生をずっと続けてゆくつもりのようだから、伯父に期待を向けられても困るのだろう。
「徹兄、継ぐ気持ちはあるのか?」
「……さあな。いまの俺は中学の教師が楽しくてならない。まあ未来の俺はわからないが……まず十年は変わらないんじゃないかと思うな」
「高校の生徒もそれなりに可愛いけどな」
「そうなんだろうがな」
徹は笑みを浮かべ、顎に手を当てて考え込んだ。
「卵の殻……生まれるために、自分を保護してくれてる丈夫でありがたい殻をさ、よわっちい黄色いくちばしで、必死になってヒビを入れようとしてる。……そういう感じわかるか?」
「わかる気がする」
徹は真剣な瞳で頷いた。
「保護されてれば楽チンだ。……ぬくぬくした卵の殻の中にいながら、それの心地良さはわかっているが、苦しくても痛みをともなっても、殻にヒビを入れて、自分に取り付いてる殻を取り去りたがってる」
うまい比喩表現だと思えた。啓史自身にも覚えがある。
「そういうやつらと一緒にいたい……みたいな……な」
「ああ」
「その点、高校生ってのは、その殻をすでに脱ぎ終えてる時期な気がするんだ」
「それって、殻を脱ぎ捨てたばかりで、もろさがあるってことだろ?」
「個人差あるけどな。さっさと殻を脱ぎ捨てられたやつは、高校になる頃には、早々と自分を確立してる」
「そうだな」
「それで? 実習はどうだったんだ?」
「俺は高校の教師がむいてると思う」
「そうか。良かったな」
啓史は頷いた。
最後の授業で、生徒たちに礼を言われた。
礼を言われるようなことは何もしていなかったから、照れよりもきまりが悪かったが……生徒たちの誠意は本物で……
花束なんか手渡されるとは思いもしなかった。
啓史と仲良くなった野郎たちときたら、女生徒と一緒になって泣くし……
今生の別れと思ったからだろう。
もうこの先、啓史と会う事もないのだと、やつらは思っていただろうから……
来年また顔を合わせることになるのを知っている啓史には……
「なあ、エノチビとは一度も会わないままだったのか?」
啓史は心の中で顔をしかめ、思わず舌打ちしそうになった。
「会ったよ」
「なんだ? 会ったのか? なんで教えてくれないんだよ。だが、ほんとにエノチビか? 名札確かめたのか? 榎原だぞ」
「榎原の名札つけてたから、間違いないだろ」
「それで? どんな話をした?」
「話はしてない」
「なんだよ。お前、会っておきながら声かけなかったのか?」
「一年坊主とは接点ないんだよ。受け持たせてもらえたのは二年生だけなんだからな。すれ違いざま、話したこともない相手に、話しかけられるかよ」
「話しかけろよ。それで、元気そうだったか?」
「ああ。萎れちゃいなかったよ」
徹がむっとした顔をした。
「お前な。ひねくれた言葉使って報告するのやめろよ。元気だったなら、元気だったでいいだろうが!」
「萎れちゃいなかったんだから、元気だったに決まってるだろ」
「それで? ……まさか、報告はそれで終わりか?」
味気ない料理を食ったような顔で、徹は物足りなさそうに尋ねてきた。
どうにも申し訳ない気分にさせられ、啓史は眉を寄せて記憶を探った。
「いつも同じ女子学生と一緒だったな」
「一緒の?」
「ああ。背の高いやつ。ショートカットで、しっかりしてそうな子だったな」
「エノチビの友達か?」
「そうだと思うよ。俺が見かけるたびに、一緒にいて、楽しそうに話してたからな」
「そうか。……そうかそうか」
徹はずいぶんと嬉しげに言葉を繰り返す。
「そんな仲の良い女友達ができたなら、もう大丈夫だな」
「大丈夫? なんで?」
「エノチビは、あんま積極的にひとに話しかけるタイプじゃなかったからな。自分から友達になりましょうとか言えるやつじゃないんだ」
それはそうなのかもしれない。
啓史と目を合わせたときも、ひどく恥ずかしそうに顔を赤くしてたし……
「で、あの顔だろ?」
同意を求められて、啓史はいくぶん戸惑った。
あの顔?
「やたら可愛い整った顔してるんで、女子の連中には友達になるの敬遠されるのか……まあ、少なくとも中学のときは、そんなだった」
啓史の脳の記録庫から、ちびすけの顔がぽんとリアルに飛び出てきた。
記録の保存が良すぎたのか、息づくようなリアルさで、ちびすけは表情を変える。
いつもはその存在を思い出しもしない心臓が、やにわに存在を誇示しようと思いついたかのように、鼓動を乱した。
「なんだ?」
啓史は思わず呟いていた。
「なんだじゃねぇよ。話甲斐のないやつだな。まあ、お前はエノチビなんかにゃ興味なんてないんだろうけどさ」
そんなんじゃないと言うべきところだろうが、啓史は黙ったまま徹の話を流した。
脈の奇妙な乱れが、なぜ起こったのかわからないのだが……わからないからなのか、……むかついた。
「……もう少し、身を入れて聞いてくれてもなぁ。あー、あいつらどうしてっかなぁ?」
徹は不平を言いながらも、さほど啓史を責めていないらしく、椅子に深くもたれて、頭の後ろで腕を組んだ。
あいつらとは、もちろんちびすけと同じに、徹が中学から送り出した教え子たちのことだろう。
「他のやつらとは、連絡取ってるのか?」
「うん? ああ、電話くれるやつもいるし、頻繁にメールくれるやつもいる」
その中には、あのバレー部の主将も入っているのに違いない。
ちびすけとバレー部の主将が付き合っているのか、この兄なら知って……
啓史は胸に湧いた考えを、苛立ちながら振り捨てた。
俺ときたら、何を考えてる? そんなこと、どうだっていいだろ。
啓史は考えるより先に立ち上がっていた。
「徹兄、コーヒーでも飲む?」
「おお、もらうかな」
啓史は徹の返事に頷き、キッチンに向かった。
「まあ、エノチビの話が聞けて良かったよ。いまだにひとりぼっちで学園生活送ってやしないか心配だったんでな」
キッチンまで聞こえてきた徹の言葉を、啓史はそのまま受け流した。
コーヒーの用意をするために棚からカップをふたつ取り出しながら、割り切れない思いをもてあましていた。
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