ナチュラルキス
natural kiss

啓史サイド
嫌いな自分



啓史……

空耳のような音が、自分の名前だったような気がして、啓史は停止させていた瞼を数ミリ上に上げた。

「啓史」

その呼びかけに即座に反応し、啓史は後方に振り返った。

開いたドアの前に、父が立っていた。

啓史は自分がいまどこにいて、何をしていたのか、ゆっくりと自覚していった。

「何?」

父親は、啓史の反応を見ていて、何も言わない。

「父さん、何?」

沈黙が無性に耐えられず、啓史は言葉を繰り返した。

「いや……どうだ?」

仕事の進みはということのようだ。啓史は頷こうとして止めた。

「あ……思うほど……やれてないかな」

たぶん……

啓史は、答えを求めてパソコンの画面を見つめた。

ここに来た時点から、まったく何も変化がない画面……

啓史は自分に呆れた。

何やってんだ、俺……

「いま、何時?」

「七時半だな。飯、食うだろ?」

「あ……うん」

今日は日曜日だ。人気のない職場に啓史が来たのは五時……

二時間以上経っているというのに……時が過ぎた実感がない。

「あんま腹減ってないけど……食うかな」

宗徳の考え込むような表情をちらりとみた啓史は、すぐに視線を外した。

「行くか?」

「ん」

啓史はパソコンの電源を切り、立ち上がった。


「寒いな」

夜道を家へと辿りながら宗徳が言った。

啓史は頷いた。

「寒いね」

本当に寒かった。夜風を頬に受け、その冷たさに思わず肩が強張る。

啓史は上着のポケットに、無意識に両手を突っ込んだ。

息を吐き出して空を見上げると、冴えた光を放つ月があった。

「月、綺麗だな」

「何かあったか?」

さりげない問いかけに、啓史は肩を竦めた。

「別に、これといって何も」

「そうか?」

「ちょっといま、集中力がないってか……それだけ……」

「そうか」

「ん」

「仕事、無理することないんだぞ。教師をやる間は、そちらだけに集中したらどうだ?」

「そういうんじゃないんだ」

仕事に追いまくられているほうが、いいくらいで……

「女か?」

啓史はギクリとして父に向いた。

「は? なんでそうなるんだよ!」

「そうか」

怒鳴るように言ったというのに、さらりと受け流されたことに、怒りが煽られた。

何がそうかだよ!

「父さん、独り決めして、いい加減なこと思い込むようなことしないでくれな」

「わかった」

啓史はもどかしさをぐっと噛み締めた。

何がわかっただ、ちっともわかっちゃいない!

父の表情には抑えた笑いまであるし……

馬鹿馬鹿しい……何が女だ……

むしやくしゃしてならない啓史は、上着のポケットの中から、指が触れている煙草の箱を取り出した。

「やめておけ」

家の門を前にして、煙草を一本取り出した息子に、父は鋭く言う。

言葉の響きに、啓史の反抗心はかえって膨れ上がった。彼は強張った顔で、自分の服のどこかに入っているライターを探しながら口を開いた。

「別にいいだろ。家の外なんだから」

「啓史」

余裕のある諭す声に、啓史は刃向かう様な瞳を向けた。

「私の言いたいことは、わかってるはずだ。この最近、吸いすぎだぞ」

「好きで吸ってんだ」

「啓史。煙草の量だけじゃない。お前が痩せてきてるようだって、久美子が不安がってる……」

啓史はライターを探していた手を止め、目を瞑った。





やりきれなさが心に渦巻いた。

父の言葉……母の控えめな危惧を含んだ眼差し……

順平の瞳には責めを感じた。

徹兄は、なに考えてんのかわからなかったし……

俺が悪いってのか?

むしゃくしゃしてならず、啓史は持っていたコーヒーカップを勢い良くテーブルに置いた。

中身のコーヒーが飛び散り、テーブルに少し零れた。

彼は零れたコーヒーを、睨みつけた。

俺はな、自分の好きに生きていいはずの成人男子だぞ……

だが、こんな風にふて腐れてベッドに座り、苦いコーヒーを喉に流し込みながら、八つ当たりしている自分こそが嫌だった。

何やってんだ……俺。

啓史は勢いよくベッドに仰向けにひっくり返った。

あの野郎が、悪いんだ。

罪のない顔しやがって……諸悪の根源のくせに……俺を惑わせやがって!!

ちびすけのくせに……

その言葉は、啓史の心にも浮いて聞こえる。

もう、ちびすけなんかじゃない……

あれから……一年半くらいしか経ってないってえのに……

あの化けようはなんだ?

おかしいだろ?

馬鹿にしやがって!

馬鹿にされてるわけではないのは重々承知だが、他に持って行き場がないこのもんもんとした思いを、ともかくなんとか払拭したかった。

ちびすけのことなど、頭から完全に追い払ってしまいたいのに、あれからひと月も経とうかというのに……どうしてもそれができず……心を持て余している。

もちろんわかっている。ちびすけの何が悪いわけでもない……

「あー、やってられっか」

啓史はポケットから携帯を取り出した。

「飯沢、暇か?」

「おお、珍しいな」

いつもと変わりない親友の声に、ひどくほっとしたものを感じた。

「いま、暇なのか? それとも、また合コンでもしてんのか?」

チッと舌を鳴らす音が聞こえ、馴染みの癖に触れて、啓史は口の端に笑みを浮かべた。

「お前なぁ、言っとくが、俺はそんなに合コンばっかりしてねぇぞ」

「いつも誘ってくるじゃないか」

「それはだなぁ、お前に、正しい成長を遂げた青少年の楽しさというべきものを、味あわせてやりたいがための、俺の思いやりの気配りであってだな、お前がいつか、その気になるんじゃないかとな……」

「それで、いまどこにいる?」

「家だけど」

それまでの、説教くさい御託風味の演説をけろりと捨てて、飯沢は答えた。

「これから行っていいか? 酒買って持ってくから、今夜飲もうぜ」

「おおっ、どうしたんだよ? お前から誘ってくるなんてよ」

「それじゃ、あとでな。もちろん今夜は泊めてもらうから、お袋さんによろしく言っといてくれよ」

啓史は返事も待たずに携帯を切り、スポーツバッグの中に、一泊するのに必要なものを突っ込むと、厚地の上着を手にして、すぐさま部屋から出た。





 
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